一ノ1 黒猫転生
雨の音で、目が覚めた。
視界が、低い。
地面がやたら近い。
ほんで目の前に、黒い前足があった。
……前足て。
恐る恐る、握ったり開いたりしてみた。
黒い毛に、桜色の肉球。
握ると、ぷに、て鳴った。
俺の手、鳴くようになってもうた。
周りを見た。
段ボールの中やった。
空からは夕方の雨。段ボールの底には、湿ったタオルが一枚。
捨て猫や。
どっからどう見ても、雨の日の捨て猫スタートや。
いや待て待て待て。
テンプレやんけ。ラブコメ第一話のテンプレど真ん中やんけ。
しかもあれ、拾う側と違って、拾われる側かい。
俺が迷い猫オーバーランしてどうすんねん。
三十二年間、画面のこっち側から「拾ったれや、はよ拾ったれや」言うてきた男が、段ボールの中で雨に打たれとる。
因果応報ってのは、こういう形で回収されるんやな。
耳が勝手にピクピク動く。尻尾が勝手に機嫌を語る。
視界の色は、なんや全体的に眠たい。猫の目て、こんな薄味やったんか。
声を出してみた。
「なぉぉ〜ん」
ちゃうねん。
「なんでやねん」て言うたんや。
まだ猫の声帯に慣れてないんや、まずはボイトレからせないかん。
少しボイトレをすると、思いの外日本語を発声することができた。
段ボールの縁に前足をかけて、外を覗く。
電柱。
自販機。
カーブミラー。
瓦屋根の住宅街に、ブロック塀。
どっかの家から、カレーの匂い。
……いや、転生先、現代日本やんけ。
剣は? 魔法は? ステータス画面は?
竜の一匹くらい飛んどけ。
どう見ても日本や。しかも、ど田舎でも都会でもない、絶妙に見覚えのありそうな温度の郊外。
宮藤さんよ、あんたんとこの転送、近所すぎんか。
まあ、ええわ。
どうせ猫や。
猫に住所も国籍もあるかい。
そんなことより問題は、この雨。
しとしと、いつまでも止まん降り方。夏の終わりの、夕方の雨や。
この時期の雨っちゅうのはな、昼間の熱と一緒に、濡れた毛から体温まで持っていきよる。
寒い。腹も減った。段ボールは水を吸って、ぐにゃぐにゃになり始めとる。
転生初日にして風邪こじらせて死んだら、あの窓口でなんて査定されるか、分かったもんやないで。
――その時やった。
雨が、止まった。
俺の上だけ。
見上げたら、傘やった。
水色の傘を差しかけて、女子高生が一人、段ボールを覗き込んどった。
「きみ、こんなところにいたら、風邪ひいちゃうよ」
……おっと。
おっとおっとおっと。
黒髪のロングを、高いとこで一本に結んだポニーテール。
化粧っ気なし。眉毛は素直。制服のスカートは校則どおりの丈。
学校指定っぽい鞄に、キーホルダーが一個だけ。ヴァイオリンのようわからんゆるキャラ。
ほんで、俺の目は誤魔化されへん、隠れ巨乳や。
その子は雨の中、濡れるのも構わんと、道端の段ボールに迷わず膝をついた。
「だれにも、拾ってもらえなかったんだ」
女の子は、そう言うて俺を両手で持ち上げた。
脇の下に手を入れられて、ぶら下げられる、あの猫の持たれ方や。
屈辱の持たれ方のはずが、あったかかった。
雨の日に人肌て、あかんな。三十二年ぶんの何かが緩むわ。
「軽いね。ごはん、食べてないんだ」
「猫やからな」
「そうだよね、猫だもんね……」
雨の音。
「……いま、しゃべった?」
「しゃべってへん」
「しゃべった!」
しもた。
あまりにも自然に会話が成立したから、こっちも気づかんかったわ。
女の子は俺をぶら下げたまま、雨の道をぐるっと見回した。
誰もおらん。
ほんで俺の顔を、まじまじと見た。
悲鳴を上げるでも、放り投げるでもなく、ただ、まじまじと。
「……関西の、猫ちゃん?」
「そこかい」
肝据わっとんな、この子。
しゃべる猫を前にして、最初の疑問が出身地て。
「わたし、東雲小雪。きみ、名前は?」
「直哉や。馬場直哉」
「なおや……ばばなおや……」
小雪は俺を胸の高さに抱え直して、ちょっとだけ首を傾げた。
「へんな名前の猫ちゃん」
ほんで、笑った。
雨の道で、しゃべる猫抱えて、この子は笑いよったんや。
ええ子や。なんちゅうか、めちゃくちゃええ子や。
東雲家までの道すがら、俺は小雪の腕の中におった。
水色の傘の内側は、ちょっとだけ青い光で、雨の音が丸くなる。
腕はあったかいし、歩くたんびに、ポニーテールが視界の上で揺れる。
「……もう一回人間に転生できるんやったら、こんな子が幼馴染やったらええなぁ」
「なにか言った?」
「なんもゆうてへん」
「しゃべった」
半分寝ぼけて出た本音や。聞き流したってくれ。
東雲家は、歩いて五分やった。
「おかあさん、猫、拾っちゃった」
拾っちゃった、て。
俺、事後報告のついで扱いか。
小雪のオカンは、タオルで俺を拭きながら「あんたは昔っから、ほんとにもう」みたいな顔をして、結局、飯まで出してくれた。
娘が段ボールの猫を拾ってくるのが、初めてやない家の反応やった。
……家族全員ええ人や。
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夜。
風呂上がりの小雪の部屋で、俺は座布団の上におった。
「ねえ。なおやって、おかあさんの前だとしゃべらないんだね」
「当たり前や。しゃべる猫なんかバレてみい、明日にはテレビ局か大学の研究室行きや。ようて見世物、悪うて輪切りの標本や」
「わ、輪切り……」
「せやから、俺がしゃべるんは小雪の前だけや。他所では、なぉーんしか言わん普通の猫や。ええな?」
「……うん。ふたりだけの、ひみつだね」
小雪はちょっと嬉しそうに、人差し指を唇の前に立てた。
……なんやその仕草。漫画で百回見たやつや。実在するんかい。
ほんで、本棚を見た。
少女漫画がぎっしり並んどる背表紙の中に、俺は見覚えのあるタイトルを、いくつも見つけてもうた。
現世で読んどったやつや。中にはアニメ化したやつもある。それも一言一句、同じタイトルや。
ほんまに現代日本や。
ここ、俺がおった世界と、地続きなんちゃうか?
考えかけたところで、俺は膝の上に持ち上げられた。
小雪が俺を膝に乗せて、漫画を読み始めた。
――あ。
これや。
膝の上っちゅう、ラブコメで何百回も見た、あの指定席や。
宮藤さんよ、転生先住所に不満言うて悪かった。あんたとこの課、ええ仕事しとるわ。
まあ、ほんまの理想は、膝やなくて腹の上なんやけどな。
具体的には、下腹部の上辺りに乗せられて、子宮の温かみを感じながら腹枕されんのがええねん。『アマガキ』の変態紳士がそう言っとったんやから間違いないんよ。
その話はまた今度でええ。
窓の外は、まだ雨。
部屋はあったかい。腹は膨れとる。膝は柔らかい。
こうして、俺の三十二年間が幕を閉じ、黒猫としてのスローライフの幕が開けた。




