「水」
酷く不愉快だった門を抜けてライムが初めて目にしたのは、舗装された道の脇にズラリと並ぶ同じような形の建物の群れだ。
そこを似たような服を着た人々が静かに行き交っている。
城下町はライムの想像していた活発で明るい町ではなかったが、それでもスラムと比べれば随分と美しい。
「すごいよ、ユニ! 誰も泣いてない! 物乞いもしてない! やらしいことも、怪しい商売も無いよ。喧嘩の声だって聞こえないし、地面も血や吐瀉物にまみれてなくて綺麗だ。すっごく平和だよ!!」
ユニの手をグイグイと引き、あちこちを指さすライムは酷く興奮している。
初めての城下町に対して出る感想がそれでいいのか、議論の余地はありそうだが、これがライムの町に対する素直な第一印象だった。
彼女にとっては普遍的に安全を担保された場所というもの自体が初めてで、十分、称賛に値するものだったのだから。
「街には警備の騎士がたくさんいる。それに、ノストリアでは悲鳴が聞こえること自体、おかしいことだ。何かあったらすぐに対処されるから、犯罪が少ない」
その分、監視的で冤罪が多いのも城下町の特徴だ。
だが、ユニはその身分が故にトラブルに巻き込まれたことはなく、ライムも政治的な知識は一切なかったから感心するばかりで何も疑問を覚えない。
二人の後をつけている人物は会話を盗み聞きし、
「すごいじゃないだろう。全く、能天気な子達だ」
と、呆れて苦笑いを浮かべていた。
「ライム、これからお昼を食べに行こうと思うんだけれど、肉と魚、どっちがいい?」
「お肉!!」
「そういうと思った。ステーキを食べに行こう」
「うん!!」
ユニに連れられ、ライムは大衆向けの比較的高級なステーキハウスに入った。
中はかなり薄暗く、ステンドグラスでできたライトだけが朧気に店内を映し出す。
赤や青、黄色など色彩豊かな光が乱反射する光景は、まるで水の中を歩いているようでやけに幻想的だ。
しかし、足元は暗い上にゆらゆらと揺れる淡い灯りに気を取られるせいで通路は非常に歩きにくい。
腰から小さなライトをぶら下げた店員が、恭しく二人を席までエスコートしてくれた。
店員はスッと椅子を引いてライムを席に座らせようとするが、ユニがそれを拒否して自分で彼女を座らせる。
初め、ライムはなれない環境に緊張して体を縮こまらせていたが、ユニがメニュー表を見せるとキラキラと目を輝かせ、それから熱心に紙面を眺めた。
悩んだ末、ライムはリブロースステーキを四百グラム頼み、ユニも彼女と同じものを注文する。
ライムは生まれて初めて食べる脂肪分たっぷりでレアな肉にウキウキと心を弾ませていた。
「ライム、足をパタパタさせてかわいい」
指摘され、ライムは初めて自身の幼い動きを自覚する。
ライムはハッとした表情になると、すぐに足の動きを止めた。
羞恥で頬を染め、申し訳なさそうにユニの顔を覗き込む。
「はしたない事してごめんね。お肉、すごく楽しみで」
「はしたない? 俺は、ライムの仕草や表情、キラキラの瞳が本当にかわいいなって思っただけ。格好も凄くかわいい。服も髪型も似合ってる。かわいいライムの姿を見れたから、プレゼントして良かったって思う」
デートは突然に決まったことだが、憧れの地に一歩踏み出すとなればライムは当然に張り切る。
いつか売るためにとミディアムヘアにまで伸ばしていた髪に編み込みをいれ、その端を涼やかな空色のリボンで括る。
勿体ないからと着られずにいたキャミソールワンピも水色だ。
裾は体の動きに合わせてふんわりと広がり、所々で揺れる純白のフリルは入道雲のようだ。
胸元から下へ向かうにしたがい、段々に色合いが濃くなっていく様は移ろう空のようで美しい。
サンダルには様々なカッティングの施されたビーズが煌めいていて、ライムは大空のような何とも自由で晴れやかな姿をしていた。
麦わら帽子まで被れば夏にピッタリの爽やかさを身にまとうこととなって、白い砂浜や深い藍色の海にさぞ映えることだろう。
ノストリア王国では、身分によって身に着けてよい衣服がある程度定められている。
肌の露出が多い物や個性的な表現の著しい物はもれなく禁止され、騎士に見つかれば罰金を課される。
故に、一般人が出入りできる服屋には限定された材料で作られた似通ったデザインの衣服ばかりがズラリと並んでいた。
衣服に関するルールを無視できるのは他国の貴族であるマリーや騎士団長のユニ、また、書類上では彼の所有物という扱いになっているライムだ。
ライムには現在ユニのペット的な特権が与えられている。
そのため、一定の範囲内で彼と同等か少し劣るレベルの待遇を受けられることとなっていた。
だからこそ、ライムは自由で少し露出の多い衣装を身に着けることが許されている。
