53「岩石王」
白が晴れると、廃坑のなかだった。
ラグナロックの少し前を、メデューサが歩いている。
フードを深くかぶり、目もとには厚手の黒い布が幾重にも巻かれていた。
闇の街で手に入れたものだろう。
「……やっぱり、神様には敵わないよね」
メデューサが振り返る。
「この呪いは、解けない」
「……ああ」
ラグナロックの声が、わずかに震えた。
「いまのおれじゃ、解けない」
「……だよね」
メデューサは布の下で、小さく笑った。
「ありがとう。本当に」
彼女は一拍置く。
それから。
「でも、これ以上あなたの時間をもらうわけにはいかないよ。だから、わたしはここで――」
「断る」
「え?」
「そばにいる」
ラグナロックは、迷わなかった。
「……そばにいるって、わたしの目を見たら、あなたまで……」
「わかってる」
ラグナロックは、メデューサの細い手首を見た。
赤い石の腕輪が、坑道の灯りを鈍く返している。
「きみは、これから、ずっと目を閉じて生きるのか」
メデューサは答えなかった。
「なら、まずはおれが変わる」
「……え?」
「きみの目を見ても、平気な身体になる」
ラグナロックは、自分の右手を持ち上げた。
「呪いを解く方法は、まだ見つかってない。でも、おれの身体を変える方法なら見つけた」
「待って。それって危険じゃないの?」
メデューサの声が跳ね上がった。
「だめだよ。わたしのために、あなたの身体を――」
「きみのためじゃない」
ラグナロックが、言葉をさえぎった。
「おれがきみのそばにいたいからだ。……おれの、わがままだ」
ラグナロックは自分の右手を左の掌へ重ねた。
その指先へ、淡い光が集まっていく。
* * *
変化は、指先からはじまった。
爪が灰色へ変わり、皮膚の下に鉱石の筋が浮かぶ。
石の色は指から手の甲へ、ゆっくりと這うように広がっていった。
ラグナロックは歯を食いしばっていた。
額から汗が流れ、肩が細かく震えている。
「そんな……石に……!」
メデューサがかけ寄る。
「……平気だ」
ラグナロックが、かすれた声で答えた。
「これで……合ってる」
おれは、その手を見つめていた。
(……指先から、石へ)
どこかで聞いた話だ。
『最初は指先だった』と。
あれは、カリオストロの妻の話だ。
……偶然か。それとも。
答えは、まだ出なかった。
* * *
空白が、いくつも過ぎていった。
灰色は指から腕へ、腕から肩へと、少しずつ広がっていく。
そのあいだも、ラグナロックはメデューサと過ごしていた。
手を引いて廃坑の外へ連れ出し、風に当たる。
木の実を分け合い、日が沈むまでとなりに座る。
メデューサは目を布で覆ったまま、ラグナロックの話を聞いていた。
また空白が入る。
つぎに見えたとき、ラグナロックの身体は半分以上が灰色になっていた。
頬にも鉱石の筋が走り、開いた瞳まで石の色へ変わっている。
「……いくぞ」
ラグナロックが言う。
「待って。本当に大丈夫?」
「……おれを信じて」
メデューサの手が、頭のうしろへまわる。
震える指で結び目をほどくと、黒い布が膝の上へ落ちた。
少女が、ゆっくり目を開く。
ラグナロックは逃げなかった。
石になることもなく、ただ正面から、その目を見つめている。
「……なんとも、ない」
「……本当に?」
「ああ。神様の呪いを跳ね除けた」
メデューサが恐る恐る顔を近づける。
「あなた……ほんとに、石像みたい」
その手が、ラグナロックの頬へ触れた。
灰色の頬は硬い。
生物だったころの温かさも、もうほとんど残っていない。
それでもラグナロックは、ぎこちなく口の端を上げた。
「……きれいだ」
メデューサの目から、涙がこぼれた。
「……ごめんね」
泣きながら、笑う。
「わたしなんかのために……」
「おれのためだ」
「そういうところ……ほんと、ずるい」
メデューサはラグナロックの灰色の手を、両手で包んだ。
冷たくて、硬い手。
