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境界は交わらない  作者: しゃる
序章
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3/9

第一話 平穏な日常

「............ぅ」


 窓の外はまだ暗い。ベッド横の時計は午前四時を指している。


 予想外の時刻に少し戸惑う。目覚ましの設定時刻より三時間早い。


「やっと起きたか」


「......はい」


 寝起きだというのに呼吸は荒く、心臓は飛び跳ねるように脈打っている。シャツにはじんわりと冷や汗が染みていた。


 ……今日も、きっとあの夢を見ていた。


「飯は用意してあるから食ったら食洗器に入れて回しといてくれ。俺はそろそろ出る」


 玄関から声が飛ぶ。


「まったく、朝っぱらから緊急招集だとよ。面倒ったらありゃしねえ。学生が羨ましったらありゃしねえ」


「学生だって簡単じゃないですよ。たぶん」


 激しく心臓が波打つ。


 ――だいじょうぶ、もう僕はだいじょうぶ。


「そりゃな、お前がまだ世間を知らねえだけだ。これまでと比べてら超、イージーだぜ」


 カーテンに手を伸ばす。


「ああ、悪かったって。別に悪気があったわけじゃねーんだ」


 太陽は山に隠れて見えない。


「......そんなの、わかってますよ」


 朝焼けが眩しくて、カーテンから手を離した。


「お前は生き方が堅苦しいんだよ。全く不器用だよなぁ」


 食卓にはラップされた食器が並んでいる。


「もっと楽にしてりゃいいのによ」


 円蔵さんは決して目を合わせてくれない。


「ところで、一体何の招集なんですか?」


「さあな。暇があったら徳夜委員にでも聞いてみたらどうだ。ついでに俺の給料をあげるようお前からも頼んでおいてくれ」


 彼はそう言いながら鞄を肩に掛け直す。


「じゃあいいです。そんなことしたら迷惑でしょうし」


「卑屈なガキだな。わりぃが今日は帰ってこれるかわからねえ。金は置いといたから晩飯は外で勝手に済ませておいてくれ」


 それじゃあ言ってくる、と彼は立ち去った。


 ひとりぼっちの味気ない朝。


 用意された朝食までも味気ない。


「……っ」


 箸を床に投げつける。


 自分の呼吸が荒いことだってもはや他人事にしか思えない。


「……っ!!」


 机を叩きつける。


 ふと、顔を上げると笑った顔がこちらを見つめていた。


 ――あ……、、、


 鏡に映った自分の顔はまるで笑っている。


「っっ…………!!はぁ……」


 ――こんな汚い僕なんて消えてしまえ。消えることが幸せ、消えればみんなも幸せ。


   消えてしまえ。もうこんなところから消えてしまえ。


 息が苦しい。


 ――早く死んでいれば誰も不幸を見なかった。


   消えてしまえ。


    死んでしまえ。


     もうお前に価値はない。


      はやく消えろ!


 ――――


 ――


 


「うるさい!!」


 ……震える身体を必死に抑えつける。


 ――なんにもこわいコトなんてない。


 肌寒かったはずの部屋も今はもう温かい。


 顔を上げると既に日は昇りきっていた。 


 


 *


 


