第35話
「ニナ!」
すたすたと歩くニナを、シアは足をもつれさせながら追いかけた。
「場所を教えてくれれば、一人で行くわ!」
立ち止まったニナが振り返った。
「集会所の場所はいつも変わるの。地下水路の王に見つからないようにしなきゃいけないから。一緒に行ってあげる」
ニナが歩きだした。職人町の路地では金槌の音が響き渡り、通り過ぎた小さな広場では女たちが井戸端会議をしていた。
二度と行くつもりはなかったのに。
無言のニナと歩きながら、シアは我ながら驚いていた。
あんな神々に頼ることになるなんて――。
二人はファッシノ河につながる細い運河にぶつかった。
ニナは階段を降り、運河沿いの小道を歩いた。運河には料理や材料を売る小舟が浮かび、商人たちが声をかけてきた。
船溜まりに人が集まっている。ニナと同じ沼人たちだ。黄緑色の肌の生真面目な表情をした少年から、シアは蝋燭立てを受け取った。男たちが場所を空けると、運河の壁に暗い穴が現れた。
ニナが地下水路に入り、シアも続いた。
狭い水路で、シアが手を伸ばせば、壁や天井に届いてしまう。荒れた側道は歩きにくく、虫のような何かが蠢いていたが、シアは気にしないようにした。不安が強くなり、途中で引き返そうとも思ったが、ここから一人で〈フリュネの誘惑〉まで帰れるとも思えない。覚悟を決めたシアは進み続けた。
地下水路の奥に小さな灯りが見えた。
近づくと水路の分岐点だった。暗闇の中に、カンテラを手にした信者が一人で立っていた。魚の着ぐるみを頭に被っている。間違いなく、この先でダゴン教の集会が開かれているのだ。
信者は何も言わず、左へ腕を伸ばし、ニナとシアはそちらの水路へ進んだ。
何度か同じように、魚の顔をした信者に従って地下水路を折れ曲がると、壁にうがたれた窪みに辿り着いた。小さな階段を上ると、信者が扉を開けてくれた。通路の先に大きな空間が現れた。
祭壇があるだけの殺風景な場所だった。空気は湿っていて、ひんやりとしている。海辺のようなツンと塩辛い匂いもした。正面の祭壇では蝋燭の火がともされ、真っ赤な蛸の彫像が置かれていた。
蛸の神様――。
やっぱり違和感は拭えない。
シアが祭壇を眺めていると、知り合いを見つけたニナが立ち話を始めてしまった。仕方なく、部屋の中央に集まっている信者のほうへ歩いていく。
ほとんどは貧しい格好をした沼人たちだが、目を閉じて熱心に祈っているヒトを見つけ、シアは隣の床に座った。改めて横を向くと、その女性が女主人のルマンディアだったので、息が止まるほど驚いた。
どうして、ルマンディア様がここに!?
〈フリュネの誘惑〉を仕切っている女主人は、年齢不詳の謎めいた美女である。だが、そもそも集会で知り合ったニナからルマンディアを紹介されたのだ。彼女がダゴン教の信者であっても不思議ではない――。
そうかもしれないが、やはり気になる。
隣の女主人は、呟くように祈りの言葉を捧げているが、意を決して、
「〈お母様〉……」
とシアは囁きかけた。
祈りを中断されたルマンディアは、シアを見て驚いたようだったが、
「あら、とうとう来てくれたのね」
と優しく笑った。
「その、ニナに案内されて……」
と言い訳のように言葉を濁しつつ質問した。
「どうして〈お母様〉のような方が、この集会に……?」
「不思議? でもヒトの信者も少なくないのよ?」
とルマンディアは信者が集まった部屋を見まわした。
「娼婦としてちやほやされていた頃は、みんなと同じように愛の女神を信じていたわ。でも、可哀相な娘たちを世話する側に回ると、やり切れない思いばかりになってしまってね。それでダゴンを信じるようになったの」
シアは気になることも訊いてみた。
「まもなく、私は〈貴婦人〉になるのでしょうか?」
「ヴィヨルンドに付くようになったことね」