それでも、その指はたしかに少女の手を握り返した。
* * *
つぎにあらわれたのは、夕方の谷だった。
空の裂け目から差し込む光の下で、ラグナロックとメデューサが並んで座っている。
足もとには、パンや木の実、水筒が置かれている。
もう、メデューサの目に布はなかった。
ここにはラグナロックしかいない。
メデューサは光の側の空について、楽しそうに話していた。
ラグナロックは灰色になった腕を膝へ置き、その話をじっと聞いている。
そのときだった。
「――メデューサ!」
その声に、メデューサの肩が跳ねた。
崖の上に、白い翼の少女が立っていた。
メデューサと同じくらいの年だろう。
肩で息をし、髪を乱し、目には涙を浮かべている。
腕には、紙で包んだ小さな包みを抱えていた。
「やっと見つけた!」
「――っ」
メデューサが振り返る。
つい、振り返ってしまった。
何度も聞いた、懐かしい声だったからだ。
友だちは笑った。
岩棚を蹴り、そのままメデューサのもとへ飛び降りる。
赤い瞳と、目が合った。
「だめ! 目を閉じて!」
だが、遅かった。
友だちは着地すると同時に、動きが鈍った。
足もとから灰色がかけ上がり、つぎの瞬間には、白かった翼まで石へ変わっていた。
腕から紙包みが落ちる。
破れた紙のあいだから、小さな焼き菓子が転がった。
「……あぁ」
メデューサの喉から、かすかな声が漏れた。
すぐに黒い布を掴み、顔へ押しつける。
「ちがう……ちがう……」
震える指で、目を隠す。
「そんなつもりじゃ……」
ラグナロックが、立ち上がった。
石像になった少女の前へ歩み寄り、その肩へ灰色の指を触れる。
「……石に変わってる。これは……もう」
腕。翼。頬。
たしかめるように触れていく。
「いや。でも、変わったんだ」
ラグナロックが振り返る。
「ひとから石へ変わったなら……逆もできるかもしれない」
「…………」
「おれが調べる。だから――」
メデューサは返事をしなかった。
黒い布の下で、ただ肩を震わせていた。
* * *
夜になっても、友だちはそこに立っていた。
石の頬には、石化する直前に流していた涙の跡が残っている。
そのそばで、メデューサはずっと座り続けていた。
ラグナロックも黙ってとなりにいる。
長い沈黙のあと、メデューサが口を開いた。
「……あの子、わたしを探してくれてたんだ」
「……ああ」
「こんな姿になっても……あの子だけ」
「……」
「お菓子を取っておいてくれたの。いつも」
メデューサは地面に転がった焼き菓子のほうへ、顔を向けた。
ラグナロックはただ、灰色の手をメデューサの背中へ置いた。
「……ねえ」
「ああ」
「少しだけ、ひとりにしてくれる?」
ラグナロックの手が止まる。
「……ひとりで、いたいのか」
「……この子とふたりになりたい」
メデューサは石になった友だちへ顔を向けた。
「毛布を持ってきてほしいの。落石とか、動物とか……この子がたおれたら嫌だから」
ラグナロックはうなずくと、ゆっくりと立ち上がった。
「わかった」
「ありがとう」
メデューサが言う。
ラグナロックは谷の出口へ向かい、途中で一度だけ振り返る。
メデューサは黒い布で目を覆ったまま、石になった友だちのそばに座っていた。
白が、景色を包んだ。
* * *
つぎの記憶は、夜明けだった。
ラグナロックが大きな毛布を抱え、谷へ戻ってくる。
けれど、途中で足が止まった。
石像になったはずの少女が、少し先の地面に膝をついている。
肌には血の色が戻っていて、白い翼が震えている。
「わたし、なにが……?」
少女が、自分の手を見る。
ラグナロックの手から、毛布が落ちた。
石化の呪いが、解けている。
少女はあたりを見まわした。
「メ、メデューサ?」
返事はない。
地面には黒い布が落ちていた。
そのそばには、赤い石の腕輪。
ラグナロックは黒い布のところへ走る。
少女がラグナロックを見て、腰を抜かして尻餅をつく。