「……いってきます」


 玄関を出ると、外にはのどかな田園風景が広がっている。


 学校に行くにはまだ早い。なんとなく、近所の川沿いをゆっくりと歩く。


 風が吹けば木々が鳴り、小鳥の囀りは新しい一日の到来を告げているようだった。まだ葉は青く、夏の名残を感じさせられる。


 騒がしい学校よりもこんな風に穏やかなほうが心地好い。


 河原に寝転がると雲一つない青空がどこまでも続いていた。


「お、いたいた」


 寝転がっていると突然、日が遮られた。


「おはよう、蓮。今日はちょっと遅いね」


「なら、どっちが速いか競争しようぜ」


 朝から楽しそうで心が和む。


「せっかくならトオルも一緒に走ろう!」


 どうやら本気で競争するつもりなのか。


「嫌だよ、疲れるもん」


 けれどずっと寝転がっているわけにも行かなくて身体を起こす。


 ずっと眠っていたいのに。


「そいえば、今日は宿題持ってきた?」


 そう聞くと蓮の表情が凍り付く。


 もう答えを聞くまでもない。


「今から家に帰れば間に合う!」


 あまりの声量に耳が痛む。叫ぶにしても耳元はやめてほしい。


「ごめんトオル、俺は帰る!」


 腕時計はちょうど八時を指している。蓮の足ならギリギリで間に合うかもしれない。


「絶対に間に合わせてみせるぞぉぉ!」


 彼はすぐさま走り出す。


「がんばれー」


 彼の後ろ姿はみるみるうちに小さくなっていく。


 騒がしい人がいなくなった。再び辺りは静けさを取り戻す。


 今日の通学路はいつもよりちょっと寂しかった。




 /日常 穏




「はい。じゃあここまで」


 どこか寓話じみた雰囲気のチャイム。炭酸の抜けたソーダみたいな同級生。周囲のざわめきも、まるで透き通った水の中にいるみたいに遠くぼやけて聞こえる。


 くらくらと目が回るような気分に包まれながら教科書を鞄にしまっていると、ふと首に冷たい何かが触れた。


「ほら、昼食べようぜ」


 振り向けば爽やかな表情の男子生徒が立っている。


「やあ蓮。朝は間に合ったの?」


 宿題を取りに戻ったところで提出できなければ意味がない。


「あー……、宿題はちゃんと間に合った」


「なんか含みのある言い方だね」


 蓮はなぜか微妙な表情を浮かべる。


「宿題は無事に間に合ったんだけどさ……。代わりに教科書を置いてきちゃって」


「なにをやってるの?」


 宿題を取りに行った時にわざわざ教科書を置いてきたというのだろうか。


 そんな懐疑的な視線に気づいたのか蓮が言い訳するようにまくしたてる。


「別に教科書を置いてきたわけじゃないからな! ただ昨日、宿題のために教科書を使ってたことを忘れてて、普段は鞄に入れてたんだけどな? 取り出したのをすっかり忘れてて……」


「けれど、よく宿題だけピンポイントで思い出せたね」


「俺、これまで宿題忘れたことないんだぜ」


「宿題だけでしょ」


 先週も宿題を忘れていたことは思い出させないでおこう。


「なあ蓮! はやく来いよ!」


 廊下から見たことのある男子たちが蓮を呼んでいる。


 蓮は困ったようにこちらに視線を向ける。そんなに悩まなくても僕を気にする必要なんてないのに。


「ほら、いってらっしゃい」


 少しあたふたしていた蓮だったが、けれど外に遊びに行くことを選んだみたいだった。


 なんだか食事をとる気になれなくて机に突っ伏す。


 おなじことを繰り返す毎日。死んだように生きるだけ。特別なことなんて何もない。


「はぁ......」


 ずっと望んでいたはずの平穏は、渇望していたはずの幸せとは違ってとても空虚だ。


「そいえば檜垣が............


「さっさとしろよ体育館取られちまう


「ねえ、呼ばれてない?


「この本おもんねー


 くだらない言葉が飛び交う教室。


 ――つまらなくって、いい


 こうやって今日も終わっていく。なにも新しいことなんかないままに。


 昼下がりは気だるげに沈んでいく。


「おーい、呼ばれてるよー


「ざけんなよお前!


「呼ばれてるってば!無視?


