第18話
牢獄塔の入口から飛び出したイオアンは、そのまま走り続けると、練兵場の脇で手を膝について吐いた。
胸のむかつきの原因は何なのか?
牢獄塔なのか、地下牢の環境なのか、劣悪なダマリの状態なのか、スロルの無自覚な暴力性なのか、それとも、これらを容認している社会なのか――。
胃の中が空っぽになると、イオアンは口元を拭い、空を見上げた。
すでに太陽は沈みかけている。
すぐにでも〈フリュネの誘惑〉の大浴場でさっぱりしたいと思ったが、アルケタとの約束を思い出す。ナイト邸での晩餐会に出席するのだった。こんな気分で人に会うのは気が進まないが仕方ない――。
夕陽を浴びたイオアンは、とぼとぼと歩きだした。
※ ※ ※
目指すナイト邸は旧市街にある。だが、その前に着替えが必要だった。地下牢の悪臭が染みついた服で、晩餐会に出席するわけにはいかない。やむを得ずイオアンは、久しぶりにセウ家の屋敷に寄ると、水浴びをし、上品な服装に着替えて、ナイト邸に向かった。
ナイト邸に着いたときには暗くなっていた。
晩餐会なのだから、屋敷の前に馬車が並んでいるかと思ったが、そんなことはなかった。鎖につながれたダマリを思うと気が重たい。金持ちたちと豪華な食事を楽しんでる場合なのだろうか?
ここで踵を返し、カルハースたちに会うべきなのでは?
だが、それはそれで気が重いのだ。ダマリが地下牢にいることや、スロルの暴力にさらされていることを、どう説明すれば良いのか? 二人ともショックを受けるだろうし、自分も含めて、正しい判断ができるとは思えない。
今夜は頭を冷やしたほうがいいのか?
イオアンは気持ちが乱れたまま、ナイト邸のポーチへ歩きだした。
顔馴染みの老執事は、イオアンを見て驚いたが、歓迎してくれた。
名簿にないけどアルケタに呼ばれたんだ――そう説明すると、伯爵様はお喜びになるでしょうと屋敷に入れてくれた。執事の話では、今夜の主賓は、雪エルフのルラル教徒らしい。ルラル教は、数十年前から帝国で広まっている宗教である。
「おお、イオアン!」
奥の間に入ると、気がついたナイト伯爵が満面の笑みを浮かべて近づいてきた。小柄で頭が禿げあがり、腹が出はじめている。イオアンが突然の訪問の非礼を詫びようとすると、
「問題ない。アルケタから聞いておる」
と頷いて、伯爵は声をひそめた。
「お前も婚約式のことであろう? じつは儂も詳しくは知らんのだ。今回の件は女たちに任せておるのでな。弟の救援が目的であれば、急いだほうが良いぞ。すでに包囲網が狭まっておる!」
晩餐会の主賓に、先に挨拶すべきでしょうか?――とイオアンが尋ねると、
ナイト伯爵は、
「構わん。そんな堅苦しいものではないし、祭司たちには後で紹介する」
と長テーブルの奥を眺めて、
「それにアルケタは、いまにも陥落しそうだからな!」
と笑いながら、イオアンを押し出した。
中庭に面した奥の間では、開け放たれた窓から涼しい夜風が入り、テーブルの上には豪華な食事が並べられ、幾つもの燭台の灯りが揺らめいている。
上座には雪エルフたちが座り、伯爵の息子たちと歓談していた。雪エルフの透き通るように真っ白な肌を見ると、地下牢のスロルを思い出した。同じような肌の色をしているが、境遇はまったく異なるのだ。
下座では、アルケタが女性陣に囲まれて座っていた。
「よく来たわねイオアン。ここに座って」
手前の席に座っていたナイト伯爵夫人が立ち上がり、声をかけた。
「話は済んだから、あとは子供たちで話したらいいわ」
イオアンは空いた席に座った。
左隣にはアルケタの婚約者で、伯爵の三女のドルシアが座り、左斜め前に長女のアヤヤ、正面にアルケタ、右斜め前には次女のシルヴィアが座っている。三人とも晩餐会とあって美しく着飾り、煌びやかな宝石を身に着けていた。
