壊滅した物質文明
半径100キロ圏内には島ひとつない海上で、護衛艦「あきづき」は慎重に航行している。日差しの反射する波間は緩やかに起伏し、三日前の狂乱のうねりは見る影もない。しかし平穏な海面の下は死の世界だ。時折その痕跡が海上に姿を現した。
点在する漂流物には建造物の残骸、船舶や航空機の一部、黒ずんだ重油など様々あり、中には人体の一部も含まれる。遺体は膨大な廃棄物と同列の扱いとなり、回収されることもない。
アクティブ・ソナーは複雑な海底形状のデータを集め、かつては陸地にあった建造物まで特定しようとしている。それは海底に滅びた先進文明の証跡であり、彼らはその象徴である高層ビル群の真上にいた。
「水深20メートルに構造物・・・現在新宿区西部」
「あきづき」の吃水は6メートル以下で衝突の危険はない。うっすらと影の見えるその真上を「あきづき」は通過した。
「構造物は都庁本庁舎と思われます。48階建て、高さは243メートルです」
ソナー員の報告から艦長は捜索範囲を練り直した。新宿の元の標高は30メートル程度で現在の水深は260メートルを示している。
「この一帯は何も見えないだろう・・・航海長、針路を港区へ」
「はい、港区へ向かいます」
復唱したものの、海底都市の位置を割り出すなど容易ではない・・・航海長はとりあえず東京都庁を基点に南東へ舵を切った。
幸いにもレーダーに反応があった。その方向を目指し、7ノットで30分も進むと見張り員が双眼鏡で発見した。
「前方に構造物の一部が見えます」
タワービルの頂上が、水面から30メートル近く突き出ている。
「屋上に人がいます。少なくとも百人以上・・・」
艦長はヘリの発艦を命じた。後部ヘリポートから飛び立った海自ヘリはビルの上空で旋回した。80メートル四方の屋上に500人以上が集まっている。
これが東京23区の生存者全てだった。彼らは日本一高いビルの屋上に逃れた。それでも迫りくる海の恐怖に怯え、助けを求めて必死で手を振っている。
ビルの手前70メートルで「あきづき」は停止した。艦長と副長は前例のない救助方法について話し合った。
「屋上だと高低差が厄介です。乗り移るなら3階下の窓が丁度いい高さですが・・・」
「窓から避難でいい。これだけの人数だ、ゴンドラなど使っていたら日が暮れてしまう」
「しかし窓は開かないはずです。破壊するにも頑丈そうですね」
「20ミリ機関砲で壊せないか?」
副長は冗談かと思ったが艦長は本気だ。
「有事における緊急対処だ。他に方法はないと連中に伝えろ」
副長は当惑した顔で頷いた。
「分かりました。ヘリから隊員を降下させて避難者を誘導します」
今は紛れもなく有事だ。首都にある国家の中枢は、300メートルの海底で機能が止まっている。防衛省も自衛艦隊司令部も存在せず、今や艦長の判断が全てだった。
命令は実行された。1秒間の射撃で50発の20ミリ弾が撃ち込まれ、およそ40メートル分の窓ガラスが吹き飛んだ。
横付けした護衛艦との間にワーフラダーを窓に架け、人々が続々と乗り移った。最終的に避難者は652名で、甲板と格納庫は満杯になった。
「あきづき」は西へ向かって陸地を目指した。状況は見当もつかないが、安全な上陸地点を自ら探し出さなくてはならない。地上では通信インフラは壊滅し、インターネットも電話も繋がらず、無線通信に頼るしかない。それも通話距離は短く、無線設備のある市町村、警察、消防といった相手に限られる。
そのいくつかと交信はできたものの、想像以上に厳しい状況が浮き彫りとなった。
「艦長、いずれの地域も混乱の極みです。停電で交通は寸断され、水没地区から避難者が殺到しています。通信の途絶は致命的で無統制状態といっていいでしょう」
行政機関の支援は期待できず、「あきづき」の避難者は自力で活路を開くしかない。
「考えうる避難ルートですが・・・」
副長は関東地方の地図を広げ、水没地点を書き込んだ。
「本艦が通れるのは八王子市までです。この高尾山で降りてもらうしかありません。10キロ先の上野原市までが水没区域と思われますが、ここは修羅場となっているでしょう。そこを迂回して大月市へたどり着ければ、ここで受け入れてもらえるかもしれません・・・30キロを歩くことになりますが」
艦長は険しい顔で副長に問いただした。
「老人や子供までいる。山道を丸一日歩かせるのは酷だと思わないか?」
「思いますが、これが最も安全なルートです。近い町ほど被害は大きく、避難する住民で溢れかえっているでしょう」
「そこが終点ならまだいい。大月市が受入れを断ったら?」
「甲州市まで行けばあるいは・・・百キロを移動することになりますが」
艦長は甲板に座り込む避難者たちを眺めた。1千万人近い人口の中から奇跡的に生き残った652名・・・しかし安息の地へたどり着ける保証は全くない。果たして日本にそのような場所があるかどうかも疑わしかった。