とルマンディアは頷いた。
「あなたはいままで目立たないようにしていたから、私もあえて放っておいた。でも今朝、イオアン様があなたのことを褒めたの。公妃様の写本のことで何か献策したんでしょう? それでいい機会だと思ったのよ」
「そうだったんですか……」
シアはショックだった。イオアンに近づくために良かれと思ってしたことが、逆に娼婦になるまでの時間を早めてしまったのだ。
「心配なの?」
「まだ気持ちの整理がつかなくて……それで、またここに来たんです」
「気持ちは分かるわ。でもね、シア……」
とルマンディアが諭した。
「〈フリュネの誘惑〉は娼館なの。いずれは進む道よ。それを拒むというのなら置いてはおけないわ。でも、別の道を選ぶ余裕があるのなら構わないのよ。あなたもいい年齢だし、どちらにせよ選ばなくてはね」
シアは床を見つめた。
「選択肢はありません。お金が必要なんです」
「あまり思い詰めてもいけないわ」
とルマンディアが、シアの顔を覗き込んだ。
「何か欲しいものがあるの? ダゴンが叶えてくれるかもしれない」
「……本当ですか?」
「かもしれない、よ」
とルマンディアは微笑した。
「あまり多くを望んでは駄目、大切なものを一つだけよ。あとはダゴンにすべてを委ねるの。あなたが真剣であればあるほど、神は応えて下さるわ」
「はい……」
優しい表情でシアを見たルマンディアは、前を向いて、再び祈り始めた。
部屋は信者でいっぱいになった。百人以上はいるだろうか。やがて部屋の奥の扉が開き、ダゴン教の祭司が現れた。
白いローブを着た四人の祭司は尖った三角帽を被っている。彼らは烏賊のように見えた。中央の祭司長だけが全身を覆う魚の着ぐるみをまとっている。シアは笑ってしまいそうになり何とか堪えた。奇妙な格好だが、祭司長の着ぐるみの鱗は貝殻でできており、きらきらと螺鈿のように輝いている。
年老いた祭司長が、ダゴンの教えを信者に説き始めた。
ダゴンは弱い者、罪深い者、狂っている者を救います。救われるのは強い者、善き者、正しい者ではありません。日の当たらない場所で、ひっそりと息を殺すように生きている者たちほど愛されるのです――。
まわりの信者が教えに耳を傾けているなか、
心の底から欲するものだけを願い、他のすべてを捧げるのです――。
という祭司長の言葉が、シアの心を捕らえた。
私が本当に欲しいものって何かしら?
アミアン家の復興?
いいえ、失いたくないのは、私たち一族が数百年間伝え続けてきたもの――それさえ残るのなら、アミアン家の犠牲すら惜しくない。
でも、あまりに大それていない?
もっと具体的な、いま切実な望みは何かしら?
そう、イオアン様が欲しい――!
その心を掴めるのなら、私のすべてを捧げられるわ。
シアは自分の胸に手を当てた。
でも、いちばん欲しい願いを叶えるには、いちばん大切なものを捧げなくては。
私には時間がない。
すぐに実行しよう。
そう、今夜――。
覚悟が決まると、祭司長の教えも心に響いてきた。やがて説教が終わり、真言を唱えましょうと祭司長が全員に呼びかけた。
真言を唱えれば悩みは消えます。あなたは何もする必要はありません。ダゴンの力にただ委ねるのです――。
まわりの信者がいっせいに祈り始めた。前回の集会では抵抗があったシアも、今回は素直に唱えられそうな気がした。
今夜、願いを叶えて下さい――。
もう一度シアは強くダゴンに祈り、真言を唱え始めた。
嵐に荒れ狂う海のようだったシアの心が少しずつ落ち着いてゆき、海の中へ、さらに光の届かない静かな海の底へと沈んでいく。信者たちの真言は重なり合い、大きな海のうねりのように響き渡るのだった。
「父なるダゴンと母なるヒュドラ、父なるダゴンと母なるヒュドラ、父なるダゴンと母なるヒュドラ、父なるダゴンと母なるヒュドラ……」