 今日の夕食は何にしようか。久々に近くの中華料理店に行ってもいいかもしれない。


「ねえ、トオルくん!!」


「うあっ!」


 慌てて顔を上げると怪訝な表情をしたクラスメイトがこちらを見下ろしいてた。


「呼ばれてるよ?ほら」


 指さす先には仏頂面の女子生徒……。


「やっ……」


 やばい、と言おうとして言葉にならなかった。


 広げかけていた弁当を片付けてすぐに席を立つ。


「遅い」


「ごめんなさい」


 僕の謝罪には目もくれず、同じ委員会の彼女はそさくさと歩き出す。


「副委員長でしょ。ちゃんとして」


 このままうやむやに出来るんじゃないとか思った自分が恥ずかしい。


「ごめん、これから気を付ける」


 それっきり彼女は何も言わなくなった。


 他の教室よりも明らかに古びた扉を開く。彼女に続いて教室に入る。


「ちゃんと考えてきた?」


「あ、うん。ちゃんと資料作ってきたよ」


 薄っぺらい一枚の紙を渡す。


 なぜだか知らないけれど、今年は委員会で使う資料や手紙を生徒が自作しなければいけなくなったらしい。そのせいで退屈な昼下がりが無くなってしまった。


 わざわざ別教室に移動することはないんじゃないかとも思うけれど、どうやらこの時間に先生が資料を確認しに来るらしい。


 そんな手間かけるなら先生が作ればいいのにと思う。


 どうやら一通り見終わったのか彼女が紙を横に置く。


 ......なんだか判決を待つ被告人の気分だ。


「良いと思う。ありがとう」


「よかったぁ」


 そうして二人で弁当を広げる。教室に戻ってから食べてもいいけれど、なんだかんだ彼女が弁当を広げているのを見るとなんか立ち去れなくなってしまう。


「桐原さんこそ、わざわざ見てくれてありがとう」


「結菜でいいのに」


「ありがとう、結菜さん」


 貧乏くじの図書委員長とじゃんけんで負けた副委員長。


 言葉にするとちょっと面白いかも。


 お互いに無言で弁当をつつく。


「委員長はさ」


「だから結菜でいいって」


 ......別に名前にこだわらなくても。


「面倒だと思わないの?こういうの」


「めんどうだよ。でも先生が言うんだからやらなきゃ」


 真面目な回答。見た目も言動もまさに優等生という感じがする。


 この予定をすっぽかした僕とはまるで比較にならない。


「とおるは忘れてたみたいだけど」


 しっかりと釘を刺してくるところも雰囲気通りだ。


 まさに真面目が人の形をしたような同級生。


 そこまでしたって何か良いことがあるわけじゃないだろうに、すごいと思う。


 ガラガラと豪快に扉が開く。


「あ、先生」


 学校司書にしては体格のゴツい人が入ってくる。


「お、ちゃーんと作ってるみたいだな。偉いぞお前ら!」


 教室が急にむさくるしい。


 先生は作り上げた資料を見ると大げさに頷いた。


「うん、素晴らしい!よくできたな!」


 作ったのは僕だ。


「それじゃ、次の委員会はこのプリントで進めよう!次もよろしくな」


 そう言い放つと胸を張って僕らを見る。……正確には結菜を見ているんだろう。


 先生は勢いよくドアを開けると大股で去っていった。


 どうやら次のプリントも僕たちが作るらしい。この十数秒の間、先生はきっと僕を見ていなかったに違いない。


「次はわたしが作るから」


 優等生はもう次を見据えている。


「気が早いよ」


「でも今回は全部作ってもらっちゃったし......」


 別にそういうことが言いたかったわけじゃないけれど、そういうことにしておこう。


「いいよ、その時になったら一緒に用意しよう。僕だけじゃ作り方よくわからないし」


「でも先生褒めてたよ?」


「あれは結菜が作ったと先生が思ってたから言ったんだよ」


 実際、先生は僕のことを見向きもしなかったし。


「わたしはすごいと思うよ」


 ――そんなコト......


 あるわけない、と言おうとしたのに。


 からかっている訳でもなければお世辞を言っているようにも見えない。


「そう?......ありがとう」


 なんとなく目を逸らす。


「それじゃ、わたし戻るね」


「あ、うん」


 結菜は席を立つとそのまま教室を出ていった。


 弁当はまだ残っている。


「ふぅ......」


 半分浮きかけた腰を下ろして僕は箸で弁当をつつく。


 今日の卵焼きはちょっと甘い味付けだった。




 午後の授業もとりわけ重要なコトはなにも無く、いつものように出される課題とほのかな疲れを抱えて教室を出る。廊下には部活動に急ぐ生徒や僕とおなじく足早に下駄箱を目指す生徒もいる。


 もちろん、僕は部活動には入っていない。過去には生徒全員がなんらかの部活に入らなければいけなかったらしいけれど、今はそうじゃなくなったらしい。それがいい。


「あ、トオル君ちょっと待って」


 振り向くと教室から先生が手招きしていた。


 ......呼び出されるようなことをした覚えはない。


 けれどそんな僕の心境とは裏腹に心無いひそひそ声が聞こえる。


「え、アイツなんかやったの?