前方に高尾山が視界に入った。八王子市を通過すると、水深が浅くなっていくのが分かる・・・陸地に近づく程、地獄絵図が目の当たりに広がった。海との境目には大量の漂流物が集まり、家屋の残骸、逆立ちする自動車、そして数えきれない遺体が流れ着いている。
漂流する家屋の屋根から助けを求める生存者がいた。海自隊員がボートで8人を救出した。「あきづき」に乗り移った新たな避難者に海自隊員は尋ねた。
「高尾山に土地勘のある方はいらっしゃいますか?」
ひとりの老人が手を挙げた。
「登山が趣味でね。あの7本の登山道は全て知っている」
「では、ここにいる659人を先導して頂きたいのですが」
艦長と副長は甲板に降りている。副長はメガホンで非情な現実を伝えねばならなかった。悲痛な面持ちで聞く人々に、副長は励ます言葉も見つからない。
「我々は再び海上の捜索に戻らねばなりません。申し訳ありませんが、我々にできるのはここまでです」
艦長は置き去りにする人々の顔をうかがった。思ったほど不平を口にする者は少ない。地上に少しでも希望を持っているのか、あるいは絶望して運命を受け入れているのかは分からない。
幼い子を抱える母親が艦長に懇願した。
「あの・・・この子は丸二日何も食べていないんです。この子だけでも何か頂けないでしょうか?皆さんも同じことはよく分かっていますが、それでも・・・」
艦長は副長を呼び、海自隊員の食糧を供出するよう命じた。
「もれなく全員に配るんだ。それから隊員を2人、避難者に同行させろ。地上の状況を逐一報告させるんだ」
船底に障害物が接触し、艦内に不気味な音が響いた。艦長は限界と判断し、停船してボートで上陸させることにした。既に高尾山は目の前にあり、山道が海面に現れている。
食料の配布を受け、避難者たちは次々とボートに乗り移った。パンを手にした親子は深々と艦長に頭を下げた。艦長は複雑な顔で頷き、艦橋へ上がった。
漂う遺体をかき分け、避難者を乗せたボートは一列に進んだ。カラスに食い荒らされた遺体から目を背けながら・・・。
艦橋から見守る艦長は、救助を続ける意味に疑問を抱くようになった。こんな事を繰り返しても避難者を無秩序の渦に放り込むだけだ。全て止まったものが、いくら待っても元通りになることはない・・・生きるために必要な大部分が海に飲み込まれたのだから。
艦長は通信員に命じた。
「『くにさき』に要請しろ。要救助者多数、ありったけの水と食糧を持って来いと。それが無理なら救助活動は中止だ」
「あきづき」の甲板から避難者は完全に消えた。
「微速後進!」
高尾山から後ずさりする「あきづき」に、手を振る避難者もいる。感謝する彼らの気持ちはやがて変わるだろう・・・。
最高峰172メートルにも関わらず、硫黄島は水没を免れている。周辺海域が地球規模で上昇した海面より300メートル低い為だ。島にいる者にとって、海底火山噴火による恐怖は十分味わったものの、島自体が変化したという認識はない。
その火山活動も収束に向かい、「重力の穴」に守られた硫黄島は平穏そのものだ。
輸送艦「くにさき」は硫黄島の南海岸沖に停泊し、LCACによる揚陸作業が開始されている。
硫黄島には海自と空自の基地があり、およそ500名が駐留していた。杉山は海自航空基地でラングレー少佐と再会した。杉山はここで暫定危機管理室を立ち上げ、自衛隊と米軍の幹部を招集した。
世界情勢については米軍の情報網に頼らざるを得ない。海兵隊の情報将校は米軍の把握した実状を余すことなく伝えた。
「ワシントン・ニューヨーク・ロサンゼルス・・・主要都市の水没は我が合衆国も同様です。ヨーロッパに於いてはロシア・イギリス・フランス・ポーランド等は国ごと消滅したといっていいでしょう・・・ミュンヘンとジュネーブを除きますが。例外はいわゆる高山都市を擁する国々で、ボリビア、コロンビア、エチオピア、イラン等です」
ラングレーがそれに付け加えた。
「生き延びたのは聖なる信仰の証であると彼らは自負するだろうが、これらの国は武力抗争が確実に勃発する」
ラングレーはもはや人類存亡の運命に関心はなかった。
「文明は終焉し、原始的な生存競争が始まる・・・我々はそれに関わってはならず、ここでやるべきことがある。この大災厄はあまりに急激過ぎ、物理的に不自然なことが多い。しかし、決して天罰などではなく、全てはこの島から始まった。それを解明しないかぎり、我々に未来はない」
基地司令官の一等海佐はその意義に疑問を呈した。
「ラングレー少佐、原因調査は重要かもしれないが、その答えが事態の打開に寄与するものなのか?基地の備蓄食料は3か月で尽きる・・・残された時間は多くはない」
「では司令官殿、残された時間で何をすべきとお考えか?」
「杉山情報官が示された通りだ。本土の避難拠点に生存者を集め、国家再建の足掛かりとする。自衛隊はそれを支援する立場だ。私はこの方針を支持する」
ラングレーは呆れ果てたように首を振った。
