52「ラグナロック」
「岩石王……ラグナロック」
ハルジオンが、小さく名を呼んだ。
「その記憶が、オリハルコンに刻まれている……」
「かつて、俺も見た」
ハルマが続ける。
「岩石王を砕いたとき、あいつのなかにあった記憶の一端をな」
いつのまにか、ハルマの顔から笑いが消えていた。
さっきまでの軽い調子もない。
「君たちにも、知っておいてほしい」
ハルマがおれとハルジオンを見る。
「あいつが、《岩石王》になるまでの話を」
荒野の向こうで、ラグナロックの影が歩き出した。
おれたちもあとを追う。
一歩踏み出した瞬間、足もとの大地がぐにゃりと歪んだ。
* * *
気づけば、乾いた大地に立っていた。
さっきまでの荒野と似ている。
けれど、風がない。鳥もいない。
その静かな荒野の真ん中に、大きな岩がひとつあった。
ラグナロックが、その上に座っている。
こちらへ背を向け、膝を抱えていた。
おれたちの倍ほどもありそうな身体を小さく丸めて、ただ遠くを見ている。
(……なんだろうな)
その背中を、おれは知っている気がした。
洞窟に引きこもって、ひとりで膝を抱えていたころのおれ。
自我が芽生えたばかりで、なにをしたらいいのかわからなかったころのリル。
「あれが……のちの岩石王?」
ハルジオンがつぶやいた。
岩石王。
動く石像を生み出し、翼の民の天空城を落とし、神々でさえ止められなかった怪物。
何度も聞いてきた名前と、目の前の背中がどうしても結びつかなかった。
「私に残っているのは、断片的な記憶です」
オリハルコンが言った。
「つぎの記憶へ移ります」
景色が白く滲んだ。
* * *
白が晴れると、おれたちは洞窟のなかに立っていた。
剥き出しの岩天井が遠くまで続き、その割れ目に張りついた青白い苔が、街灯みたいに地底を照らしている。
石を積んだ低い家。
煙突から上がる細い煙。
荷車を押すゴブリンに、その横を歩くミノタウロス。
「闇の勢力の街か」
ハルジオンがあたりを見まわした。
ちょうどそのとき、積み荷をひっくり返したゴブリンがミノタウロスに首根っこを掴まれた。
怒鳴り声が飛び、ゴブリンがぎゃあぎゃあ言い返している。
(……住みてぇ街じゃねぇな)
街のいちばん外れ、坑道の入口近くに、小さな鍛冶場があった。
なかへ入った途端、熱気と鉄の匂いが鼻へ入ってくる。
炉に、水槽。金床。壁には大きさのちがう金槌や火ばしが並んでいた。
知らない場所なのに、ここだけは妙に落ち着く。
金床の前には、ラグナロックがいた。
肩幅は広く、腕も太い。
なのに背中は少し丸まっていて、低い天井を気にするように首をすくめている。
伸びた前髪のすきまから、若い顔が見えた。
ラグナロックは、小さな銅鍋の底をたたいていた。
ぽん、ぽん、と丸い音が鳴る。
力を入れているようには見えない。
へこんだ場所を少しずつ戻して、かたちをたしかめ、またたたく。
持ち手の根元には、新しく小さな補強まで入れてあった。
(……そこ、力がかかるもんな)
使うひとのことまで考えて直している。
「……いい仕事するじゃねぇか」
思わず口から出た。
「だよな」
となりでハルマが笑った。
そのとき、入口から小さな影が飛び込んでくる。
「鍛冶師! ぶっ壊れた! 直してくれ!」
ゴブリンだった。
胸には、べっこりへこんだ銅のやかんを抱えている。しかも底には穴まで開いていた。
ラグナロックが金槌を置いた。
「……見せて」
低い声だった。
ゴブリンから受け取ったやかんを、大きな指でひっくり返す。
穴の縁を撫でてから、ラグナロックが顔を上げた。
「……なにをした?」
「湯を沸かそうとしたんだよ。でも、ちっとも沸かねぇから火薬をひとつまみ入れて――ボンだ!」
「……怪我は?」
「おれは平気だ! それよりはやく直してくれ!」
ラグナロックはしばらくゴブリンを見ていた。
「……つぎからは、金を取る」
そう言って作業へ戻る。
薄く延ばした銅板で穴を塞ぎ、へこんだ場所を内側から少しずつたたき出す。
急がない。雑にもしない。
壊れたものを、元のかたちへ戻していく。
どうやら、それがこの男の日常らしかった。
直ったやかんを抱えて、ゴブリンは上機嫌で走っていった。
ラグナロックはその背中へなにか言いかけたが、結局、口を閉じる。
入れ替わるように、ミノタウロスの男が入口から顔を出した。
「おい、鍛冶師。聞いたか? 連中、また睨み合ってるらしいぞ」
「……連中?」
「神どもだよ。また揉めてる。こっちまで飛び火しなきゃいいがな」
