第3話
イオアンが耳を澄ませると、遠くから床が軋む音が聞こえ、やがて隠し階段から〈侍女〉のシアの姿が、薄暗い闇の中に現れた。
「どうした?」
とイオアンが質問し、それでもシアが近づいてきたので、
「そこで止まれ」
と命じた。
「何か御用でもあればと……」
とシアが丁重に答えた。
「下から、わざわざ呼ぶのは面倒でございましょう?」
「べつに用などない! さっさと戻れ!」
そうイオアンが怒鳴ると、シアは素直に頭を下げ、再び階段を降りていった。
シアの足音が聞こえなくなると、
「何なんだ、あの女は……」
と口にして、ようやくイオアンは緊張を解いた。
心配そうにカルハースが
「ここは大丈夫なのかね? 誰かに聞かれたりしないだろうな?」
とイオアンに尋ねた。
「あの〈侍女〉は……まだ教育中なんだ。私からもよく言っておく」
「侍女のことじゃない。この場所のことだ」
「屋根裏部屋か? 他の部屋とは離れているし、仮に何かを見聞きしても、ここの〈侍女〉たちは余計な詮索をしない」
「さっきの娘はどうなんだ」
「問題ない」
「ほう、自信たっぷりだな」
「当たり前だ。ここの支配人なんだから」
「君が娼館の支配人?」
と言って、カルハースは口元を歪めた。
「それは冗談のつもりかね? 私は君がセウ家の嫡男だと知っているし、だからこそ、こうやって相談しに来たのだ」
「そこに矛盾は生じない」
とイオアンは苛々と説明を始めた。
「〈フリュネの誘惑〉はセウ家の所有物だ。もともと別荘だったのを娼館に改装しただけの話。それで名ばかりだが、私は支配人ということになっている。実際の運営はルマンディアに任せているがな」
話を聞いたカルハースは、
「いやはや、いまや伯爵家が娼館で儲けるご時世か!」
と呆れた顔をした。
「べつに珍しくもなんともない」
とイオアンはムッとした。
「私娼対策のために、総督府から命じられただけのことだ。それより、さっきの脱獄とはいったいどういうことだ!!」
「まあまあ、まずは座って話そうイオアン君」
とカルハースが宥めた。
「君の話では、どうやら我々に残された手段は脱獄しかないようなのだよ。それに話を聞いてもらえば、それほど無謀ではないと分かるはずだ」
「無謀だろうが!」
イオアンは椅子に座ったが、興奮は収まらなかった。
「牢獄塔を見たこともないのか?」
「見たことはあるさ。ただし遠くからだ。衛兵たちが大勢いたのでね」
「当たり前だ! 牢獄塔は近衛兵の兵舎のすぐそばだ。巡察隊や衛兵たちの詰所もある。普通なら近づくことすらできない場所にあるんだ」
「確かにそのようだな。だからこそ今なのだよ」
とカルハースがニヤリとした。
「明日から何が始まる?」
「明日?」
「イグマスで生まれ育った君なら分かるだろう。すでに町では準備が進んでいるし、市民たちはその話題で持ちきりだぞ?」
「ああ、〈死者の日〉の祭りのことか……」
帝国では八月の三日間、冥界にいる先祖の魂を慰める習慣があった。そのため町の至るところに祭壇をつくり、御馳走を供える。そして最終日の満月の夜には、盛大なパレードが催されるのだった。
「今年もまた、その季節がやってきたのか……」
とイオアンはうんざりした。神経質な彼は騒がしい祭りが嫌いだった。
「それが、何か関係するのか?」
「まだ分からないのかね?」
とカルハースが嬉しそうに揉み手をした。
「イグマスの〈死者の日〉の祭りは有名だ。大勢の見物客が訪れる。衛兵は治安維持のため、町じゅうに分散するはずだ。つまり牢獄塔の警備が、一年中でいちばん手薄になるということだよ!」
イオアンは腑に落ちない表情でいる。
「……だから、いま脱獄させようというのか?」
「そうだとも!」
とカルハースが勢い込んで答えた。
「明日の前夜祭も含めて、残り四日間が勝負だ。この好機を逃したら、牢獄塔から脱獄させるのなんて到底無理だろう。今やるしかないのだよ!」
「おいおい、ちょっと待ってくれ」
とイオアンが制した。
「まさか、衛兵がいなければ、すべて上手くいくと思ってるのか? 祭りになっても兵士の数が減るだけだ。強固な牢獄塔はそのままだし、囚人の世話をする獄吏たちもいる。脱獄なんて成功するはずがない」
「いいや、可能性はある!」
とカルハースは自信たっぷりだった。
「それに仮にだぞ……」
とイオアンが声をひそめて訊いた。
「脱獄させるとして、どれだけ動員できるんだ? 〈首なし騎士団〉の他の騎士も協力してくれるのか?」
「私だってそんな甘い考えは持っていないさ!」
とカルハースがおかしそうに笑いだした。
「我々は嫌われているからな、期待できるはずがない。だから動けるのは我々二人と、君も知っているダルトン、ブシェル、ディオンだけだ。君も入れて、六人で実行することになる。少数精鋭というわけだ!」
「たった六人……絶対に協力なんかしないぞ!」
「とにかく君はいてくれるだけでいい。参加することに意義があるのだ!」
「……冗談だろ」
イオアンは愕然としたが、カルハースの表情は真剣だった。
もう他人の忠告など耳に入らないのだろう。本気なのだ。本気で、牢獄塔から脱獄させられると思っている。いや、もしかしたら失敗することも覚悟の上で、それでも実行しようとしているのか――。
苦悩しているイオアンを、カルハースが不思議そうに眺めている。
「我々が失敗するとでも思っているのか?」
「ああ、絶対にな!」
「だとしたら、君も困るんじゃないのかね?」
「それは……どういう意味だ?」
「我々が牢獄塔で失敗したらどうなる?」
とカルハースが問いかけた。
「徹底的に、役人たちは我々の背後を調べるだろう。いずれ君との関係も明らかになる。我々は大勢の客や娼婦たちに見られているし、ひと月前のこともある。かなり君の立場も危うくなると思うのだが……?」
「それは脅しのつもりか?」
と尋ねたイオアンの声は掠れている。
「いいや心配しているのだよ、かけがえのない君の将来をな」
とカルハースは薄い笑みを浮かべた。
「我々としても、イオアン君にはセウ家の当主になってもらわないと困る。そのためにも協力して、脱獄を成功させたほうが賢明だと思うのだがね。君の輝かしい経歴に傷をつけたくないのだ!」
平然と語るカルハースに、イオアンは言葉がなかった。
もうカルハースたちに手を貸すより他ないのか? しかし、それは破滅を意味する。彼らには現実が見えていないのだ。この百年、イグマスの牢獄塔から逃げ出せた者などいない――。
ああ、どうしたらいい!!
頭を抱えたイオアンはじっと床を見つめた。
「そうだ!」
イオアンがゆっくりと顔を上げた。
「もっといい方法がある……これなら成功確率が格段に上がるはずだ……」
「そんな夢のような方法があるのかね?」
とカルハースが微笑した。
「あるのなら、ぜひ聞かせてほしいものだ。ダマリさえ取り戻せるのなら、私はどんな手段でも構わないのだから」
「もちろんあるさ」
と頷いて、イオアンは二人の顔を見回した。
「これから、お前たちが〈暁の盗賊団〉を探しだすんだ」




