化け物
汚れで束ができ、毛羽立つ体にでっぷりとした腹、特徴的な丸っこい耳に長く伸びた歯。
ミミズのような尻尾をのたうち回らせ、鼻をヒクヒクと動かす。
四足歩行の体を無理やり二本足で立たせ、細かく顔を動かし周囲を確認する。
その動き、シルエットは明確に不衛生な害獣の代表を指していた。
「ネズミの魔物!? どうしてここに……いや、当然か。飲食店では害虫、害獣との戦いが日常茶飯事だ。床下や天井に、あるいはゴミ山へ運ぶ前の袋の中に虫や小動物の死骸が詰め込まれていてもおかしくない。それにスラムに流しきれなかった分と酒場で溢れた腐の魔力が憑りついて、といったところか。あ、いや、待てよ。ここにユニ君の強すぎる腐の魔力が重なったことも要因に」
マリーは一人でブツブツと呟き、考察を重ねる。
「考え込んでる場合じゃないよ、マリー!」
呑気なマリーにライムは大声で呼びかけて注意を促した。
ネズミの魔物は天井から落ちてきたらしい。
梁を破壊したせいで床には鋭利な木片が転がっており、空気中を木粉と埃が舞う。
真下の席に座っていた男性を踏みつぶし、床の上に赤い血だまりを作っていた。
魔物の下で食事をとっていたのは若い家族だったのだろう。
娘と思しき幼子が穢れた空気に咳き込みながらも必死に男性へ手を伸ばす。
それを母親らしき女性が涙を流しながら抱き抱え、止めている。
見るも無残な悲しい光景だ。
だが、あまりそこに注目している時間も無い。
ネズミは男性を踏みつぶし、テーブルをなぎ、鉄板や食器を短い腕で振り払う。
そうして暴れ回ってもなお、ネズミが満足することはない。
甲高い奇声のような鳴き声を上げ、パイプのように太く重い尻尾で周囲の人間を叩き、蹴散らす。
母子はもちろん、近くに座っていた若いカップルや酔いどれた騎士らも壁や床へと叩きつけられた。
ある者は内臓を破裂させて血を吐き、また、ある者は痛みにのたうち回って呻きを上げる。
少女の母親のようにピクリとも動かないものだっていた。
また、ネズミから離れているからといって安全なわけでもない。
投げ飛ばされた鉄板にぶつかり、腕や顔面を骨折した者やテーブルに押しつぶされて身動きが取れなくなっている者もいる。
店内の人間全員が等しく危機にさらされていた。
「おい、どけ! 殺すぞ!!」
助けを求める人間を足蹴にし、出口へと駆けていく集団。
その中には騎士もいる。
響く怒号に悲鳴、泣き声。
生臭い鉄と埃の匂い。
崩れていく建物。
ライムの目の前には地獄が広がっていた。
「なに、これ……」
呆然と呟く。
一ヶ月に満たない程度ではあるが、ライムだってユニと毎日魔物の討伐をしていた。
被害を未然に防げたこともあれば現場に駆け付けた時点で酷く荒らされていて、十名以上の死人が出たこともある。
そもそもスラムという地が恐ろしく過酷だ。
地獄の光景に少なからず耐性がある。
ライムは魔物の被害に怯え、動揺しているわけではない。
ただ、目の前の光景を上手く理解できなかった。
『どうして、この人たちは魔法を使えるのに戦わないの? 誰のことも助けないの? 城下町に住めるくらい清らかな心を持っているはずなのに、どうして?』
諸々の事情あって動けない者はともかく、元気に逃げ回っている者まで応戦しないのは何故か。
治癒の魔法を使える者はいないのか。
使えるなら、どうして自分や誰かのために役立てないのか。
ライムには分からなかった。
誰かの魔法によって壁が爆破される。
店の内外に木片や砂の交じった爆風が吹き荒れた。
『まただ。どうして、それを魔物にぶつけないの? 皆で戦ったら勝てるかもしれないのに。誰も死なずに済むかもしれないのに。なんで?』
小さな虫が巣を見捨てるように、壁の大穴から人々がわらわらと逃げていく。
ライムの心が言い表しようのない空しさと悲しみを覚えてキュッと縮こまった。
「醜いね」
ライムの胸中を知ってか、あるいは単に目の前の光景を表現したのか、マリーが静かな声で呟く。
口角は上がっていたが、目は笑んでいなかった。
「うん。でも、言ってる場合じゃないから。皆、まだ死んでないかも。助けられるかもしれない。だから、ユニ!」
魔物の存在を知れば、自然と意識はユニの方へ向く。
それだけ、ライムはユニのことを頼りにしていた。
