一ノ2 素晴らしきニャン生
働いたら負けや、と俺は生前ずっと言うてきた。
三十二年間、誰にも理解されんかったこの哲学に、世界がようやく追いついた。
猫や。
猫は働かへん。せやのに誰にも責められへん。
飯は出てくる。屋根はある。寝とったら「よう寝る子やねえ」て褒められる。
無職ちゃうぞ。猫という職や。
俺は前世で、職を探しとったんやない。
種族を間違えとったんや。
東雲家での俺の勤務態度は、我ながら完璧やった。
小雪のオカンの前では「なぉん」。
小雪のオトンの前でも「なぉん」。
語尾を甘めに、目は細めに。営業鳴きっちゅうやつや。
三十二年間、面接で一回も使わんかった愛想を、俺は今、全力で振り撒いとる。
ほんで小雪と二人きりになった瞬間、切り替える。
「ご主人、今日の晩飯、カリカリやのうて缶のやつにしてくれや」
「贅沢な猫」
ちなみに俺は、小雪のことを「ご主人」って呼んでる。
初めて呼んだ時、小雪は「ごしゅじん……」てむず痒そうにして、でも満更でもない顔をしていた。
言うとくけどな、礼儀とか忠誠とか、そういうんちゃうぞ。
猫としての、もっと言えばいるだけで癒しを与える存在としての美学、プライドや。
「お前」呼びの生意気な猫と、「ご主人」呼びの礼儀を弁えた猫、長く家に置いてもらえるんはどっちや。考えるまでもないわな。
俺はこの家に、骨を埋める気で媚びとる。
飼われる側にもな、営業戦略っちゅうんがあるもんや。
この生活の中で、俺はひとつの観察対象を持っとった。
小雪の朝や。
東雲小雪の朝は、七時四十分に完成する。
制服着て、ポニテ結うて、玄関出て、右に三歩。
隣の家のチャイムを、ピンポン、て一回だけ押す。
「らっくん、あさ」
出てくるんは、寝癖のついた男子高校生や。
背はまあまあ。顔は、なんちゅうか、量産型の主人公顔。
ラブコメで言うたら三話まで名前覚えてもらわれへんタイプの顔や。
「……おう」
おう、て。
会話それだけかい。
せやのに小雪は、それで満足そうに歩き出すんや。
二人並んで、通学路を歩いていく。俺は塀の上からそれを見送る。
――教科書や。
教科書すぎて、逆に感動するわ。
朝のチャイム。同伴登校。
三万四千九百時間のラブコメデータが照合するまでもなく断定しとる。
この二人、幼稚園からこれやっとるぞ。
ほんでな、俺は猫やから知っとんねん。
チャイム押す直前の小雪の顔が、一日でいちばん明るいことをな。
あの男は知らんのやろな。毎朝、玄関先に一日ぶんの好意が配達されとることを。
気づかんもんよな。習慣っちゅうもんは。
まあ、ええわ。
平和なもんや。
この様子やと、金髪ツインテールのツンデレでも来ん限りは安泰やろ。
午後は俺の自由時間。
日向で寝る。塀の上を歩く。スズメを目で追うだけ追うて、体力的な問題で追跡は断念する。
ある日、小雪の部屋のクローゼットの上を探検しとった時や。
埃かぶった、黒くて細長いケースを見つけた。
多分、弦楽器。ヴァイオリンとかな。
へえ、と俺は思った。
子供にヴァイオリンやらせるくらい裕福な家庭なんやろねぇ、東雲家は。
ほんで、この埃。
飽きてやめたんやろな、俺みたいに。わかるわかる。
俺かて、飽きてラノベ書くのやめた男や。
特に習い事っちゅうのはな、押し入れの上で化石になるとこまでがワンセットやねん。
夜は、アニメの時間。
言うとくけど、小雪はもともと深夜アニメなんか観るタチやなかった。当たり前や、普通の女子高生が深夜アニメなんか観いひんねん。
俺が観たい言うたからや。
しゃべる猫が「今期のアニメが観たいんや」て頼んだら、この子は嫌がりもせんと「いいよ」て言うて、それから毎晩、消音気味のテレビの前に付き合うてくれるようになった。もちろん、遅い時間は小雪は先に寝てるけど。
布団に腹ばいの小雪の横で、俺は香箱を組む。
飯付き、屋根付き、膝付き、アニメ付き。
転生、大勝利やんけ。
「ご主人は将来、ええ嫁さんになるで」
「え……えへへ、そうかなぁ」
小雪はちらっと視線を泳がせて、ほんでひとりで赤くなってた。
おい。
今、誰の顔を思い浮かべたか、バレバレやぞ。
視線、隣の家の方角やったで。
別の晩には、CMの合間に、枕に顎を乗せたままこんなことを言うた。
「聞いてよ、なおや。らっくんね、高校生になって彼女とかほしいんだってさ」
「ほう」
「わたしがいるっていうのにさ、贅沢だよ」
……ん?
