第17話
「スロル、済まないが、ちょっと離れてくれないか」
とイオアンが頼んだが、
「下、あぶない」
と答えて、スロルは動く気がないようだった。
イオアンは立ち上がると、スロルを押して、ダマリの区画から離れたところまで連れていった。これでは、ダマリが怯えて話にならない。それに、ダマリとの会話を理解できる知力は、スロルにはないのかもしれないが、念のためだ。
「いいかスロル、お前はここにいてくれ。私は偉い人だ。偉い人の命令には従わなくちゃいけない。分かるな?」
スロルは首を振った。
「父さん、イオアンさま、守る、言った」
伯爵家の嫡男だろうと、父親の権威には勝てないのか――仕方がない。イオアンは背中の鞄に手を伸ばした。
「これを、お前にやろう」
とイオアンは、スロルの前で金貨を掲げた。
「これで旨いものでも食えばいい」
「きれい……」
と一瞬スロルは目を輝かしたが、すぐに悲しそうな表情になった。
「スロル、外に出れない。食べるの、母さんのだけ」
「母さん?」
ああ、厨房にいたオークがスロルの母親なのか――と考えていると、
「それ、きれい!」
とスロルが、イオアンの胸元を指さした。
「これか?」
とイオアンは胸元を押さえた。外からはペンダントは見えないはずだが、子供のようなスロルには、何か感じ取れるのかもしれない。
「これは見世物じゃないんだ」
「見たい、見たい!」
とスロルが駄々をこね始めた。
「見せたら、大人しくしてくれるか?」
「する!」
仕方なくイオアンは、胸から偽物の〈綺麗な首飾り〉のペンダントを取り出した。偽物といっても、精巧な立ち獅子の細工は本物だし、まわりに嵌め込まれた十二の色付きのガラス玉も、カンテラの光をキラキラと反射した。
そっとペンダントに触れたスロルは、
「お日さまみたい……」
とうっとりしている。
「もう、いいな?」
とイオアンがペンダントをしまおうとしたが、スロルが握りしめて離さない。
「これ、ほしい!」
「馬鹿、何を言っている! これは金貨とは比べ物にならない一品なんだ。だいたい人にあげる物じゃない!」
「ほしい! ほしい!」
「く、苦しい。そんな強く引っ張るな!」
とイオアンが叫ぶと、ようやくスロルは力を緩めた。
「でも、ほしい……」
イオアンは喉元をさすりながら考えた。確かにペンダントは高価だが、ダマリの救出は金には代えられないはずだ――。
「もし、これを渡したら……」
とイオアンは慎重にスロルに提案した。
「お前は、ここでじっとしていられるか? つまり動かないということだ」
「する!」
おそらく何も考えていないのだろうと思ったが、イオアンは首飾りを外して、スロルに手渡した。少なくともペンダントに惹きつけられているあいだは、ダマリと話すことができる。偽物の〈綺麗な首飾り〉は、後日獄吏長に命じて、スロルから回収すればいい――。
大事そうにペンダントを手にしているスロルから、イオアンは気づかれないように離れていった。ダマリの真上まで移動すると、再び小声で呼びかけた。
「ダマリ、私だ」
おそらくダマリも耳をそばだてていたのだろう。すぐに顔を上げた。
「あなたは……?」
髪も髭も伸び放題だったが、優しい目をしていた。服はぼろぼろに破れて、あちこちに痛々しい傷跡が見えた。
「いまはカルハースとエルの友人としか言えない」
さすがに脱獄させるとは明かせず、
「もう少し頑張ってくれ。彼らが助けようとしているから」
としか口にできなかった。
ダマリの目からは涙が溢れ、声を震わせた。
「……馬たちはどうですか?」
「馬?」
「ここは真っ暗です……俺が世話をしていた馬たちが草原を走っているところを、いつも思い浮かべるようにしています。馬たちは元気ですか?」
「もちろんだ!」
と咄嗟にイオアンは頷いた。
「いまカルハースたちが世話をしている。馬たちも、お前がいなくて寂しく思っていることだろう」
「俺も寂しいです……」
「助けだすには、もう少し時間がかかる……まだ耐えられそうか?」
「大丈夫です、昔に比べたら何でもありません」
「昔……?」
「頭の悪い俺は、サーカスの世話係でした。そこで動物たちと仲良くなったんです。でも鞭で打たれ、こき使われ、地獄のような毎日でした……そこからカルハースが救ってくれたんです」
「それで〈首なし騎士団〉に加わったのか……」
「見習いですが、楽しい旅の毎日でした。それなのに、自分でぶち壊しにしてしまった。馬の取引で暴れてしまい……」
「何があった?」
「世話した馬が売られるのを見て、つい母親のように取り乱してしまって……気がついたときには、まわりで人が倒れてました」
「巡察隊と商人の何人かが骨を折ったようだが、それだけで済んだようだ」
「エルは? あのとき一人だけ別のところにいて」
「無事だ。いま、ちょっと様子が変だが」
「エルは優しいけど、不器用なところがある……」
「よく知っている」
「あなたが、どなたかは存じません……」
とダマリは声を詰まらせ、
「でも、いい人のようだ。こんな便所みたいな場所まで、俺のために会いに来てくれるなんて……」
と言って、感謝するように、祈るように両手を組んだ。
「私の名前はイオアンだ」
と言って、イオアンは右手を下に伸ばして、ダマリの手に触れようとした。
「必ずや、お前を助けに……」
「ぐはっ」とダマリが悲鳴をあげた。
イオアンの背後から伸びてきた長い棒が、何度もダマリの頭を、顔を、胸を突いたのだった。背を向けたダマリは逃げようとしたが、スロルは壁の上を素早く移動して、執拗にダマリを叩き続けた。
「やめろ!」とイオアンが叫んだ。
スロルは、しがみつくイオアンを引きずりながら、ダマリを追いかけ、棒が届かなくなったところで動きをやめた。区画の隅からは、体を丸めたダマリのすすり泣きが聞こえてくる。
「馬鹿者! お前は何をしてるんだ!!」
とイオアンは大声で怒鳴りつけた。
するとスロルは、途方にくれた子供のような表情を浮かべた。
「イオアンさま、えらい人。イオアンさま、守る」