戦闘力が高く、根底に優しい心を持つ彼なら地獄を止めてくれると思った。
実際ユニは誰よりも早くネズミの方へと走り出していた。
その姿は勇敢で美しく、おとぎ話に出てくる英雄のようだった。
ただし既に出た犠牲者を見捨て、あるいは利用し、ネズミを殺す事だけを優先していなければの話ではあるが。
「ユニ! 何してるの!!」
床にはいくつも穴が開き、おまけに割れたガラスや陶器が散乱している。
走ることはおろか歩くことすら困難で、足場としての利用は不可能に近い。
そのため、ユニはあちこちに散らばるテーブルを踏み台にして店内を飛び回り、ネズミの魔物に迫っていた。
それ自体は何ら問題ではない。
問題はユニがグッと踏み込んだテーブルの下に瀕死の人間がいたことだった。
既に体を押しつぶされ、呻いていた男性が嘔吐するように血を吐いて動かなくなる。
ネズミのすぐ近く、比較的綺麗で広い床に倒れていた女性が邪魔だったから足蹴にして壁の方へと吹き飛ばす。
彼女は足に怪我を負って動けなくなっていたのだが、壁に思い切り背中をぶつけると声も出せぬままに絶叫して苦しみ悶えた。
ユニは女性のことなど目もくれず、むりやり空けた床に着地すると、ヒラリと涼やかに魔物の攻撃を避ける。
行き場の失った暴力が近くの人間に直撃した。
自分を守るために精一杯というのなら、避けた攻撃が誰かに当たってしまうのも仕方がない事だろう。
しかし、ユニは一般的な騎士とは比べ物にならないほどに強い。
彼のほどの能力があれば、周囲の人間を守りながら速やかに魔物をしとめることだって可能だった。
ライムたちと協力し、怪我人たちをかき集めて比較的安全な場所に避難させたり、傷の手当てを始めることもできただろう。
しかし、ユニはけして救済的な戦闘を行わない。
これはユニの頭が回らないわけでも、あるいは怠慢を働いたわけでもなかった。
被害は最小限に、けれど積極的に市民を助ける必要はない。
その先にある国の利益のため、任務を最優先とせよ。
既に出た犠牲は振り返らず、糧とせよ。
幼き頃から脳に叩き込まれている教訓を元に、ユニは淡々と任務をこなしている。
ただそれだけだったから、ユニはどこまでも残酷なことができた。
「待って、ユニ! やめて! そんな風にしたらみんな死んじゃう! 生きてる! まだ、生きてるから!」
ライムが叫んでもユニは止まらない。
任務に全神経を集中させていて、彼女の言葉は耳に届いてすらいなかった。
人間を盾として使い、用が済んだら飛び道具としてネズミへと投げつける。
無用な血が飛ぶ。
生者が死者へと一気に近づいた。
「ユニ、やめて! やめてってば!!」
涙交じりの絶叫に価値はない。
ユニはネズミに投げつけた男性の体を利用して自身の身を隠すと、死角から剣を突き出した。
男性の体ごとネズミが貫かれる。
魔物は魔法でなければ殺せない。
だからユニは男性が串刺しになっていることにも構わず、剣から電流を流してネズミを焼き殺した。
自分自身が感電しないよう、剣はあくまでも相手に魔法を届けるための触媒に使用している。
そのため剣そのものには電気が流れておらず、男性が感電することもなかった。
だが、電流の有無にかかわらず長剣で腹を貫かれ、内蔵を切り裂かれては、ただでは済まないだろう。
ユニは男性から剣を抜き取ると、瀕死の体を無造作に地面へ転がした。
剣に付着した血液を制服の裾で拭い、鞘に納めると、そのままライムの方へ向かう。
「ライム、終わったよ。帰ろう」
いつもと変わらぬ平坦な声でライムを呼ぶ。
だが、ライムは頷かない。
代わりに、ブルブルと震える唇をこじ開けた。
「なんで、あんなことをしたの?」
「あんなこと? 魔物の体に直接電気を流したこと? だって、普通に雷をぶつけたら近くの木片も燃えて、火事になるから。内部からの感電が一番だと思う」
「違う! どうして誰かを踏んづけたり、投げ飛ばしたり、盾に使ったりしたのって聞いているの! どうして、どうして、あの人を刺したの!!」
ユニは自分の犯した罪をいまひとつ理解できていない。
無垢な子どものようにキョトンとした様子が、ライムには無性に腹立たしかった。
「ユニ!!」
ライムは激昂し、怒鳴り声を上げるとユニの胸ぐらをつかんだ。
涙で歪んだオレンジの瞳は怒りに燃え、グラグラと揺れている。
