第22話
〈フリュネの誘惑〉の屋根裏部屋では、イオアンの机に山積みにされた貴重な写本を、シアが読みふけっていた。
これは『ゲルギリウス物語』と呼ばれる宮廷恋愛小説で、教皇の落胤である美貌の貴公子ゲルギリウスの、数々の女性遍歴と政治的陰謀を描いたものである。五百年前に書かれた物語は、これまでにも多くの女たちの心をときめかせてきた。
帝都で生まれ育ったシアも例外ではなく、読み返すのはこれで何度目か分からない。『ゲルギリウス』の中には、数多くの甘く切ない愛の詩が含まれており、シアは一言一句を堪能しながら読んでいた。蝶の仮面は外している。
ああ、私もこんなふうに想われてみたい――。
とシアが胸に手を当てていると、
「何をしている」
という声にギョッとした。
振り返ると、イオアンが立っていた。
「な、なぜイオアン様がここに……」
「それはこっちの台詞だ。私の部屋で何をしていると訊いているんだ」
とイオアンが、シアの写本を取り上げようとしたので、
「だ、駄目です!」
とシアは机に覆いかぶさった。
ゲルギリウスが人妻である貴婦人の館に忍び込み、夜更けに密会しようとしている場面で、密かに興奮していたなんて知られるのは恥ずかしすぎる――。
「何を隠している、どけ!」
とイオアンは、机にしがみつくシアの指を、一本ずつ引き剥がしていった。
抵抗するシアを押しのけて、隠していた写本を確かめたイオアンは、
「なんだ、ゲルギリウスか……」
と拍子抜けした顔になった。
「お部屋を片付けていたら、つい懐かしくなってしまい……」
とシアは椅子から立ち上がり、頭を下げた。
「すみません」
「カルハースたちは?」
「訊ねてきました。しばらくここでイオアン様を待っていましたが、帰られました。明日また来るそうです」
「そうか……他の物は見たりしていないな?」
「……他の物?」
「見ていないのならそれでいい。あと、部屋の片づけとかは今後しなくてもいいから。用があれば声をかける。では下がってくれ」
シアは階段を降りようとしたのだが、我慢しきれず、
「イオアン様、その写本の原本は、どこで見つけたのでしょうか?」
と振り返った。
「うん? イグマスの書物商の店だが……」
「その店はどこに?」
「一箇所じゃないんだ。イグマスのあちこちの書店でばらばらに見つかった」
「では、写し終わったゲルギリウスの原本は……?」
「残念だが、すべて書店に返したよ。購入する資金がないんでな」
と答えたイオアンが、シアの間違いを指摘した。
「あと、写したのはゲルギリウスの原本じゃない。原本はいま、帝国図書館に秘蔵されているはずだからな。だから、おそらく別系統の異本だろう。購入してじっくり調べたかったんだが、商人たちは原本だと言い張り、とんでもない金額を吹っかけてきて……なぜ、そんなことを訊く?」
シアは深呼吸すると、
「それは、間違いなくゲルギリウスの原本です」
と宣言した。
「そんなわけないだろう。なぜ、そんな……」
「私は帝国図書館で、本物を読んだことがあります」
しばらくシアを見つめていたイオアンが、
「そうか! お前は帝都出身だと言っていたな」
と言って椅子から立ち上がり、屋根裏部屋を歩き始めた。
「内乱によって帝国図書館の半分が焼失したという話も聞く。それで散逸した可能性もあるのか?」
とイオアンは口に手を当てながら考えている。
「あれがゲルギリウスの原本だとすると、とんでもない価値になるぞ……」
シアは、
「散逸した巻は、すべて把握してるのでしょうか?」
とイオアンににじり寄った。
「ああ、七巻はすべて学僧たちが写し終えた」
とイオアンは答えた。
「だが、私が心配なのは残りの巻の行方だ。イグマスに出回っているとしても、まったく掴めていない……」
「そうですね……」
とシアは頷いた――残りの五十三巻が無事なのを私は知っているけど、いまそれを口にすれば、イオアン様に疑われてしまう。
「でも大事なのは、見つけた七巻を買い上げることです……イオアン様、イグマスの大図書館長のお力で、何とかできないのでしょうか?」
イオアンが不審そうにシアを見た。
「なぜお前は、私が図書館長だと知っている?」
「それは……イオアン様は、帝国の書物の愛好者のあいだでは有名ですから!」
「ふむ、そうなのか……」
とイオアンは素直に納得した。
「とにかく、我々の資金も無限じゃない。いまは遠征で戦費もかさんでいるしな。すぐに七巻すべては無理だ」
「パトロンの公妃様にお願いしてみては?」
「そうしたいんだが……いまはご機嫌があまりよろしくないようだし、そこに明日は別の難しい案件で拝謁するんだ。とても、お願いできる状況じゃない」
「では写本を献本してはいかがでしょう?」
「この写本をか?」
「どれほど有能な公妃様でも、女心はお持ちのはずです。ゲルギリウスの写本をお渡しすれば、お喜びになるのではないでしょうか?」
「女心とは、そんな単純なものなのか?」
とイオアンは首を傾げた。
「だが、どの巻を贈ればいいのか分からない。ゲルギリウスはちゃんと読んだことがないんだ。どろどろした恋愛ものは苦手でね」
「どろどろなんかしてません!」
とシアはむくれた。
「でも、この夏、お勧めの巻ならあります。ずばり『夕べの花』の巻です!」
「夕べの花……?」
とイオアンは一冊の写本を机から手に取った。細密画には、月の光に照らされた、色白で幸薄そうな女が描かれている。
「この巻が面白いのか?」
「面白いというより、怖ろしいんです!」
とシアが熱弁をふるった。
「ゲルギリウスが例によって、儚げな町娘に一目ぼれするんですね。それで、とある古い館に連れ込んで一夜を明かすんですけど、夜更けに、昔ゲルギリウスに振られた貴婦人の幽霊が現れて、それを見た町娘は気が狂って死んでしまう……というお話なんです!」
「救いようがない話じゃないか。どこがお勧めなんだ……だが、暑い夏の夜に読むにはぴったりかもな。明日、公妃様に献本してみよう」
「ありがとうございます!」
とシアは頭を下げた。
「こちらこそ、礼を言う」
と言ったイオアンが、不思議そうにシアを眺めた。
「しかし、よくスラスラと話せるものだな」
「ゲルギリウスなら、六十巻すべて諳んじていますから!」
「それは凄い……」
とイオアンが身を乗り出し、シアの手を握りしめた。
「残りの巻の写本もあるし、ぜひ我々に協力してくれないだろうか?」
「え、そんな……」
とシアは、生まれて初めて感じる感情に狼狽え、顔を赤らめた。
「私などで良ければ……」
「会ったときから、ただ者ではないと感じていたが、ゲルギリウスの原本を読破できる環境にいたとは、シアはよほど名家の出ではないのか?」
ドキリとしたシアは、
「そ、それは違います!」
と叫んで、イオアンの手を振り払うと立ち上がった。
「私はただの宮廷恋愛小説の愛好家です! ふふふふ」
慣れない感情に戸惑ったシアは、奇妙な笑い声をあげながら、屋根裏部屋の階段を駆け下りていった。