「なっなに! 石像!?」
ラグナロックは気にもせず、地面に膝をついた。
布の上には、小さな砂利が積もっていた。
そのあいだを、指先ほどの蛇が何匹も這っているのが見える。
メデューサの姿は、どこにもなかった。
ラグナロックの視線が地面の水たまりに移る。
雨は降っていない。近くには空の水筒が落ちている。
朝の光が差し込み、水たまりに自分の顔がよく写った。
ラグナロックの視線が砂利に移る。
『その瞳は、見るものすべてを石へ変える――己自身さえも』
「……まさか」
ラグナロックが腕を振るわせる。
「自分を……見たのか」
水面が揺れた。
ラグナロックは両手で、砂利を集めはじめた。
一粒ずつ。
落とさないように。
崩さないように。
「……メデューサ」
呼んでも、返事はなかった。
少女はラグナロックを恐れていたが、砂利を集める姿を見て、ゆっくりと立ち上がる。
「あなたが、メデューサが言っていた鍛冶屋さん……」
ラグナロックは手を止め、少女のほうを見た。
「呪いが解けた……。メデューサがいなくなったら……」
ラグナロックは、ふたたび水たまりを見る。
そこに映っているのは、かつての半巨人じゃなかった。
半身を鉱石に変えた、灰色の怪物。
石の目からは、涙ひとつ落ちなかった。
* * *
しばらくして、ラグナロックが顔を上げた。
少女の手から、赤い石の腕輪を受け取る。
それから、黒い布へ手を伸ばした。
指先ほどの蛇たちが、まだ動いている。
「……生きてる」
一匹を掌へ乗せる。
小さな身体が、灰色の指へ巻きついた。
もう一匹。そのつぎも。
ラグナロックは一匹ずつ拾い上げていく。
「その子たち……どうするの?」
少女が聞いた。
「……守る」
ラグナロックは、蛇たちを胸元へ抱いた。
「メデューサが残したものだ」
少女は涙を拭った。
「……わたしに、できることは?」
ラグナロックは首を振った。
「ない」
「でも――」
「おれたちは、関わっちゃいけなかった」
ラグナロックは赤い腕輪を握る。
「これは……おれの責任だ」
ラグナロックは蛇たちを抱え、地底へ向かって歩き出した。
「鍛冶屋さん!」
呼び止める声が響く。
それでも、ラグナロックは振り返らなかった。
* * *
鍛冶場には、埃が積もっていた。
鍋も、蝶番も、金槌の柄も、長いあいだだれにも触れられていない。
炉の火だけが燃えている。
ラグナロックは、その前の作業台に座っていた。
炉のそばに置いた木箱から、小さな蛇が顔を出す。
灰色の指で頭を撫でると、蛇はまた箱のなかへ潜った。
ラグナロックの左手には、赤い石の腕輪がある。
赤い石は、鈍く光りながら内側でゆっくり脈を打っていた。
「……これだけ、まだ温かい」
ラグナロックはだれに言うでもなく、つぶやいた。
* * *
空白が、何度も過ぎる。
壁を埋め尽くす図。
砕かれた鉱石。
焦げた金属。
骨の欠片。
ラグナロックは、来る日も来る日もなにかを試し続けていた。
ある夜、作業台に小さな鳥の死骸を置いた。
灰色の両手が、その身体を包む。
光が、指のあいだから漏れた。
光が消える。
掌の上には、石の小鳥があった。
羽も、脚も、くちばしも、生きていたころと同じかたちをしている。
けれど、動かない。
「……かたちは戻せる」
ラグナロックがつぶやく。
「でも……命は、入らない」
「錬成ってのは、かたちを変える力だ。命を与える力じゃない」
ハルマが、となりで言った。
作業台の隅には、石になった小さな生き物がいくつも並んでいた。
鼠。虫。魚。
どれもかたちはある。
命だけがない。
ラグナロックは、自分の胸へ手を当てた。
もう、石じゃない部分を探すほうが難しかった。
「……足りない」
ラグナロックがつぶやく。
「いまの力じゃ……まだ足りない」
灰色の手が、赤い腕輪を握る。
「おれはまだ、変われる」
* * *
夜の谷だった。