叱られている理由はまるで分らないのに、ライムの激情だけは伝わってきて、ユニは酷く混乱した。
「それが最適解だったから」
何も分からないなりに、ライムの質問に答える。
声は酷く乾いていて、言葉は空虚の中に薄い焦燥が混じっていた。
しかし、そうやって絞り出した言葉は当然にライムの神経を逆撫でした。
「最適解!? 助けられるはずの人を利用して、殺すことが!?」
「うん。だって、あの人たちは、もう助からないから」
「そんなの、分からないでしょ!!」
「分かるよ。俺は仕事で遺体を山というほど見てきた。死ぬ寸前の肉体だっていくつも。だから、それくらいの見分けはつく」
四肢の欠損や植物状態など生活が難しくなるほど体に大きな欠損が残った場合、その人間は国にとって役立たずになる。
蓄えのあるうちは病院で治療を受けたり、細々と生活を送ったりすることもできるだろうが、金が尽きたらおしまいだ。
ノストリア王国は無職の貧困者を許さない。
よほどの事情がない限り、補助だって出ない。
無職の状態で家賃を三か月以上滞納すれば通報され、あるいは飢餓に喘いで盗みを働けばその時点でスラム行きが確定する。
弱者にとことんまで厳しく、誰でも弱者になる可能性があるからこそ落ちぶれないようにと尻を叩き続けるのがノストリア王国だった。
故に、ユニに叩き込まれた思想も弱者を見れば切り捨てよ、というもの。
血も涙もない、冷酷で残忍な教えだった。
「死にかけている人も、手足が動かなくなるだけの人も、みんな死んだみたいなものだ。だから、早く切り捨ててまだ元気な人を助けたり、任務を終わらせたりする方が大事。スラム行きになる人も、酷い目に遭う前に死ねた方が幸せだ。俺は、そう教わってきた」
ユニは淡々と事情を説明する。
ノストリア王国の最下層に位置するスラムの住民であり、今日までを必死に生きてきたライムに、受け入れがたい理屈を伝えてしまった。
「死んじゃう人は道具にしていいって、これから苦しくなる人は殺した方が良いって、ユニ、それ、本気で言ってるの?」
「うん。その方が死んだ人とこれから死ぬ人のためになるらしい」
「でも、皆にだって家族がいて、恋人がいて、大切な人がいるの。その人が無残に殺されたら悲しいに決まってる。死にかけている人たちだって、まだ生きたいって思ってるかもしれないでしょう」
「そっか。でも、大切な人なんていないかもしれないし、死にたがってるかもしれない。なにより」
先程からずっと、子供の泣き声が響いている。
父親を殺され、母親までも生死不明。
目を開ければ血しぶきが飛び交って、閉じれば受け止めきれないほどの異音と化け物の鳴き声に恐怖を掻き立てられる。
ネズミの魔物に襲われて以来、少女はパニックに陥ったまま、ずっと目と耳を塞いで泣いていた。
ユニが音の源の方へツカツカと歩いていく。
少女に覆い被さっていた母親の体を足蹴にして退かした。
少し暗闇が退き、母の暖かな体温が消えて冷たい空気が座り込んだ体の隙間にあちこち入り込む。
異常に気がついた少女は恐る恐る目を開けた。
涙で真っ赤になったそれが見つけたのは、自身の方へ振り上げられる長剣だ。
驚きと恐怖で瞳孔が広がる。
思わず泣き止んだが、今度は喉が震えて助けを求める声も出せない。
「親の無い子どもは、この先、生きていけない。それに多分、親が二人とも目の前で死んで心に深い傷を負っている。パニックになるような子どもは、この先何の役に立たない。この前のテロのせいで病院も療養施設も空いてない。だから、孤児を見つけたら片端から殺せ。そう、命令が出てる」
何故と問われることを予想したのだろう。
ユニは冷たい目で少女を見据えたまま、ライムに向けて説明をした。
剣は今すぐにも少女へ振り下ろされそうだ。
ライムはギリッと歯ぎしりをした。
「いい加減にしなさいよ、この馬鹿!!」
ライムとユニの距離は遠くない。
彼女はガタガタになった床の上を駆けると、少女が切り裂かれる前にユニを思い切り突き飛ばした。
いくら油断していたとはいえ、ユニならばライムに応戦できただろう。
他の人間にしたように足蹴にして、吹き飛ばすことだってできたはずだ。
だが、相手がライムだからユニはそれをしなかった。
代わりに、ライムに押されるがまま体勢を崩して床の上に座り込んだ。
「ライム、平気? 痛い所はない?」
