第34話
ニナの深緑色の髪が見えなくなった。
彼女は城壁に沿って西に向かっていた。シアは息を切らして追いかけた。〈陰の街道〉から離れると、道は急に狭くなった。
高い城壁にもたれかかるように崩れそうな家屋が建っている。昼間でも陽が差さず、暗い雰囲気の路地。少しでも空いている空間には避難民のぼろ小屋。川魚を焼く屋台からの香ばしい匂いに、荷車を曳くヤギの鳴き声。
〈死者の日〉の仮装をした子供は顔を炭で黒く塗り、その上に白い骸骨を描いている。小走りのシアとすれ違う動物の仮面をつけた者たち。虎、牛、犬、兎の顔――これらの仮面は先祖の魂を表しているという。
いた!!
ニナが絨毯を脇に抱え、袋を肩にかけて歩いている。
ようやくニナを見つけて、シアはホッとしたが、まわりを見回して不安にもなる。まったく知らないところだった。
とはいえ、イグマスに到着してからの数か月、シアが歩いたところといえば、祖父の住む貧民街と〈フリュネの誘惑〉の往復路ぐらいだった。この巨大な都市がどれほど広いのか、いまだに把握していない。
城壁の足元で人だかりができていた。ニナがその中に消えていった。
面白い大道芸人かしら?
シアは期待するように近づいていったが、陽気な掛け声が聞こえるわけでもなく、楽師の奏でるメロディが鳴り響いているわけでもなかった。
代わりに感じたのは、鉄の混じった血の臭い。
この時点で引き返すべきだったかもしれないが、ニナを探すことしか意識になかったシアは、人混みを掻き分けて、前へ進んだ。後ろから押された市民たちは、シアを暗い表情で振り返った。
城壁にもたれるように座り込んだ若者が、視界に入った。
服を脱がされた若者の体は傷だらけだった。両足は大きく広げられ、股間のものが切り取られて、地面を赤黒く染めている。生きていたときはハンサムな若者だったかもしれない――だがいまでは目は虚ろに夏空を眺め、大きく開いた口には血塗れの何かが押し込まれていた。
城壁には赤い文字でメッセージが書かれていたのだが、強烈な吐き気を感じたシアはそれを読みとる余裕もなかった。死体に背を向けると、路地の向こう側まで駆けていき、胃の中のものを嘔吐した。
路地では、四つん這いのシアを気にするわけでもなく、市民や祭りの見物客が行き交っている。
数カ月ぶりに死体を見たシアは、内乱が続く帝都の惨状を思い出していた。
そして、生き延びた使用人から聞いて以来、シアの頭の中で何度も繰り返されてきた光景――暗い夜空に火の粉をまき散らしながら焼け崩れていく一族の屋敷と、名も知れぬ傭兵の手にかかって死んでいった兄弟たち。
おそらくミヴ家に命じられた傭兵たちは、政治的な動機など何も知らなかったに違いない。わずかな金のためだけにやったのだ――。
「大丈夫?」
と心配そうな声に顔を上げると、ニナが立っていた。
荒い呼吸を繰り返していたシアは、すぐには返事もできず、ニナを見返すことしかできない。
ようやく息が落ち着いてきたシアは、
「ニナはどうしてここに?」
と尋ねた。
「もちろん、イオアン様の仕事よ!」
とニナが嬉しそうに答えた。
「私はいま、〈暁の盗賊団〉を調べてるの!」
「……あれは盗賊の死体なの?」
「ううん、総督府の密偵よ。あの殺され方は、女絡みで密告したからなんだって、みんなが言ってる。噂を聞いて急いで来たの!」
上機嫌のニナに、シアが何も言い返せないでいると、
「じゃあ、もう行くね」
とニナは立ち去ろうとした。
「待って!」
とシアは、ニナのぼろぼろの上着を必死に掴んだ。
「あなたに教えて欲しいことがあるの!」
「私に?」ニナが首を傾げる。
「初めてあなたと出会ったあの場所を教えて。行き方が分からないの」
「あそこはねえ……」
と振り返ったニナが、シアの手を引いて立たせた。
「まずいわ。役人たちがやって来る。すぐにここを離れなきゃ!」




