第23話
翌日、ベッドで目覚めたイオアンの気分は健やかだった。屋根裏部屋の小さな窓から眩しい朝日が差し込んでいる。今日にはダマリが解放されるかもしれず、サディア公妃の機嫌も直せるかもしれないのだ――。
〈フリュネの誘惑〉から、歩いて北宮に向かう。
アルケタの話ではすでに屋敷の包囲は終わっているはずだった。だが、イグマスの町からは〈暁の盗賊団〉が捕まったという雰囲気は感じられない。ギイス伯爵が極秘の行動を命じたのか? もしかしたら〈死者の日〉の祭りの初日とあって、市民たちは浮かれているのかもしれない――賑やかな楽師たちの演奏を耳にしながら、イオアンは謁見に遅れないように北宮へ急いだ。
北宮の前に、エルエレムの姿はなかった。
仕方なくイオアンは、北宮の庭園を散策して待つことにした。
総督府のある壮麗な白亜宮が、タタリオン家の表の顔だとしたら、こじんまりとした北宮は裏の顔といえる。代々のタタリオン家の居館であり、他家の要人を迎える迎賓館としての機能も兼ね備えていた。
夏の朝の庭園は清々しい。だが三周しても、エルエレムはやって来ない。謁見の時間なのに何をしているのだ。他にも請願者がいるはずで、誰が呼ばれるかは分からない。しびれを切らしたイオアンは控えの間に向かった。
白亜宮に比べると、さほど大きくはない北宮の控えの間は、請願者で混みあっていた。公爵が遠征で不在のため、公妃のいる北宮に流れてきたのだ。裕福なイグマスの商人から、毛皮を着た背骨山脈の山岳民までいる。
サディア公妃の政務室の扉では、親衛隊長であるアヤヤが、美しい甲冑をまとい、直立不動の姿勢をとっていた。イオアンと目が合うとニヤリとしたが、イオアンは笑みを返すような気分ではない。このままエルエレムが現れなければ、自分一人で謁見に臨まなければならないのだ。
じりじりと椅子に座って待っていると、政務室の扉が開き、深紅のローブをまとった老人たちがぞろぞろと出てきた。枢機卿と随員たちだと分かると、いっせいに請願者が立ち上がり、頭を下げる。
なぜ、ここに帝都の枢機卿が?
シルヴィアの話通り、アルケタの婚約式のためなのか?
これは、とんでもない規模の婚約式になるぞ――と頭を下げていると、
「エルエレム師はいますか!」
という声が聞こえた。
ああ、とうとう順番が来てしまった――。
イオアンは扉に向かうと、(なぜイオアン様が?)と困惑している侍女に、「理由は中で話す」と小声で告げ、政務室の中にするりと入った。
政務室は南側に面しており、開け放たれた大きな窓からは明るい光が差し込んでいた。窓を背にして、大きな机に座っている公妃が、何か書き物をしている。イオアンは扉の前で声がかかるのを待った。
サディア公妃はエルフの血を引いているが小柄だった。白亜宮の謁見ではないので、金髪の長い髪を下ろし、淡い黄色のドレスを着ている。今年で二十八になるが、まだ少女のような可憐さをとどめていた。
公妃のそばには、厳めしい表情の侍女長が立っている。ルラル教の祭司ではないイオアンが入ってきたことに、もの言いたげな表情だ。
左側のクッションが積まれた長椅子では、宮廷侍女たちが小声で喋りながら、刺繍をしている。そこには素知らぬ顔をしているシルヴィアもいた。
部屋には女のハープ弾きもいて、眠たげな旋律を奏でている。どこからかラベンダーの香り。イオアンは北宮を訪ねるたびに、女の園に迷い込んでしまったような居心地の悪さを感じるのだった。
手を止めた公妃が顔を上げ、
「イオアン? ルラル教の祭司ではないの?」
と訝し気な顔をした。
隣の侍女長も頷き、
「どういうことでしょうか、イオアン様?」
と問い質した。
声に棘がある。昔から北宮の侍女長には嫌われている気がしていた。
イオアンは息を吸い込んだ。
「昨夜、エルエレム師に同行を頼まれたのですが、いまだに到着しておりません。それゆえ私が……」
「なんと無礼な。自分から申請しておきながら、謁見に現れないなど……」
と憤る侍女長を遮って、
「では、あなただけということなのね?」
と公妃がイオアンを見つめた。
イオアンは無言で頷いた。
「分かったわ、二人だけにしてちょうだい」
と公妃が重々しく命じた。
「ですが公妃様、次の請願者が……」と侍女長。
「いいから」
「公妃様は、イオアン様に甘すぎます」
「侍女長!」
静まり返った政務室から、シルヴィアたち宮廷侍女は音を立てないように退室し、不満そうな侍女長もいなくなった。
扉が閉まると、公妃は椅子に深く座り込み、
「もうやってられないわ!」
と叫んで、手にした文書を大理石の床に放り投げた。