自分の上で倒れ込むライムに優しく声をかける。
ライムは顔を上げると、ユニの上にもたれかかったままギロリと彼を睨んだ。
「なんで、私の心配はできるのよ! あの子には、皆には酷い事をできるのに、どうして私にだけはそうやって声をかけるの! 私は、私はどこも痛くない! 魔物にだって攻撃されてない! 大切な人だって亡くしてないのに!」
強い言葉で叱られても、感情に訴えるように説得的な言葉をかけられても、ユニはずっと何も理解できない。
ただ、彼女が怒っていることしか分からなかった。
「俺はライムだけ大切だから。分かった、ライムが嫌がるなら誰も殺さない。今日は任務を放棄する。だから、帰ろう」
任務はユニにとって何よりも大切なものだった。
それだけが生きる理由だった。
だからこそ、規則を破るだけでなく任務を捨ててしまうというのはユニにとって異例中の異例の行為で、彼にできる最大限の譲歩だった。
だが、当然ライムはそんなことを知らない。
ユニを理解できなかったし、彼の言葉も何も嬉しくなかった。
ライムは差し出された手をバチンと叩き落とす。
「触らないでよ、この化け物!」
叩かれた手よりもライムから向けられる憎しみの目の方がずっと痛い。
心臓を太い針で貫かれたような、握りつぶされたような嫌な感覚を覚えた。
「ライム?」
ユニが不安定に声を出す。
ライムを覗き込むユニの瞳は怯えと不安で震えていた。
それを彼女は怒りと悲しみの混じった瞳できつく睨み返した。
「私、ユニはすごく優しい人なんだと思ってた。一緒にスラムで戦ってきて、ユニは自分が怪我をするのもいとわずに魔物を倒していたから。変な人だけれど、でも、誰かのために一生懸命になれる人なんだって、操り人形なんて誤解だって思ってた。でも、私が間違ってたんだね。ユニは化け物だったんだ」
「ばけ、もの?」
「そうだよ。誰かを助けるのも、傷つけるのも、全部他人がどうでもいいからなんだ。だから、優しい事も残酷な事も全部同じ顔で出来るんだ!」
つい先ほど見た光景がショックで堪らない。
人は自分の価値基準の中で他人や物事を判断しがちだ。
ライムは自分に懐くユニを見て彼の人間的な側面を知り、知らず知らずの内に彼を自分と同質のものとして見ていた。
そこに更に、理想を重ねていた。
それが、ポロポロと崩れ落ちる。
残ったのは自分に執着を向けるだけの気味の悪い化け物だった。
「でも、俺、ライムは大切で」
「だから何!? だったら何になるっていうの! 私、貴方みたいな空虚な化け物なんて大っ嫌い! もう、顔も見たくない!!」
手汗の酷い手のひらでギュッとスカートの裾を掴む。
願いを実行するように、瞳を固く閉ざしていくつもの涙を床の上に落とす。
「ライム、俺……」
言い争いの過程でライムは立ち上がり、ユニからも離れていた。
もう一度触れたい。
触れて欲しい。
縋りたがるユニの手がフラフラとライムの方へ伸びていく。
だが、ライムはその手を取らなかった。
「いいから、あっちに行って! 触らないで! 近寄らないでよ!! ユニなんか大っ嫌いなんだから!!」
目を閉じたままの怒鳴りがトドメとなって、ユニはライムを諦めた。
唇を震わせて、何も言うことができないままに店を後にする。
彼の気配が完全に消えて、ライムは膝から崩れ落ちた。
「あっ、くっ、ひぅっ」
しゃっくり交じりの嗚咽を溢して涙を喉の奥にしまい込もうと必死になる。
だが、ライムは自分の吐き出した言葉や感情も、あるいはユニ自身のことも、起こってしまった惨劇にも、全てに耐えられなくなって大声で泣きじゃくった。
「ユニの、ユニの馬鹿! 嫌い! 大っ嫌い!!」
両手で顔面をもみくちゃにし、いなくなった彼に罵声を浴びせる。
けれど、吐き出した感情と願いは別物で、悲劇を掻き消したいと強く思うからこそ心は聖の魔力に変換されて辺りを満たす。
少し前からずっと行使されていたライムの一番得意な魔法。
それが癇癪によって強大になり、死の淵にあった人間すらも呼び戻す。
ライムが助けてやれなかったのは、魔物の出現と同時に押しつぶされ、即死した男性だけだ。
「理想を願う心は腐ることなく煌めくのか。炎みたいに踊るオレンジの魔力が綺麗だ」
惨劇を塗り替える奇跡。
それをマリーは静かに見守っていた。