ラグナロックは、はじめてメデューサと出会った岩棚に立っていた。
彼の身体はほとんど、ひとのかたちをしていなかった。
肩にも、胸にも、頬にも鉱石が広がっていた。
彼は左手をゆっくり開いた。
赤い石の腕輪。
ラグナロックは、それを握ったまま両腕を広げた。
強大な魔力とともに、光があふれた。
足もとの大地が震える。
ラグナロックの身体から、次々と結晶が生まれた。
色とりどりの鉱石が、皮膚を突き破るように伸びていく。
光が収まったとき、そこにいたのは、もう半巨人の青年じゃなかった。
全身が極彩色の鉱石でできた、巨大な存在。
その目は、ゆらゆらと深い赤に光っている。
おれは、黙ってその姿を見ていた。
(魔鉱石)
リルも、オリハルコンも、アダマンタイトも、みんなこの身体から生まれた。
オリハルコンは黙って、その姿を見つめていた。
そのとき、頭上が白く輝いた。
光の柱が、いくつも降りてくる。
柱のなかから、白い翼を持つ兵たちが、音もなく降下してきた。
その翼は、羽ではなく光そのものでできている。
顔はのっぺりとして、目も口もない。
手には光り輝く槍を握っていた。
六体。
一斉に、ラグナロックへ襲いかかる。
光の槍が、彼の胸を、肩を、背中を貫こうとした。
でも、槍は通らなかった。
光が、鉱石の肌に触れた瞬間、穂先が砕けた。
火花みたいな光の粒が、四方へ弾け飛ぶ。
二撃目も、三撃目も、同じだった。
神の力が込められたはずの武器が、彼の身体にひとつの傷もつけられなかった。
「魔鉱石以外じゃ、傷つけられない」
ハルマが言った。
「あのときのあいつは、もうそういう身体になっていた」
ラグナロックは兵たちを見た。
目の光が、わずかに強まった。
ラグナロックが片腕を払う。
それだけで二体の兵が吹き飛び、光の粒になった。
残った兵たちは翼を翻し、空へ逃げていく。
ラグナロックは追わなかった。
ただ、その光が消えるまで見ていた。
* * *
つぎの記憶。
谷に、黒い衣の人影が立っていた。
顔は、影に隠れてまるで見えない。
背丈は人並みだったが、足もとの影だけが、異様に長く伸びていた。
ひとの類でないことは、直感でわかった。
「巨人の子、ラグナロックよ」
人影が両手を広げる。
「私は闇の使徒。話をしに来た」
ラグナロックが顔を向ける。
「お前が"光の使徒"を退けたことは知っている。だが、もうやめろ」
「……」
「神々は、お前の力を危ぶんでいる。光も、闇もだ」
黒い人影は淡々と続けた。
「静かにしていれば、我々はお前を放っておく。あの娘のことは忘れろ。それがお前のためでもある」
ラグナロックの赤い目が、人影へ向く。
「……あの娘」
「光の姫だ。不幸なことだった。だが、神々の決めたことへ逆らったところで――」
「……どの神だ」
ラグナロックが低い声で言う。
「あの子を……あの姿にしたのは」
人影が一歩下がった。
「光の側の神だ。それ以上は、言えん」
ラグナロックの目の光が、一気に濃くなった。
つぎの瞬間、黒い衣のなかから、短剣が閃いた。
人影がラグナロックの喉をねらう。
刃は、届いた。
そして折れた。
ラグナロックの手が、人影の頭を掴む。
「……名を言え」
「知らぬ。私はただ――」
「……そうか」
巨大な指が閉じた。
黒い衣だけが地面へ落ちた。
異様に伸びた足もとの影も、一緒に薄れて消えた。
ラグナロックは、それをしばらく見下ろしていた。
「……光の神」
彼は、もう一度つぶやいた。
その目は、暗い炉の底みたいな赤に染まっていた。
* * *
ラグナロックは、小さな蛇たちを廃坑の奥へ運んだ。
だれも来ない場所に窪みを掘り、布に包んだ蛇たちを置く。
「……ここなら、見つからない」
巨大な指で、一匹の頭を撫でた。
「必ず迎えに来る」
入口を岩で塞ぐと、裂けた空の向こうを見上げる。
向こうには、光の世界がある。
ラグナロックは歩き出した。
* * *
白い神殿だった。