「現実を理解されていないようだ。具体性のないご都合主義こそ悲劇を生む。地上で何が起きているのか、少しでも分かっていれば、その方針は幻想だとすぐに気付く」
基地司令官は弱々しく反論した。
「我が海自護衛艦が情報収集にあたっている。『あきづき』の乗員数名が東京の生存者660名と共に上陸し、地上の状況を確認中だ」
「安息の地は何処にある?行く当てもない『死の行進』で全員死ぬことになる。無駄な努力はやめることだ」
杉山がたまりかねたように口をはさんだ。
「ラングレー少佐、ご忠告に感謝するが、『安息の地』が無いと決まった訳じゃない」
ダメージを受けなかった高地ではインフラが生きている。中には食糧自給率の高い地域が少なからず存在するはずだ・・・杉山はそれに希望を持っていた。
問題はその地域とのコンタクトだ。
「基地通信隊の責任者は?最新情報を包み隠さず伝えてほしい」
空自の通信電子隊長が答えた。
「交信可能な全ての施設が救援を要請しています」
「空港が生きている地域は?まずは硫黄島飛行場と繋がる空路の確保だ」
「災害を免れた空港は広島、松本、福島の3か所だけです。しかし何れも空港としての機能は失われています」
「管制機能はどうでもいい。地方空港だろうが滑走路一本あれば十分使える」
「いえ、あの災害で行き場を失った千機以上の航空機が殺到し、限界を超えた収容で閉鎖状態です。大多数の航空機が墜落若しくは着水を余儀なくされたものと推測されます」
航空機の運命は誰もが想像できる。運よく着水できたとしても浮かんでいられるのはせいぜい数十分だ。
ラングレーが諭すように言った。
「お分かりか?今の報告が物質文明の終焉を物語っている。物が無ければあるところへ人々は殺到する・・・安息の地があったとしても、食い尽くされて全て終わりだ」
杉山はラングレーを無視して通信隊長に問いただした。
「何の朗報もないのか?『死の行進』が現実になる前に何としても探すんだ」
「避難グループのいる山梨県は水没地域が多く、被災者で溢れているでしょう・・・未確認ですが有力な候補地は長野県です。北部を除いてほぼ災害を免れている上、全国有数の170か所もの水力発電所があり、少なくとも電力と水道のインフラは生きているはずです」
それを聞いた杉山は大型モニターの衛星画像で確かめようとした。日本の変わり果てた輪郭は「くにさき」の作戦室で見た時と全く変わっていない。ただ、三村主任が元の海岸線をマーキングし、主要都市を表示しただけの違いだった。
「確かに、長野県だけは無傷だ・・・未確認とは連絡が取れないという事か?」
「はい、この地域だけが全く交信できないのです。全てが電波状態のせいだと思えず、全く不可解です」
杉山は画面をじっと見つめている・・・衛星画像には水温や気温、波高といった様々な分析データや色分けされた地形の特性が書き加えられていた。
「三村主任、あのグリーンのマーキングの意味は?」
「農耕地と食糧供給能力が示されています。言わば地域ごとの食糧自給率で・・・拠点としての適性を示すひとつの要素です。例えば・・・」
三村はレーザーポインターで東北から北海道までの範囲を指し示した。
「食糧自給率100%を超える地域ですが、ご覧のとおり、壊滅状態です」
「では長野県は?」
「54%です。つまり人口の半数分しか養えません。人口約200万人の内、100万人しか生きられないという事です」
レーザーポインターは長野県内の数か所を示している。
「通信隊長が言われた通り、ここが唯一の安息の地です。あくまで想像ですが、交信出来ないのは外部からのコンタクトを意図的に遮断している可能性があります」
「避難民の流入を恐れているということか?」
「それだけではありません。政府の継承者に主導権を奪われたくないのです。我々のような・・・」
杉山は首を振った。
「全く話にならない・・・君までラングレーに感化されては困る」
議論の最中に「くにさき」の佐々木艦長が報告に現れた。
「揚陸作業は全て完了です。『あきづき』は本艦の艦載ヘリによる支援を要請しています・・・避難グループへの水と食糧の輸送です。出発の許可を求めたいのですが」
いみじくも山村教授が予期した通り、杉山は決断に苦しむことになった。
「死の行進」の結末は文字通りの「死」なのか?それとも300km先にある長野県の安息の地なのか?どれだけの人間がそこへたどり着けるのか、安息の地の住民に加えてもらえるのか、全く分からない・・・しかし、それでも生き残る可能性はゼロではない・・・。
杉山は「くにさき」に出発を命じた。硫黄島基地から隊員1か月分の食糧を供出して。
意外にもラングレーは反対しなかった。ただ、杉山にくぎを刺すことは忘れなかった。
「今後は国内問題には口出ししない。その代わり官邸で交わした約束は守って頂く」
ある地点で、既に海兵隊と陸自隊員による作業が始まっていた。山村教授と美河准尉が見守る中で・・・。