「……そう」
「てめぇは相変わらずだな。でけぇ図体して、声はゴブリンより小せぇ。そんなんだから巨人族からも弾かれるんだぞ」
「……すまん」
「だから、そこで謝んじゃねぇ」
ミノタウロスは呆れたように手を振って去っていった。
ラグナロックはしばらく入口を見つめ、それから居心地悪そうに肩をすぼめた。
(……岩石王、なんだよな? こいつ)
ますますわからなくなってきた。
やがてラグナロックは炉の火を落とした。
背負い籠とつるはしを手に取る。
「どこへ行くんだ?」
ハルジオンが聞いた。
「鉱石を採りに行くんだろ」
ハルマが答えた。
ラグナロックが坑道へ入ろうとした、その瞬間だった。
視界が白く弾けた。
鍛冶場も、坑道も、青白い苔の光も消えていく。
「……つぎの記憶です」
オリハルコンの声だけが残った。
* * *
白が晴れると、頬に冷たい風が触れた。
頭上を見る。
岩の天井が大きく裂け、その向こうに細い空が見えていた。
淡い光が差し込み、谷底の半分だけを照らしている。
上には空。
下には地底の闇。
岩壁には使われなくなった坑道の口がいくつも並び、そのまわりを青白い鉱石の筋が走っていた。
「ここは、光と闇の境にあった場所です」
オリハルコンが言った。
「どちらの領分にも入りきらない、"あいだ"の場所」
("あいだ"、か……)
カン、カン、と乾いた音が聞こえた。
岩壁の前で、ラグナロックがつるはしを振っている。
背負った籠には、掘り出した鉱石が半分ほど溜まっていた。
その頭上から、小石がぱらぱらと落ちてくる。
ラグナロックが手を止めた。
「……おっどろいた。ほんとに大きい!」
そう声がした。
崖の上の岩棚に、少女がぶら下がっている。
両手で岩の縁を掴み、足をぶらぶらさせていた。
埃のついた質素な服。
ほつれた髪。
そして背中には、白い翼が畳まれていた。
ハルジオンの目が見開かれる。
少女は岩棚から手を離した。
白い翼がふわりと広がる。
風を受け、そのままラグナロックの目の前へ軽やかに降り立った。
「……あれ? 巨人じゃないのかな。半分くらい?」
少女は遠慮なくラグナロックを見上げる。
「それに――鍛冶屋さん?」
「……なぜ」
「その手」
少女が指を差した。
ラグナロックの大きな手。
火傷の跡がいくつも残っている。
「兵隊さんの手とはちがう。物をつくるひとの手でしょ?」
ラグナロックは、なぜか慌てて手を背中へ隠した。
「わたし、よくここへ来るの。だれもいないはずなのに、今日は音がしたから」
「……おれは、鉱石を採りに」
「知ってる。上から見てたもん」
少女は腰へ手を当てる。
「ねえ、名前は?」
「……ラグナロック」
「ラグナロック」
少女がもう一度その名を口にする。
「かっこいい名前」
ラグナロックは目を伏せた。
褒められたときにどうしたらいいのか、わからないらしい。
「……きみは」
「わたし?」
少女は悪戯っぽく笑った。
「まだ内緒」
「……光の側の子だ」
「そうだよ」
「おれと話したら……怒られる」
「そうかな」
彼女は首を傾げる。
「なら、見つからなきゃいいでしょ?」
「…………」
ラグナロックが黙る。
(……強ぇな、この子)
* * *
それから、白い空白を挟みながらいくつもの場面が過ぎていった。
少女は何度も谷へ降りてきた。
ある日は光の側で採れた甘い木の実を持ってきて、ラグナロックの手のひらへ、押しつけるように置いた。
ラグナロックはそれをどうしていいのかわからずに、しばらくじっと眺めていた。
少女に『食べて』と言われて、ようやく口に入れた。
そして、耳まで真っ赤になった。
ある日は、少女の使っている小さな鉤爪が岩に引っかかって折れていた。
ラグナロックはそれを持ち帰り、つぎの日には丈夫で軽い新しい鉤爪にして返した。
少女は驚いた顔で受け取り、それからものすごく嬉しそうに笑った。
「ありがとう! これで、もっと高いところに登れる!」
「高いところは……危ない」
「大丈夫、大丈夫」
ある日は、少女がなにか愚痴をこぼしていた。
「友だちにね、また抜け出したって怒られたの。あの子、ほんとに心配性なんだ。でも、わたしがいないあいだ、いつもお菓子を取っておいてくれるの」
そう言って、少女は少し照れくさそうに笑った。
ラグナロックのほうは、口数が少ないままだった。
でも、少女といるときだけは、うつむく回数が少しずつ減っていった。
ときどき少女の瞳をじっと見つめては、慌てて視線を外した。