待て、ご主人。今の文、係り受けがおかしいぞ。
「わたしがいる」は、彼女いらんの理由にはならへんのよ。世間一般ではな。
せやけど小雪は、ぷくっと頬を膨らませて、大真面目やった。
天然や。年季の入った天然や。
……彼女ほしい、ねえ。
データベースの奥で、何かのフラグが立ちかけた。
気のせいや、と俺は判定した。
平和な家の、平凡な愚痴や。ほら、番組も再開する。
ほんで、ある夜。
番組表を流し見しとった小雪の指が、俺の心臓を止めた。
画面に出とったタイトルは、あれやった。
あの、観損ねたラブコメの続きやった。
差し押さえと傷害現行犯のせいで、そのまま死んでもうた、あの作品の続きや。
「……ご主人。観よう。今夜、それ観よう」
観たった。
幼馴染は、負けた。
分かっとった通りの負け方やった。
文化祭で、主人公は別のヒロインの手を取って、幼馴染ヒロインは体育館の裏で一人、「うん、知ってた」て笑いよった。
俺は目を逸らさんかった。
最後の一秒まで、ちゃんと見届けた。
負けると分かっとる女の、負ける瞬間まで目逸らさんのが、せめてもの礼儀や。
……遅くなってもうたけどな。一回死んだくらいで欠いてええ礼儀とちゃうんや、これは。
エンドロールが流れた時、隣で、涙する音がした。
小雪が泣いとった。
布団に腹ばいのまま、ぼろぼろ泣いとった。
「どうしてこの子じゃ、だめなのかなぁ」
「…………」
「わたし、この子の気持ち、わかる気がする」
「ほら、泣きなや。ティッシュどこや」
「なおやは、泣かないの?」
「猫は泣かれへんのや。構造的にな」
便利な体やで、ほんま。
勘のええ人やったら気づいとる思うけど、俺が転生した日は俺が橋から飛んだ日から、きっかり三日後やった。
この世界は俺がおった世界と、時間まで地続きやったんや。
アニメも同じ、テレビ局も同じ、ほんで暦まで、そのまんま同じ。
『死後五営業日以内に転生処理を行います。本日はまだ三日目です』
宮藤さんよ。
五営業日て、そういう意味かい。
俺の魂、土日を挟んで処理されとったんか。
俺の三十二年の総決算より、あんたらの週休二日の方が固いんかいな。
……まあ、ええけどな。
おかげでこっちは、勝手知ったる現代日本や。
ラブコメの知識も、そのまま使える世界っちゅうことやからな。
使いどころあるか知らんけど。
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日曜の昼下がりが、俺の本番やった。
縁側で、小雪が昼寝しとった。
俺はまず膝に乗る。ここまでは定期券や。
ほんで小雪の寝息が深なったのを確認して、慎重に、南下する。
膝から、腹へ。
猫の真の指定席は、膝やない。腹や。正確には下腹部のおよそ子宮の上。
生命の源の上は柔らかさがちゃう。沈み込みがちゃう。呼吸で上下する、あの揺りかご機能がちゃうねん。
俺はゆっくりと、小雪の下腹部あたりに、体を丸めた。
――これや。
これが最上や。
あったかい。沈む。気持ちいい。
三十二年と数週間の人生で、いちばん心地いい場所やった。
「……なおや、おもい……」
小雪は寝ぼけてそう言うたけど、下ろしはせんかった。
ええ子や。ほんまに、ええ子やで。
もうすぐ、夏休みが終わる。
俺が小雪の腹の上で過ごせる時間は減っていく。
けど、この日々は、ずっと続く。
日常回っちゅうもんが、どんなにかけがえのないことか俺は誰よりも理解してるんや。




