第26話
「ああ、やっと来ましたか」
とイオアンが安堵していると、侍女の後ろから、侍女長が顔を出した。
「サディア様、すでに謁見の時間は超過しております!」
「いいの。気分を変えるのに誰かの話を聞きたいわ。入れてちょうだい」
と公妃が許すと、侍女長の脇をくぐり抜けて、
「ありがとうございます!」
と汗だくのエルエレムが姿を現した。
イオアンが政務室の扉を静かに閉めた。
「エルエレムと申します」
と黒染めのローブを着たエルエレムは、公妃の前で深々と頭を下げると、
「五つの帝国属州の総督であり、教皇様より公爵に任ぜられているタタリオン家の奥方であられるサディア様は、本日も麗しくあらせられ……」
と仰々しい言葉を並べ立てたので、
「与えられた時間はわずかですよ、祭司殿。手短に」
と公妃が遮った。
「では畏れながらも、本日のお願いへ」
とエルエレムは頭を下げた。
「タタリオン領におけるルラル教の布教を、正式に認めて頂きたいのです」
「正式に認める?」
と公妃は怪訝な顔をした。
「あなたがたは、すでに街角で布教していると聞いていますよ」
「教えを説くことは許されているのですが、信者が集まること、教会を建てることは禁じられておりまして……」
「いったい誰が禁じたの?」
「公爵様です」
「そうなの? 初耳だわ。あなた知ってる?」
と公妃はイオアンへ顔を向けた。
イオアンは首を横に振ったが、公妃も知らないのは意外だった。そこまで政務に熱心ではない公爵のイシュタルは、何かあれば公妃と情報を共有――と言えば聞こえは良いが、問題を押しつけることが度々あったからだ。
「御存知ではありませんでしたか……」
と驚いたエルエレムが深刻そうに告白した。
「一年前の謁見で、我々は公爵様を怒らせてしまったようなのです」
「イシュタルを……?」
と公妃は不思議そうな顔をした。
「あの人は宗教にはこだわらないほうだし、私なんかより、よほど温厚よ。どんなことをして怒らせたのか知りたいものだわ」
「怒らせたのは前任者のシャブリオン師で、詳しくは知らないのですが……」
とエルエレムは前置きをして、
「ルラル教の教義を興味深そうに聞いていた公爵様が、途中から機嫌が悪くなり、突然席を立たれて、謁見が中止になったのです。我々も非礼を詫びようと、役人の方々に理由を聞いたのですが、何も教えて頂けず……」
と困惑した表情になった。
「今日の謁見で、どうか公妃様からご助言を頂ければと」
「どんな教義を話したの?」
「我々ルラル教徒は、〈光の王〉を信じる者たちです。この教えは預言者ゾロアストレスによってもたらされ、開祖マニエによって確立されました。我々は光の象徴として、すべてを燃やし尽くす炎を聖なるものとし……」
「そういうことじゃないのよ」
と公妃が遮った。
「もっとイシュタルが気にしそうなこと。戒律とかあるんでしょう?」
「もちろんございます」
とエルエレムは恭しく頭を下げた。
「例えば、肉体は悪とされ、男女が交わることを許されるのは、子孫を残すためだけです。いわんや快楽だけを目的として肉欲に耽ること、さらには同性間の行為は厳しく罰せられるべきであり……」
「あー、分かったような気がするわ……」
と公妃が脱力したような表情になった。
「イオアン、あなたも分かったでしょう?」
イオアンは目を逸らした。
「……私にはさっぱり何のことやら……」
二人のやりとりを見ていたエルエレムは、
「どういうことでしょう……?」
と困惑した表情を浮かべた。
「まさに、いま話してくれた戒律の内容よ」
と公妃が教えた。
「イシュタルの痛いところを突いたわけね。まあ誰にでも触れられたくない嗜好はあるものですからね……」
「ああ! まさか公爵様がそのような!!」
とエルエレムが、何かに気づいたような叫び声をあげたので、
「祭司殿、声が大きい」
とイオアンが低い声で注意した。
「大騒ぎすることではなくてよ」
と公妃は表情を変えずに、淡々と説明した。
「男が男しか愛せないのは、帝国では珍しいことではないの。おそらく前回の謁見でも、美しく年若い小姓が同席していたはず」
「予想外ではありましたが、その問題であるのなら……」
「何とかなりそう?」
「はい。新しい総責任者のトルレシオン師は柔軟な方ですから、そこには目をつぶって頂けるかと……」
「その恰好も気をつけたほうがいいわよ」
「私の恰好、ですか?」
雪エルフのエルエレムは、自分の質素な黒いローブを見下ろした。
「イシュタルは子供みたいなところがあるの。びっくりする物、キラキラした物、派手な物が好きなのね。だから、そんな地味な黒いローブではなく、もっと煌びやかな服装で謁見したほうがいいわ」
「では、儀式用の炎のように赤いローブをまといましょう!」
とエルエレムが叫んだ。
「ああ、輝かしい光が見えて参りました。さすが公爵様をよく分かっておられる! 公妃様には、何とお礼を申し上げれば良いのでしょうか……」
「それならば良かったわ」
と公妃は寂しげに微笑んだ。
「あと、珍しい文物を献上すると良いでしょう」
とイオアンも脇から助言した。
「おそらく前回の謁見では、高価な眼鏡を贈られたと思いますが、白亜宮で自慢している公爵様を、何度かお見かけしましたから」
「それなら問題ありません!」
とエルエレムは喜んで手を叩いた。
「まだ我々の手元には、数多くの貴重な品々が……ああ!!」
突然叫び声をあげたエルエレムが、膝から床に崩れ落ちた。
イオアンはぎょっとした。
「ど、どうかしましたか、祭司殿」
「何ということでしょう!」
と天を仰いだエルエレムは、白髪を搔きむしった。
「公爵様にお贈りすべき品々を、盗賊たちに盗まれてしまったのです!」
「盗賊に!?」
イオアンがエルエレムのそばに駆け寄った。
「詳しく聞かせて下さい」
「昨夜未明のことでした……」
とエルエレムが思い出す表情になった。
「我々ルラル教の祭司は、貿易商であるアグイレロ殿の屋敷に泊まっております。私は寝ていましたが、そのあいだに押し入られたようです。朝になって総督府の兵士たちがやって来ました。〈暁の盗賊団〉という者たちだそうです。私も取り調べを受け、それで謁見に遅れたのです……」
イオアンは呆然とした。
「では、アルケタたちは待伏せに失敗したのか……」
「……アルケタ様ですか?」
とエルエレムが、イオアンに虚ろな顔を向けた。
「しばらくしてから到着しましたよ。私が北宮に来れたのも、アルケタ様が、意地悪な兵士たちから助けてくれたお陰なのです……」