「そんなに見て、なに?」
「……君の瞳は、ルビーみたいだ」
「あはっ!」
少女は笑う。
「この目、みんなは怖いっていうんだ。姉妹はみんな青緑なのに、わたしだけ赤いから」
「……ちがう」
ラグナロックは、しばらく考えてから言った。
「きみのは、光ってる」
ラグナロックは、今度は目を逸らさなかった。
少女の笑顔が止まった。
しばらくして、今度は少女のほうが顔を背ける。
耳が赤くなっていた。
* * *
つぎの記憶は、夜の鍛冶場だった。
青白い苔の灯りも弱まり、街が静まっている。
ラグナロックは炉の前で、小さな金槌を握っていた。
金床の上には、細い金の環と赤い石。
おれは近づいて覗き込む。
(……腕輪か)
ラグナロックは、それを長いこと磨いていた。
口のなかで、なにかをつぶやいている。
何度も言い直している。たぶん、渡すときの言葉だ。
……いい奴じゃねぇか。
おれは、そう思ってしまった。
思ってしまったから、余計にこの先が怖かった。
* * *
谷の岩棚。
空の裂け目から、夕方の光が斜めに差し込んでいる。
少女は、渡されたブレスレットを、手首にはめて、光にかざしていた。
「……すごいぴったり。サイズよくわかったね」
「……まぁ」
「大事にする」
少女は、それをぎゅっと握りしめた。
「ぜったい、なくさない」
風が吹いた。
少女の髪がふわりと揺れて、翼が光を弾いて白く輝いた。
「ねえ、ラグナロック」
「……うん」
「わたし、ここに来るの、いつのまにかいちばんの楽しみになってた」
ラグナロックは、答えなかった。
でも、その目は、ずっと少女のほうを向いていた。
「……おれもだ」
絞り出すみたいな声だった。
少女が、一歩近づく。
ラグナロックの身体は、少女の倍ほども大きい。
それなのに、彼のほうがあとずさりしそうになっている。
「怖い?」
「いや。でもおれと、きみは……」
「わかってる。光と闇は交わってはいけない」
少女は、あっけらかんと言った。
「でもね、禁止されると余計にやりたくなっちゃうの。わたし」
少女は、背伸びをした。
届かないと知ると、ラグナロックの手を引いて、身をかがめさせる。
そして、そっと唇を重ねた。
少女の唇が、ラグナロックの耳元へ移る。
なにかを囁いた。
なにを話したのかは、聞こえない。
ラグナロックの目が大きく見開かれた。
身体がびくりと強張って、一歩うしろへ下がる。
それは、驚きだった。
少女が離れる。
「それが、わたしの名前」
ラグナロックは動かなかった。
やがて震える手を伸ばし、少女の手を取った。
赤い石の腕輪がはまった細い手首を、大きな両手で包む。
「……きみは、翼の民の姫なのか」
少女がうなずいた。
「怖くなった?」
ラグナロックは答えようとした。
その瞬間、景色が白く消えた。
* * *
白が晴れると、また谷だった。
同じ岩棚。
同じ夕方の光。
けれど、ラグナロックはひとりだった。
手には、小さな布包みを持っている。
中身はわからない。またなにかつくってきたんだろう。
ラグナロックは岩棚を見上げていた。
待つ。
それでも、白い翼はあらわれない。
少し歩いては止まり、また見上げる。
布包みを持ち替え、谷の入口を見る。
「……遅い」
また待つ。
「今日は……来ないのか」
返事はなかった。
そのとき、耳がなにかを捉えた。
すすり泣きだった。
ラグナロックが、はっとして首を巡らせる。
岩棚の下、枯れかけた低木の茂みがある。
そこから、押し殺した細い泣き声が漏れていた。
茂みのそばに、小さな石の塊が転がっているのが見えた。
石の、トカゲだった。
いまにも動きだしそうな姿勢のまま、灰色に固まっている。
細い尾の先まで、ひび割れひとつなく石になっていた。
「……来てたのか」
茂みが揺れる。
「そこに、いるのか」
返事はない。
茂みが、かすかに揺れた。
泣き声が、止まりかけて、また漏れる。
「……出てきてくれ」
ラグナロックは、ゆっくりと膝をついた。
半巨人の身体が地面へ近づくと、茂みの高さとほとんど同じ位置まで頭が下りた。
「なにが、あった」
長い、長い沈黙。
茂みが、ざわりと開いた。
最初に見えたのは、両手だった。
細い指が顔を覆い、すきまをぴたりと塞いでいる。
手首には、赤い石の腕輪が鈍く光っている。
そして、そのうしろの髪が、動いていた。
髪は、髪ではなかった。
一本一本が、細い蛇だった。
緑がかった鱗をぬらりと光らせ、しゅうしゅうと舌を出しながら、彼女の肩や背中を、うねるように這っている。
