第25話
帝都で生まれたマデリン家のサディアが、タタリオン家の嫡男イシュタルの相手として、エルフの公爵家へと嫁いできたのは十三年前のことである。当時のサディアは十五歳、イシュタルは十八歳だった。
結婚式は数日続き、踊りや歌、騎士たちの馬上槍試合まで行われたが、当時十歳だったイオアンは、病弱ゆえにベッドに縛りつけられ、盛大な祝宴の参加は叶わなかった。
一週間後、セウ家の屋敷に、サディアが侍女たちを伴って、イオアンに会いに来た。このときは病状見舞いということで、わずかな会話だったが、わざわざ美しい妃が会いに来てくれたことに、幼いイオアンは感激した。
一か月後、再びサディアがやって来た。途中で侍女たちを退出させ、イオアンの自室で二人きりになったサディアは、ベッドに腰かけると、白亜宮の複雑極まる人間関係について、根掘り葉掘りイオアンに問い質した。イオアンも知る限りの事実と噂を惜しみなく伝え、サディアは満足して帰っていった。
一か月後、またサディアがやって来た。イオアンの部屋に到着するなり侍女たちを追い払うと、宮廷生活での不満をぶちまけた。最初は圧倒されたイオアンだったが、サディアの話を聞くのは嫌ではなかった。彼女の辛辣な人物評は痛快だったし、帝都での暮らしぶりを知るのも楽しかった。サディアもすっきりして帰った。
こうして数年間続く、サディアの訪問が始まったのである。
やがてサディアが晴れて公妃となり、イオアンも大図書館の館長になると、この訪問も取りやめになったが、それでも彼女は(大図書館の運営の相談という名目で)頻繁に北宮にイオアンを招いては、話し相手にしたのだった。
※ ※ ※
窓から庭園を眺めていた公妃が振り返った。
「私の心の問題はアルムよ……」
そう言うと公妃は、壁にかかった大きな肖像画を見上げ、目を潤ませた。そこには馬の前で正装した、可愛らしい頬の赤い少年が描かれていた。五年前に描かれたものだが、その顔つきは、父親であるイシュタルによく似ている。
「アルム様……ですか?」
と意外な思いで、イオアンは口にした。
アルムは、タタリオン家の公太子である。
イシュタルとサディアのあいだに子供ができないため、五年前、九歳だったアルムを養子として迎えた。もともとはアルムは、名門貴族のヴィプリマ家に嫁いだイシュタルの姉の次男だった。
「アルム様は健やかに成長していると思われますが、何か問題でも?」
「そうね……」
力なく呟いた公妃は椅子に座ると、両手で顔を覆った。
「アルムに問題はないのかも……問題は、母親の私かもしれないわ」
イオアンは心配そうに公妃を見やった。
「歴史学は私が教えていますし、修辞学、算術、天文学でも、アルム様は素晴らしい成績を収めています。アルケタの話では、武芸もなかなかのものらしいですよ。いずれ立派な騎士として、戦場でタタリオン軍を率いるのが目に浮かぶようです。公妃様も誇らしいのではないですか?」
「なにが誇らしいものですか!」
と公妃が顔を上げた。
「私のアルムは、小さいままで良かったのに……」
「しかし、それは難しいかと……」
公妃は机に両手を広げると、顔を伏せた。
「ああ、時はなんて残酷なの……」
「ですが、時こそ万人に公平な存在……だと言われてもおります」
「イオアン、何を分かったように!」
と公妃ががばと顔を上げた。
「アルムがやって来たときを覚えている? 初めて海を見て怖がって泣いていた。嵐の夜には私のベッドに潜り込んできた。あの頃が懐かしい……それが近頃は、ちっとも会いに来てくれないの。どういうこと?」
「この前、お会いになられたのは……?」
「三日前よ」
「勉学に稽古と、アルム様もお忙しいのでは?」
「でも同じ北宮で暮らしているのよ。すぐに来れるはずでしょ!」
「それはそうですが……」
「仕方ないからこの前は、大切な話があると言って呼び出したのよ。あの子、緊張していたわ。私が不意打ちで、ぎゅっと抱き締めたら、母上困りますとか叫んで、顔を真っ赤にして逃げ出すのよ。べつにいいじゃない、母親なんだから!」
「アルム様も十四歳ですし……多感な時期ですから」
「多感? 鈍感の間違いじゃないの?」
「気恥ずかしいのでしょう」
「やっぱり血がつながっていないからかしら……」
「……」
「ごめんなさい、私が口にすべき言葉ではなかったわね」
と公妃は呟いた。
「でも子離れが、こんなに苦しいとは思わなかった。自分のお腹を痛めた子でもないのにどうして? 痛いのはこの私の心……」
「……では、近頃の公妃様のお悩みというのは、アルム様の立ち振る舞いということなんでしょうか?」
「もちろんそうよ! 当たり前じゃない!」
と公妃はイオアンを睨みつけた。
「私が何のために、タタリオン家の激務をこなしていると思っているの? すべてはアルムが公爵になったときに、困らないようにするためよ!」
そう叫んだ公妃は、力尽きたように机に身を伏せた。
しばらくすると、静まり返った政務室にノックの音が響き、
「もしかして、ギイス伯爵じゃない?」
と公妃が顔を上げた。
「伯爵様が?」
「必ずや盗賊団を捕まえてみせますと、昨日、自慢げに話していたのよ。そろそろ報告があってもいい頃だわ」
と公妃は気怠るげに口にしたが、
「まあ、どうでもいいわね、盗賊なんて……」
と机にまた伏せた。
イオアンが入口まで歩き、わずかに扉を開くと、
「エルエレム師という方が、お見えになっています」
と侍女が隙間から告げた。