「あの子たしか今年からの転校生でしょ。なんかやばそー......


「しっ......。聞かれたらどうするの!


 聞こえてるよ。別にいちいち反応しないけど全部ちゃんと聞こえてるんだよ。


「先生、僕はなにもやってません」


「怒るとかそういうのじゃないよ」


 先生は穏やかに微笑んでいる。


 周囲の探るような視線を全身で受け止めながら僕は教室へと戻る。家に向かうよりも足が重く感じる。


 ......なぜだろう。なにもやましいことはないのに罪悪感がすごい。


 同級生の目の前で先生に呼び出される気分はあまり良くない。


「……お前、なにをしでかしたんだ?」


 蓮が怪訝そうな表情で肩に手を置いてくる。


「いやなんもしてねーよ!」


 肩の手を勢いよく振り払う。


 勝手になんか悪いことした奴みたいにしないでくれ。別に何もしてないんだよ僕は。


「……はぁ」


 誰にも聞かれないように小さくため息を吐く。


「もしかして体育館の割れたガラスってお前の仕業か?」


「待って蓮くん、それどういうこと?」


 僕は割ってない。


「さっき、部活の準備で体育館行ったらガラス割れてました」


「もっと早く言いなさいよ!」


 先生の顔が変わる。


 それと同時に同級生が一斉にひそひそ話し始める。


 蓮もどこか呆れたような顔でこちらを見ている。


「なんで僕がガラスなんか割るんだよ」


「昼休み、お前どこにいた?」


 いつになく真剣な表情で蓮が詰めてくる。その態度を日常生活でも忘れないで欲しい。


「昼は桐原さんと委員会の仕事。疑うなら一組で聞いてくればいい」


 顔に不満が書いてあったのか、蓮は急にわざとらしく笑うと背中を強く叩く。


「まあな、俺は透がそんな事するやつだと思ってなかったからなー」


 白々しい。つい今まで探偵気取りで僕を疑ってたくせに。


「ああもう!トオル君ごめんね、教室でちょっと待ってて」


「はい」


 先生は走り出しそうな勢いで体育館に向かって歩き始めた。


 一部の生徒が珍しいモノ見たさなのかその後に続いていた。まるでアヒルと小鳥だ。


「てか蓮、ガラス割れてたってまじ?」


「おうよ。さっき体育館行ったら派手に割られててよ。戻ってきたらお前がなんかやらかしてるしビビったぜ」


 だから何もやらかしてないってば。


「なんか、怖いね」


「なーに言ってんだよ、そんな悪いやつがいたら殴ってやればいい。人の弱点つけば俺でもできるぞ」


 中学生らしい世間知らずな言葉に思わず笑みがこぼれる。


 それだけ力強いことを言えるなんて羨ましい。


 人を殺すとか殴るとか、それがどれだけ苦痛を伴うかなんて知らないくせに。


「……蓮はすごいね」


「お前にもできるに決まってるぜ」


 これ以上、蓮の言葉を聞きたくなくて僕は教室に逃げ込む。


 ……結局、馴染めない。


 だから人と関わりたくないんだ。




 *




 グラウンドでなにか運動部の掛け声が聞こえる。


『部活には興味無い?』


 考えていれば世の学生の大半が縁のある言葉だと思う。学生生活のほとんどを部活につぎ込む、なんてありふれた光景でそんな日々はきっと充実しているのだと思う。


「あ、とおる」


 振り向くと昼に見た人影。


「まだ帰ってなかったんだ」


「結菜は部活?」


 視線をずらすと美術室のプレート。


「うん、今はちょっと休憩で……」


 バツが悪そうに顔を背けられる。


「そっか」


 休憩するくらい別に気にしなくていいと思う。


「待って!」


「……どうしたの?」


 少し言いずらそうな雰囲気からなんとなく、僕は次の言葉を予想した。


「まだ部活入ってなかったよね……?」


「入ってないよ」


 沈黙。このまま帰ろうという選択肢が頭をよぎる。


「もし、よければだけど」


 委員会での凛とした印象とか違いどこか遠慮するような態度がなぜか苦しかった。


「美術部こない……?」


 けれど残念なことに僕は絵が描けない。美術部にまったく向いていない。