娘たちに囲まれたアルケタのほうを見ると、虚ろな笑みを浮かべている。
ああ、押し切られたのか。
援護が間に合わず済まない、弟よ――。
そうイオアンが心の中で謝っていると、隣の十四歳のドルシアが、
「来てくれて嬉しい! イオアンも婚約式には出席するんでしょう? もう元気だから大丈夫よね?」
と言って、イオアンの手を握った。
「ああ、どうかな……」
とイオアンは口ごもった。婚約式が〈死者の日〉の最終日に行われるとすれば、そのタイミングで、カルハースたちが地下牢に侵入する可能性がある。
「もしかしたら、私は参加できないかもしれない」
「そんなの許されるわけないだろ」
とアルケタが意地の悪い笑みを浮かべた。
「いまは父上が遠征でいない。そうなったら嫡男の兄上が、セウ家の当主代理になるんだ。俺の婚約式には絶対に出てもらうからな。いままでみたいに仮病なんて通用しないぜ」
「そ、そうなのか? 何か私がやるのか」
「当たり前だ。宮殿前広場に集まった何万もの市民たちに向けて、桟敷席の上から何かそれらしい演説を、兄上がするんだ」
「そ、そんなのは無理だ……」
とあがり症のイオアンは想像しただけで真っ青になり、胸を押さえた。
ドルシアがすかさずワインを差し出す。
「イオアン! これを飲んで!」
「馬鹿ねえ、そんなわけないでしょ」
とアヤヤが指摘した。
「あなたはただ立っていればいいのよ。みんな分かってるんだから。また発作なんか起こされたら困るもの」
「しかし……」
ワインを飲んだイオアンは、口元を拭った。
「そうならば、婚約式は中止にしたほうがいいんじゃないか。アルケタも本当は望んではいないんだろう?」
「そうなの!?」とドルシアが愕然とする。
「そんなことないさ、ドルシア……」
とアルケタが優しい表情をつくった。
「兄上の誤解だよ。もちろん俺は楽しみにしている。ただ、君を残してスペクリ城に赴任することだけが気がかりなんだ……」
「私なら大丈夫」
とドルシアは熱を込めてアルケタを見つめた。
「だって騎士の娘ですもの。覚悟ならできているわ!」
「ああ、早く私も前線に出撃したい……」
とアヤヤが祈るように手を組んだ。彼女は男勝りの女騎士で、北宮の親衛隊長を務めている。
「どっちにしろ、中止なんて無理よ」
とシルヴィアがさくらんぼをつまみながら口を挟んだ。
「公妃様は、近隣の主だった領主に招待状を送ってるみたいだから。帝都からは枢機卿まで来るみたいだし、絶対にイオアンは出なきゃ駄目よ」
「ああ、サディア様か……」
とイオアンは溜息をついたが、深呼吸をすると宣言した。
「もちろん出席する。ふたりの、これからの未来を祝福するためにもな」
これは、イオアンの心からの本心だった。ナイト家の三姉妹とは子供の頃から一緒に育った仲だ。ドルシアのことは赤ん坊の頃から知っているし、彼女がアルケタと結ばれるのなら本当に嬉しい。
同じように、ただ一人の弟であるアルケタには、どこかの知らない貴族の娘と結婚するよりは、自分が可愛がっているドルシアと結婚して欲しい。二人が結ばれることは、イオアンにとっても幸せだった――。
「ねえ……」
とドルシアがイオアンをつついた。
「お腹減ってないの? ぜんぜん食べてないわ」
イオアンは目の前の御馳走を眺めた。地下牢の出来事のせいか、まったく食欲が湧かなかった。だが、それを説明するわけにもいかない。
「……暑さにやられたのかな」
とイオアンは誤魔化し、正面のアルケタに振った。
「お前も珍しく、あまり飲んでいないじゃないか」
「これから仕事があるからね」
「仕事? 総指揮官になっても夜勤があるのか?」
「昼の会議で決まったんだ」
アルケタは水のように薄いワインを置くと、一同を見回した。
「今夜……〈暁の盗賊団〉を待伏せする」




