零ノ2 グッバイ、人生
翌朝、九時ちょうどにインターホンが鳴った。
誰か訊かんでも、俺がそいつは差押えの執行官やと理解した。
俺には借金がある。元金百四十七万、実質年率一八パーセント。
パチ屋と、サブスクと、生活費っちゅう名の何やかんやで膨らんだ、由緒正しいクズの借金。
督促状は八ヶ月、開けんと溜めとった。「一括での返済なき場合、法的手続きに移行します」の「法的手続き」が、スーツ着て玄関に立っとったわけや。
俺は、計算だけは早いねん。
小五の時、担任に「馬場くんは算数の天才かもしれません」と言わしめた男や。
その天才が弾くとこの借金、利息だけで一日約七百二十五円。
寝ても起きても、アニメ観とっても、七百二十五円ずつ、馬場直哉という人間の残高は目減りしとった。
その残高がとうとう底を突き抜けた音が、あのインターホンやったわけや。
執行官は、腹立つくらい丁寧な男やった。
土足に近い扱いで部屋に入ってくるくせに、口調だけは市役所の窓口みたいに柔らかいねん。
「動産の差押えを執行します。ご協力をお願いします」
まず運び出されたんは、漫画やった。
壁一面の本棚から、業者が二人がかりで段ボールに詰めていく。
平成ラブコメ史の年表みたいに並べた俺の棚が、上から順に、ガサッ、ガサッ、て崩されていく。
なあ、待て。せめて丁寧に扱えや。
その巻な、絶版で、万出して買い戻したやつやねん。
そこの箱のヒロインはな、アニメ化で改悪されて、原作でしか救われてへん子やねん。カバー裏まで読んだってくれ。
あの応募者全員サービスの小冊子はな、中坊の俺が昼メシ抜いて買った、あの子の唯一の番外編やねん——
「古書としてまとめて評価します。……束で、数百円かと」
俺のヒロインたちの三十二年が、束で、数百円やった。
オカンは玄関で、執行官に頭を下げ続けとった。「息子がすみません、すみません」て。
あんたが謝ることちゃうやろ。謝るんやったら俺や。
分かっとんのに、俺は廊下で突っ立っとるだけやった。
五日後、競り売りの日が来た。
動産の競り売りっちゅうのは、債務者の家の前でやるらしい。
朝から執行官が来て、古物の業者が三人、軽トラで乗りつけた。
うちの玄関先に、俺の部屋やったもんが並べられていく。
テレビが八千円。エアコンが五千円。パソコンは古すぎて三千円やった。
そして、段ボール十二箱ぶんの俺の漫画には、いちばん若い業者が近づいた。
ガムテープを剥がして、中を二、三冊めくって、すぐ閉じた。
二、三冊やぞ。俺の三十二年を、二、三冊で閉じよったんや。
「これ、全部まとめてなら。……三千円で」
三千円。
束で数百円の見立てよりは、現実の方がもうちょい優しかったらしい。
俺は財布を開けた。八百二十円。
暗算が、静かに答えを出す。
買い戻すには、あと二千百八十円、足りひん。
「なあ、待ってくれ。それ待ってくれや。金は、すぐなんとかするから」
誰も待たへんかった。
競り売りは成立して、若い業者が段ボールを軽トラに積み始めた。
ガサッ、ガサッ、て。五日前と同じ音やった。
そんで、一言。
「つーか、ラブコメ多くないっすかこれ。ラブコメばっかり、よくこんなに読めるなあ。てか、同じ巻重複してるし」
悪意ではなかった。
あれは悪意ですらなかった。
軽トラの荷台に俺の人生を積みながら、兄ちゃんはただの世間話をしよった。
よくこんなに読める、か。
ほな、あの箱の中であの子らが何をしてきたか、あんた一人でも言えるんか。
三巻で振られて、それでも笑って主人公の背中を押した子。
作者の都合で打ち切られて、告白の返事すらもらえんまま終わった子。
十年連載を最初から支えて、最終巻の後日談一ページで、ぽっと出のモブとくっつけられた子。
ラブコメは読む用と保存用と、布教する相手もおらんのに買った布教用で三冊ずつ持っとる。重複しとるんわかってて購入しとるんじゃ。
紙で持つっちゅうのはな、そういうことやねん。
あの子らの人生に、この世の置き場所を作ったるっちゅうことやねん。
日焼けも、折り目も、ページの膨らみも、俺があの子らと生きた三十二年の証やねん。
それを——。
督促の八ヶ月は、見んフリで耐えた。