石段の下では、白い翼の民やエルフたちが祈りを捧げている。
その地面が揺れた。
周囲から悲鳴が上がる。
極彩色の巨体が、石段を上ってきた。
人々が逃げる。
花が踏まれ、供えられていた果物が転がった。
ラグナロックはだれにも触れなかった。
ただ、神殿の奥へ進む。
そこには白い石を彫ってつくられた、天井に届くほどの巨大な像があった。
穏やかな微笑みを浮かべて、両手を広げている。
衣の皺の一筋、髪の一本まで、丁寧に彫り込まれていた。
何十年もかけて、職人たちが祈りを込めてつくったのだろう。
おれは、思わず足を止めていた。
「……神殿に石像? でもこんな綺麗で精巧な石像、見たことねぇ」
「岩石王があらわれる前は、神々の姿をかたどる彫刻の文化があった」
ハルマが言う。
ラグナロックが神像の前へ立つ。
「……お前があの子を変えたのか」
像は、微笑んだまま答えなかった。
ラグナロックの鉱石の指が、像の首へ触れた。
そのまま横へ払う。
像の首が落ちた。
床へぶつかり、転がる。
穏やかに微笑んだ顔が、ラグナロックの足もとで止まった。
つぎの瞬間、天井が白く染まった。
石の屋根が音もなく割れ、空が覗く。
白い光の柱が、天から一直線に降りてきた。
柱のなかに、巨大な輪郭が浮かび上がっている。
ひとのかたちをしているのに、顔も、目も、口もない。
ただ、眩しい光でできた、影のような姿だった。
これが、神なのか、と思った。
巨大な輪郭は、ラグナロックを見下ろしていた。
その光が、一気に膨れ上がる。
真っ白な光線が、彼の身体へ一斉に降り注いだ。
でもそれは、彼の身体に触れた瞬間、砕けて四方へ弾け飛んだ。
傷ひとつつかなかった。
光線が勢いを増す。
しかし、ラグナロックは止まらない。
一歩ずつ、前へ進んだ。
「……お前が、あの子を」
巨大な輪郭が揺らいだ。
極彩色の腕が、神の胸を貫く。
光の柱が、砕けた。
輪郭が無数の粒となって神殿へ散り、やがて消えていく。
あとには、なにも残らなかった。
ラグナロックは、しばらくその場所を見ていた。
* * *
空白が、何度も、何度も続いた。
別の神殿。
またべつの神殿。
白い神像の首が落ちる。
光が降り、砕ける。
闇の側へ移る。
黒い神像が崩れ、影のような神が消えていく。
ラグナロックは止まらなかった。
メデューサの死に関わった光の神を。
自分を利用しようと、そそのかしてきた闇の神を。
次々と消していった。
そして。
ある地底の神殿で、ラグナロックは動かなくなった。
壊れた神像のあいだに座り、赤い石のブレスレットを見ている。
「……冷たい」
かつて、まだ温かいと言っていた石。
何度も握っていた石。
その赤い石は、もうなんの熱も返さなかった。
「……あの子は」
ラグナロックがつぶやく。
「もう戻って……こない」
神を殺しても。
何柱消しても。
メデューサは戻らない。
ラグナロックの目に宿っていた赤い光が、少しずつ弱くなっていく。
深い炉の底のようだった赤が、少しずつ、少しずつ、沈んでいく。
最後にふっと消えて、あとには鈍い石の色だけが残った。
ラグナロックは、動かなかった。
* * *
神殿の入口に、老人が立っていた。
痩せた身体。
石工らしい、大きな手。
その手には、割れた鑿が握られている。
老人は震えながら、座り込むラグナロックを見ていた。
「……石の、王」
ラグナロックがわずかに顔を上げる。
「岩石の……王だ」
その言葉が、神殿に響いた。
老人はそれだけ言うと、あとずさって逃げていった。
ラグナロックは追わない。
彼の名前を呼ぶ者は、もういなかった。
代わりにその異名は、風より早く、世界へ広がっていく。
「……岩石王」
オリハルコンがつぶやいた。
* * *
夜。
岩石王は、まだ神殿に座っていた。
何日経ったのか、わからない。
その背後で、ゴトリと音がする。
首を落とされた黒い神像が、ゆっくりと立ち上がっていた。
