第33話
シアは驚いた。
「えっ、イオアン様が禁欲中?」
「私が縛られていたのは見たでしょう?」
とヴィヨルンドが周囲を見回し、小声で続けた。
「でも、あれは特別なことじゃないの。他の〈貴婦人〉たちも、いろいろ実験台にされたけど、いままでイオアン様は、どの娘とも寝ていないのよ」
二人は昼時の旧市街を歩いていた。
シアは今日になって、突然〈フリュネの誘惑〉の女主人から、〈貴婦人〉ヴィヨルンドに付くように命じられた。いまはドレスを引き取りにいった仕立屋から、〈フリュネの誘惑〉に帰るところである。
ドレスの包みを抱えたシアは地味な恰好だが、〈貴婦人〉のヴィヨルンドは胸元も露わな青いドレスを着ていた。〈陰の街道〉の男たちが、ちらちらと好色な視線を投げかけているが、ヴィヨルンドはお構いなしに喋り続けている。
「……だからイオアン様は、強い意志で禁欲されていると思うの」
シアはイオアンの裸体を思い出し、顔を赤くした。
「でも二十代の男性が、そんな我慢をできるものでしょうか? まわりには最高級の娼婦ばかりなのに……」
「そうね、それは私も不思議なの」
とヴィヨルンドは頷いた。
「イオアン様を誘惑した〈貴婦人〉は、いままでも何人かいたのよ。愛人にでもなれたら一生安泰な暮らしですもの。でも、誰も成功しなかったわ。全滅……」
二人の視線の先には、旧市街を取り囲む灰色の高い城壁が見えてきた。
「禁欲はともかく、なぜイオアン様は実験するのでしょう?」
「学者みたいなものかしらね?」
とヴィヨルンドが首を傾げた。
「大図書館には、禁書になった性にまつわる書物も、たくさん所蔵されているらしいわ。イオアン様はそれが本当か確かめているのよ」
「禁書ですか! 怖い気がします」
「あら、そんなことないのよ……」
とヴィヨルンドが密やかな笑みを浮かべた。
「そういう古代の本には、女性のどこに触れれば最大限の愉悦を引き出せるか、事細かに書いてあるの。イオアン様の魔法の指でそれを試すと凄いのよ。ああ、快感のあまり何度失神したことかしら……」
「……ヴィヨルンド様!」
あられもない表情の彼女を、シアが小声で諫めた。
「まわりの人が見てますよ!」
セウ家の兵士が守るイグマスの南大門は、〈死者の日〉の祭りの初日とあって、いつも以上に混みあっていた。人の流れはゆっくりとしか進まない。
ヴィヨルンドは涎を拭った。
「ふふ。あなたもそのうち分かるかもね」
「私がですか?」
「だって、私に付くように命じられたんですもの、シアはまもなく〈貴婦人〉になるはずよ。イオアン様が実験台に選ぶのは、売れっ子の〈貴婦人〉なの。あなたも経験する可能性があるってことよ」
「この私が〈貴婦人〉……」
もちろんシアも〈フリュネの誘惑〉にいる以上、自分が高級娼婦である〈貴婦人〉に選ばれる可能性があることは分かっていた。だが、それはもう少し先だと考えていたので、急に現実を突きつけられた感覚だった。
「……でも私は入って三カ月ですよ。ようやく慣れてきたところなのに」
人混みの中の二人は、狭い南大門をくぐりつつあった。
「あら、そんなこと関係なくってよ」
とヴィヨルンドが笑った。
「見込みがあると思ったら、ルマンディア様はすぐに〈貴婦人〉に引き立てるわ。逆に駄目な子は、いつまでたっても〈侍女〉だけど」
シアは顔を曇らせた。
「あと、どれぐらいで私は……」
「〈貴婦人〉になるかってこと? そうねえ、いろいろ覚えなきゃいけないし、あとひと月ぐらいかしら?」
と答えたヴィヨルンドが勇気づけた。
「そんなに心配しなくてもいいのよ。最初のときは不安でしょうけど、〈フリュネの誘惑〉のお客様は、みんな優しい方たちだわ。シアなら、すぐに贔屓にして下さる男性も現れると思うし!」
「……そうですね」
南大門を抜けると、夏の日差しが降り注いだ。左側にはファッシノ河の船着き場もあり、風景は落ち着いた旧市街から、活気ある新市街へと変わった。
シアの胸に、未来への不安が重くのしかかる。いままでは、まだ貴族の娘の気分でいられた。だが娼婦になれば、二度と後戻りはできないのだ。
時間が足りない!
イオアン様とも少ししか話していないのに――。
「ほら、あそこ!」
思い詰めた表情のシアとは対照的に、背の低いヴィヨルンドは何かを見つけたらしく、楽しそうに人混みのなかでピョンピョンと跳ねた。
「いつもの物乞いの子じゃない?」
シアも目を凝らすと、〈陰の街道〉を横切るニナが遠くに見えた。
そうだわ!
あそこに行けば、この気持ちも晴れるかもしれない!
そう閃いたシアは、
「すみません、これをお願いします!」
とドレスをヴィヨルンドに押しつけると、駆け出した。
「ちょっと待ちなさい、シア!!」
とヴィヨルンドは叫んだが、シアは人混みに消え、見えなくなってしまった。




