第24話
イオアンは腰を屈め、床に散らばった文書を集めた。
そんなイオアンを公妃が気怠そうに眺めている。
「いいところに来てくれたわ。請願者の相手をするのも飽きていたし」
「その発言はどうでしょうか……」
とイオアンは声をひそめ、拾い上げた文書を机に置いた。
「どうして、ルラル教の祭司なんかに会ったの?」
「ナイト伯爵の晩餐会で頼まれたんです」
「ふーん、堅苦しいのが嫌いなあなたでも、ナイト家なら行くのね」
「アルケタの婚約式の件ですから」
「可哀相なアルケタ。パレードで婚約式を披露するなんて、いい見世物よね」
他人事のような公妃の発言に、
「そもそも公妃様が、強く推し進めていたと聞いていますが……」
とイオアンは口にしてしまった。
すると公妃は、
「私? 違うわよ!」
と叫んで、椅子から身を乗り出し、
「強く望んでいるのは公太后様! もうお歳だから、代わりに私が間に入ってるだけです! どうしていつも、そういうことになるわけ?」
と憤慨した。
公太后は、現公爵イシュタルの母親であり、ナイト伯爵の姉でもあった。ナイト家の出だった公太后の悲願は、ナイト家とセウ家の縁組だったのである。
「まあ、公太后さまの気持ちも分かるのよ……」
と公妃は頬杖をついた。
「より両家が強くつながれば、それだけイシュタルを支える力も強くなる。それにドルシアは孫娘みたいなものでしょう? 生きているうちに晴れ姿を見たいの。それで、アルケタの赴任の話に慌てたのよ」
「ああ、そういうことだったんですか……」
「イオアン、そもそもは、あなたのせいなんですからね」
「え、私がですか?」
「そうでしょ。だって、あなたがスペクリ城の策を提言したんじゃない」
「確かに、スペクリ城は防衛力を強化すべきだとお話しましたが、まさかアルケタが、その任に当たることになるとは……」
「そうね、それは私も想定外だったわ」
と公妃は頷いた。
「でも、膠着している東部戦線を強化する必要性はないから、誰も会議では賛成しなかったのよ。あなたは進言した理由を明かさなかったでしょ? だから私もちゃん説明できないし。そこに、唯一ギイス伯爵だけが、アルケタがその役目を負うのなら、無条件に賛成するとなると、もう飲まざるを得ないじゃない」
「そうですね……」
イオアンが理由を明かさなかったのは、カルハースたちが大変なことになるのを避けるためだった。
「ねえイオアン、いいかげん白亜宮の会議に出て、自分で発言してみたら?」
と公妃が身を乗り出した。
「もう図書館長を隠れ蓑にする必要はないわ。タタリオン家の繁栄に、あなたは少なからず貢献している。いままでの功績を説明すれば、何らかの要職に就いたとしても、誰も文句は言わないはずよ」
「いや、それだけはご勘弁を!」
とイオアンは頭を下げ、海老のように後ずさった。
「もう、どうして?」
「過去の経験から、そのような重責を担うと私の心臓がもたないかと……」
「たまにだけでいいの。やることは同じなのよ?」
「いいえ。私は公妃様を通して進言するほうが、性に合っています!」
「ああ、もったいない……」
と公妃は口惜しそうに言った。
「私は凄腕の公爵夫人だとか祭り上げられているけど、そのほとんどが、イオアンの進言を取り入れたものよ。そろそろあなたは世に出るべきだわ」
「どうか、次の都市参事会でご勘弁を……」
「パレードの翌日ね。でも、あれは市民向けよ? 慣れるためにはいいかもしれないけど……」
「公妃様、これを!」
とイオアンは話題を変えるため、書物を背中の鞄から取り出し、献本した。
「ゲルギリウスの原本からの写本でございます」
写本を受け取った公妃は、
「まあ、嬉しい!」
と表紙の細密画を愛おしむように触れた。
「ただ『夕べの花』の巻ですので、お口に合うかどうか……」
「どうして? 私は大好きよ。ただ怖ろしいだけじゃない。哀しい女の情念を感じられる話だわ。あなたが選んだの?」
「じつは、知り合いのとある女性から……」
「それって娼婦でしょ?」
「えっ」
「娼館に入り浸っているって聞いてるわよ」
「なぜそれを……」
「私にだって目と耳はありますからね。だいたい、おかしいと思ったのよ。普通の宮廷侍女なら、もっとベタベタした恋愛話を選びそうだもの。その娼婦とは話が合いそうな気がするわ」
「それは良かった……」
「それよりもおかしいのは、あなたのほうよ、イオアン」
「はい?」
「スペクリ城の件もそうだけど、何か変わった気がするわ。地に足がついていないというか……ひと月前に何かあったの?」
「そんなことは……」
とイオアンは誤魔化そうとしたが、自分でもよく分かっていた。もちろん〈綺麗な首飾り〉をエルに盗まれて、身に着けていないからだ。そのことは誰にも話せないし、偽物ですらスロルに与えてしまっている。
「たぶん……夏の暑さのせいでございましょう」
「夏の暑さねえ……」
と公妃は信じていない口ぶりだった。
覚悟を決めるように、イオアンは大きく深呼吸した。
「では、公妃様のほうは、いかがですか?」
「私?」
「近頃、お疲れではないですか?」
「べつに……疲れてなんかいないわ」
と公妃は顔を背けた。
「遠征軍から送られてくる大量の報告書にうんざりしているだけ」
「近頃みんなが心配しております。公爵様の分まで背負われて、公妃様は忙しすぎるのではないか、心に余裕がなくなっているのではないかと……」
「……あなたもそう思う?」
イオアンは無言で頷いた。
「あーあ、あなたには隠せないわね。確かに、私の心は問題を抱えているわ」
と認めて、公妃はふうと息を吐いた。
「この土地に嫁いできて、人の心は変えられないと何度も思い知らされてきたものだけど、それでも期待してしまうの。人間は哀しい生き物よね……」
「それは遠征で、公爵様がご不在だからでしょうか?」
「イシュタル? あの人なわけないでしょ」
と口にした公妃は、寂しげに溜息をついた。
サディア公妃は立ち上がると、イオアンに背を向け、夏空が見える大きな窓から、北宮の庭園を見下ろした。