台座から、ぎこちなく足を下ろし床を踏む。
もう一体。
そのとなりも。
首のない石像が次々と立ち上がっていく。
石像たちは神殿を出て、闇の向こうへ歩いていく。
他の神殿でも、同じことが起きていた。
白い石の像が。黒い石の像が。
首を失ったまま、立ち上がって歩き出していく。
人々が、その姿を見ていた。
石工が、その姿を見ていた。
ある村では、住民たちが広場にあった石像を自分たちの手でたたき壊していた。
動き出すかもしれないと恐れたからだ。
若い彫刻家が自分の作品を抱きしめて、必死に止めようとして蹴りたおされていた。
石を彫る文化は、この日から世界の隅へ追いやられていった。
また、空白が入る。
空に浮かぶ巨大な城が傾いていた。
翼の民の天空城。
そこに向かって石像の群れが進んでいく。
その先頭に、岩石王がいた。
景色が滲む。
「ここからは、俺の話だ」
ハルマが言った。
* * *
荒野に、ひとりの男が立っていた。
黒い髪。
煤で汚れた作業着。
手には、金槌。
若い頃のハルマは、落ち着かない様子で周囲を見まわしていた。
『……どこだ、ここ?』
その問いに、どこかから軽やかな声が返ってきた。
『やぁ、はじめまして』
光のような輪郭が、若いハルマの前にあらわれる。
『私はノルン。神様だよ』
『……神様ぁ?』
若いハルマが、警戒したように金槌を握り直す。
『源道晴馬くん』
ノルンの声から、軽さが消えた。
『いま、この世界は沈黙しようとしてる。……だから君を呼んだ』
『呼んだって……俺、さっきまで仕事して――』
『この世界の理の外にいるひとが必要なの』
光が揺れる。
『お願い、この世界を救って』
『……は?』
そこで記憶が途切れた。
* * *
最初の荒野へ戻っていた。
「そのあとは、君たちも知ってるとおりだ」
ハルマが言った。
「岩石王は石像の軍勢を率いて進んだ。俺はノルンに呼ばれて、それを止めた」
ハルジオンは腕を組んだまま、荒野の先を見つめている。
「岩石王は、世界を滅ぼすつもりだったのか? 神への復讐を続けていたのか。それとも、べつの理由があったのか」
ハルマが首を振る。
「それは、わからない」
「わからない?」
「聖剣を錬成したとき、一瞬だけ、あいつと深くつながった」
ハルマは天を仰ぐ。
「そのとき、俺もこの記憶の断片を見た」
「……」
「ただ、ひとつだけ。ずっと引っかかってることがある」
ハルマは目を細める。
「……あいつの心が、見えなかった」
「……見えない?」
おれは聞き返した。
「怒りも、憎しみも、悲しみも、殺意も」
ハルマは続ける。
「メデューサを失った悲しみも。神への憎しみも。世界を滅ぼしてやるって殺意さえ、俺には見えなかった」
ハルマはつぶやく。
「やつは、なにで動いていたんだ」
おれは、石像が歩き出した神殿を思い出す。
赤い目の光が消えたあと。
あいつはなにを思って、なにを感じていたんだろう。
「……あんたは」
おれはハルマに問いかける。
「岩石王を砕いたとき、どう思った?」
「長く続いた恐怖を終わらせた、と思った」
ハルマが答えた。
「いまでも、それはまちがってなかったと思ってる。止めなきゃ、世界が終わってた」
そこで言葉を切る。
「……でも、砕いたあとで思ったんだ」
ハルマの目が、遠くを見る。
「俺が砕いたのは……なんだったんだろうな、って」
「だから、心臓を探したのかもしれない」
ハルマがポツリと言った。
「もし、まだあいつがどこかに残ってるなら、直接聞きたかった」
「この先どうするべきか、おれのなかに答えはない」
ハルマがおれたちを見る。
「だから、君たちに見せた」
荒野の景色が、遠ざかっていく。
記憶の世界が、少しずつ白へ溶けていく。
「時間だ」
ハルマが言った。
「勇者ハルマの時代は、もう終わった」
「ここからは――君たちの時代だ」
白が、すべてを包んだ。