背中の翼も、昨日までのものじゃなかった。
羽の一枚一枚が、薄い膜に変わり、色は夜の底みたいな黒だった。
骨ばった、コウモリのような翼。
おれは、息を呑んだ。
エグレと、同じだ。
「……見ないで」
少女の声だった。
震えて、掠れて、それでも、昨日と同じ声だった。
「見ちゃだめ。……目を、見たら、あなたまで、石になっちゃう」
ラグナロックは、動かなかった。
化け物の姿になった少女を前に、逃げも、叫びもしなかった。
ただ、ゆっくりと目を閉じた。
「わかった……見ない」
目を閉じたまま、彼は言った。
「でも、おれは……君が怖くない」
少女の肩が、びくりと震えた。
彼が、ゆっくり口を開く。
「ここにいる……メデューサ」
それが、少女の名前だった。
メデューサは、顔を覆ったままうずくまった。
「昨日の夜……声がしたの」
メデューサは、ぽつぽつと語りはじめた。
「……だれの声か、わからない。空から降ってきたみたいだった」
蛇の髪が、ざわざわと揺れる。
「『禁を破ったな』って」
メデューサは、自分の身体を抱いた。
「『その姿は恐怖の象徴となる。その瞳は、見るものすべてを石へ変える――己自身さえも』って」
声が震えた。
「それで……朝になったらこうなってた」
ラグナロックは黙って聞いている。
「起こしに来た使用人と、目が合ったの」
メデューサの指へ力が入った。
「石になった」
ラグナロックの眉がわずかに動く。
「お父様も、お母様も、わたしを見て悲鳴をあげた。だから逃げてきたの。自分がどんな姿なのかも、ちゃんと見られなくて……」
メデューサが小さく笑った。
泣きながら出た、ひどく乾いた笑いだった。
「さっき、この子とも目が合っちゃった」
メデューサは石になったトカゲを指す。
「……ほんとに、なんでも石になっちゃうんだね」
メデューサの肩が、細かく震えていた。
「もう、あなたの顔も見られない」
ラグナロックは、閉じたままの目でメデューサの声のするほうへ顔を向けた。
大きな手を、ゆっくり伸ばす。
メデューサの細い手首の腕輪のすぐそばへ。
ぎりぎり触れないところで止めた。
「……触ってもいいか」
メデューサが顔を覆ったまま、小さくうなずく。
ラグナロックの指が腕輪のすぐ下へ触れた。
「おれがなんとかする」
いつものように、言葉を探して止まることはなかった。
「呪いを解く方法を探す。瞳を見ても石にならない方法も探す。だから――」
メデューサの手を握る。
「一緒にいよう」
白い光が、景色の端から滲んできた。
ラグナロックは最後まで目を閉じたまま、メデューサの手を離さなかった。
* * *
つぎにあらわれたのは、ラグナロックの鍛冶場だった。
同じ炉。
同じ金床。
なのに、まるでべつの場所になっていた。
床には石や金属片が散らばり、壁には炭で書きなぐった図が何枚も貼られている。
炉の火も落ちていない。
ラグナロックは金床の前に座っていた。
髪はぼさぼさで、目の下には深い隈がある。
鍛冶場の奥では、メデューサが壁へ顔を向けるようにして眠っていた。
ラグナロックは何度もなにかを試している。
石を熱して、水に入れて、たたいて、砕いて、また熱する。
そのたびに、首を振って、べつの石を掴み、また最初からやり直している。
そのあいだにも、白い空白が何度も挟まった。
日が経っている。
季節が変わっている。
でも、彼の手は止まらなかった。
ラグナロックは、ある夜手を止めた。
ラグナロックは、自分の手を見た。
傷だらけの、大きな手。
それから、床に転がった無数の石を見た。
「神の呪いそのものを……おれは解けない」
奥で眠るメデューサを見る。
その顔は、こちらからは見えない。
ラグナロックはふたたび石へ向き直った。
「なら――」
大きな手が、鉱石を握る。
「彼女を変えるんじゃない」
炉の火が、ラグナロックの目に映った。
「彼女が生きられるように、まわりを変える」
その手のなかで、鉱石がかすかに軋んだ。
「……"錬成"、だ」
その言葉が、はっきり聞こえた。
ラグナロックの目は、もう迷っていなかった。
壊れたものを見つけたら、直そうとする。
直せないなら、どうすれば使えるのかを考える。
それでもダメなら、べつのやりかたを探す。
その目を、おれは知っていた。
ひとつのものに夢中になって、ほかが見えなくなる職人の目だ。
……だからこそ、怖かった。
この男がこれから、どこまでやるのか。
おれはもう、その答えを知っている。