執行官の丁寧な暴力も、廊下で突っ立って耐えた。
束で数百円も、聞かんかったことにした。オカンの「すみません、すみません」も、飲んだ。
三千円も飲んだ。二千百八十円足りん財布も、飲んだ。
俺のことは、ええねん。クズもゴミも事実やから、なんぼでも飲める。
せやけど、あの子らは別や。
三十二年、何も持ってへん俺のそばに、ずっとおってくれたんは、あの子らだけやったんや。
気づいたら、殴っとった。
三十二年生きて、初めて人を殴った。
勉強にも、就活にも、原稿にも、一回も本気で振ったことのない右手を、俺は生まれて初めて、フルスイングで振った。
兄ちゃんは尻もちをついて、鼻血を出した。
執行官が何か叫んで、オカンが玄関で口を押さえて、ご近所の窓が二つ、三つ、開いた。
警察が来るまでの十数分、俺は逃げも隠れもせんと突っ立っとった。
殴った右手がジンジン痛かった。
手錠は、思ったより冷たくなかった。
人肌に温もった手錠て、なんか嫌やな、と思った。
傷害の現行犯。パトカーに乗せられる時、ご近所の視線が背中に刺さった。
三十二年間「馬場さんとこの息子さん、家おるらしいで」やった男の、最初で最後のご近所デビューや。
取調べの刑事は、定年前くらいのおっちゃんで、腹立つくらい優しかった。
缶コーヒーくれた。あったかい方や。
「ほんで、なんで殴ったんや。漫画のためか」
「……漫画とちゃう」
「ほな、なんや」
「俺の人生や」
おっちゃんは、笑わへんかった。
調書を打つ手を、ちょっとだけ止めた。
ほんまに、ちょっとだけやけどな。
あの一秒足らずが、三十二年で一番、人にちゃんと聞いてもろた一秒やった。
留置場の二晩目、俺は薄い毛布の中で天井を見とった。
曜日の計算だけは、頭が勝手に済ませとる。
今夜の二十五時半が、あの子の負け回や。
喪服は着られへん。リアタイもでけへん。そもそもテレビが、もう、うちにない。
二日で出られた。
被害者の兄ちゃんが、示談に応じてくれたらしい。
示談金は二十万。
オカンが、最後に残しとった郵便局の口座を空にして払うた。
帰りのバスで、オカンは一言もしゃべらんかった。
俺が小五の時、そろばんの検定に受かって、同じバスで帰った。
あの時のオカンは、隣でずっとしゃべっとった。
家に着いて、オカンは仏壇の前に座った。
線香を上げて、親父の遺影をしばらく見て、それから、こっちを見んと言うた。
「直哉。……もう、ここまでやわ」
ここまで。
それが何を指すんか、計算するまでもなかった。
仕送りの終わりでも、小遣いの終わりでもない。
オカンを、三十二年やってきた人の、店じまいの言葉や。
「あんたのごはん、明日から作らへんから」
それだけやった。
泣きも、怒りもせえへんかった。
泣いたり怒ったりは、まだ望みのある人間にやることなんやと、俺はあの背中で知った。
その夜、俺は家を出た。
橋の上は、風が強かった。
欄干に手かけて、下を見た。黒い川がゆっくり流れとった。
あの幼馴染、どんな顔で負けたんやろな。
負ける瞬間まで目逸らさんのが礼儀や、言うといて、看取るどころか、俺は留置場の天井見とったわ。
最後の最後で、礼儀を欠いてもうた。
せめて最期に、あのヒロインを看取ってやりたかったな。
……俺の人生は、誰にも看取られんけど。
なあ、神様。
おるんかどうか知らんけど、おるんやったら聞いてくれや。
勝つヒロインもおれば、負けるヒロインもおる。
人生にも勝者はおって、俺みたいに救いようのない敗者もおる。
でもな、敗者にも敗者なりのプライドがあんねん。
俺は働かん。働いたら負けや。俺がなるんはラノベ作家かアニメ監督、あとはハーレム王くらいや。
なられへんかったら人生終了でええ。
……とっくの昔に終わっとったのを、OVAにもならん延長戦しとっただけやけどな。
欄干をまたいだ。
風が、背中を押すみたいに吹いた。
最後に浮かんだんが、オカンの背中でも親父の遺影でもなくて、看取り損ねた幼馴染の顔やったあたり、俺はほんまに、救いようのないラブコメオタクやった。
飛んだ。
水面まで、約一秒半。
人生で一番、何も考えんでええ一秒半やった。