ノストリアはライムが想像するよりもはるかに身分制と規律が厳しい国であり、酷く閉鎖的な場所だった。
もちろん本人は自分が置かれている状況も、ノストリアのルールも、何も知らずにユニとのデートを楽しんでいるが。
「うう、ユニ、あんまりお外でかわいいって言わないでよ。恥ずかしいし、なんか暑いよ」
ライムはパタパタと手で火照った顔を仰いで、それからポツポツと文句を言うと液体の入ったグラスを掴んだ。
中身は無色透明。
てっきり水だと思っていたから、ライムは一口だけ液体を含んで驚きに目を丸くした。
「んっ! んに、んに、こへ、いや!!(ユニ、ユニ、これ、嫌!!)」
口に入れたのが少量だったから、ライムは不明瞭ながらも話すことができる。
どうやらライムは口に入れてしまったものを吐き出したくて堪らないようだ。
「どうせ飲まないんだからグラスに戻していいよ」
「へも(でも)」
「別に、俺は気にしない。ここは暗いし、周りの客から俺たちは見えないよ。どうしても嫌なら、俺も見ないから」
ユニがふいっと顔の向きを変えるとライムは安心し、それからそっと液体をグラスに戻した。
「ユニ、あの、ごめん」
ライムはスラム生まれだがベルアッテの影響で少しだけお上品な振る舞いを知っている。
その知識が、人前で食べ物を口から出すことは絶対にしてはいけないことだと強く告げていた。
ましてや、ライムはユニが好意で連れてきてくれた飲食店にいるのだ。
水を吐き出したことが恥ずかしくて情けない。
罪悪感でいっぱいになり、ライムはうつむいてしまった。
しかし、ユニは気遣いで「別に」といったわけではない。
彼は本当に何も気にしていないのだ。
ただ、代わりにライムの液体に対する反応そのものには興味があるようだった。
「平気だから気にしないで。でも、ライムは城下町の水が嫌いなんだ。変な味はしないのに、何が嫌だった?」
「あれ水!? 水、かなぁ。なんかね、スラムには定期的に泥みたいな配給が送られてくるんだけれどね、それと同じ感じがしたの。触れただけで元気がなくなるような、自分の大切な何かを奪われるような嫌な感じ。味とか、そういう問題じゃないんだと思う」
ユニと一緒に生活するまで、ライムは結構なんでも食べていた。
腐りかけの果物やカビの生えたパン、食べられる虫、雑草。
人体に害の少ないものなら、本当に何でも。
その彼女でも食べないものが疫病だらけのネズミと腐敗しすぎた汚物、それに配給の泥だった。
これらは口にいれた瞬間、毒だ、食べてはいけないと脳が激しく警告を鳴らす。
喉が飲み込むことを拒否して、わけのわからぬ怖気が込み上げた。
吐き出すしかなくなってしまう。
体にゾワリとした感覚が残っていて、ライムは無意識に自身の腕を擦った。
「そっか。ライムがそう思うなら、きっと正しいんだと思う。俺もマリーに忠告された。大切なものを失いたくなければ飲むなって。マリーの言葉、何となく守ってたけど、多分、正しかったんだと思う。俺はこれからも『水』は飲まない。ライムもそうした方が良いと思う」
言いながらユニは二つのグラスをいっぺんに片手で持ち、中身を躊躇なく床にぶちまけた。
「ユニ!? 何をしているの!?」
ヒステリックにすら映るユニの奇行にライムが悲鳴に近い声を上げる。
しかし、ユニはいたって冷静だった。
「これでいい。この国では『水』を飲むことは義務だ。それを逃れたいなら、見た目だけでも空のグラスを作らないといけない。この店は薄暗くて周囲が見えにくいし、床には排水溝もあって液体がそこへ流れていく構造になっているから『水』を捨てるのに便利だ。だから俺は、ここをライムとの食事の場所に選んだんだよ」
ライムたちのいる店はリブロースなど脂身の多い霜降り肉を主に提供している高級なステーキハウスだ。
どんなに厨房を隔離しても煙や肉の焼ける匂いは客席にまで届いて充満するし、テーブルに置かれた鉄板の上では霜降り肉がバチバチと脂を跳ねさせている。
だが、店主はどうしてもステーキハウスの油っぽい印象を払拭したいらしい。
故にどうしても汚れ、べたつく床をこまめに効率よく清掃するべく、随所に排水溝を設けており、また、そもそも汚れが目立たぬように店内を暗くしていた。
今回のユニの行動は、それを悪用した形だ。
マリーから忠告を受けていたユニは、ライムも『水』を飲むべきではないかもしれなと考え、『水』を捨てられる場所を選んでいたのだ。
本人に自覚はないが、大切な人間ができたことと『水』を飲んでいないことが影響して、ユニは少しずつ本来の自分を取り戻している。
観察力と分析力が高く、自主的な判断に優れていた本当の自分に。
監視者はユニたちと同じ店に入れるほど身分が高い。
彼女は二人の死角に入り込んでランチを楽しみ、ユニの変化をメモにとってニタリと笑った。