「ごめん、絵が苦手なんだ」


「そっ……か。ありがとう」


 ……結菜はさらに沈んだ表情で美術室に戻ろうとする。何かあったのか聞こうにも、あまりにも落ち込んだ様子に言葉が上手く出てこない。


「美術部って、そのー……絵が上手くない人でも良い、のかな」


 我ながらみっともない話し方に嫌気が差す。


「え、いいの?!」


 ストレートに聞かれると気恥しい。


「えっと……」


 あまりにも真っ直ぐな態度に対して、僕は狼狽えてばかりだ。


「絵が描けなくてもいいなら……」


「歓迎だよ!別に絵じゃなくてもいいもの!」


 結菜の目が輝いて見える。


 絵じゃなくてもいいとはどういうことだろう……?


 そんな疑問を置いていくように結菜は僕の手を引いて駆け出す。


 こんな風に人生は変わるのかな、なんて思ってしまった。




 結局、結菜に連れられてそのまま入部届を提出していた。


 ……僕は押しに弱いのかもしれない。そもそも強引に押された訳でもないから、そう言ってしまっていいものかも分からない。


 あとから聞いた話だけれど、美術部は人数が僕を含めても10人に満たないらしい。だから結菜は憂いていのだろう。


 先生もまさか渡した入部届が三〇分経たずに戻ってくるとは思わなかっただろう。


「おかえり、早かったね?」


 自分でも早いと思う。そもそも入部届を渡すつもりすらなかったのに。


「お前、部活入ったみたいじゃねーか」


 なんの前触れもなく円蔵さんが話しかけてくる。


 急な質問に思考がフリーズする。


 もしかしてすぐに退部しろとでも言うつもりだろうか。


「お前が部活って、あんま興味あるようには見えなかったんだがな」


「別に興味が湧いた訳じゃないです」


「だったらどーして部活なんか入ったんだ? 部活入るったって一言くらいくれなきゃ困んだよこっちもよ」


 ……やっぱり怒っている。


「自分の立場を忘れたわけじゃねーだろ? 目立つ事をさせる訳には行かねーんだよ。勝手に部活とかで動き回られるとこっちも安心して仕事できねーんだ。このガキが」


「分かりました。明日、部活辞めます」


「ちげーよ、別に辞めろとは言ってねぇ」


 ため息ととも円蔵さんが首を落とす。


「事前にちゃんとお前から一声かけろって言ってんだよ。俺が帰ってきてからどれだけ時間あったと思ってんだよ」


「……ごめんなさい」


 これ以上、僕はなにも言えなくて目を逸らす。


 円蔵さんと視線を合わせていられない。


「次やったら部活辞めさせるからな」


 胸が小さく握りしめられる。


 ――嫌だ、辞めたくない、ひどい。


「......はい」


 それでも、最後はがまんするしかないんだ。


「だから部活を続けたいならちゃんと報告しろ。お前はいつもそうやって勝手に――」


 一度でも間違えたら結菜に迷惑が掛かる。裏切ることになる。


 これ以上、僕はなにを奪われるのか想像もしたくない。


 またこの時間。あと何時間続くだろうか。


 ああ、疲れたな。




 ――――


 ――――


 もう、知ったもんか。


 ――




「おい、聞いてんのか!」


「......っさい」


「ああ?」


 ドスの利いた声音。


「うるさいんだよこの役立たず!」


 円蔵さんの表情が一変する。


「クソガキがッ!」


 直後、振り上げられた拳が頭に落ちる。


「っッ......!」


 顔を上げた瞬間、胸倉をつかまれて持ち上げられる。


「言い返せないから殴り返すんだろ、委員会に上がれなかった落ちこぼれが!!」


 黙って睨み合う。


 数秒して、円蔵さんは僕を突き飛ばす。


「っ......」


 身体中が痛い。起き上がろうにも上手く身体が動かない。


「部活は辞めさせる。後悔しても遅いからな」


 何も、言いたくない。


「......そうやって自分に酔ってろクソガキ」


 円蔵さんは大股で家を出ていく。今日はきっと帰ってこない。


 ......どうせ可愛がっている女性のところにでも転がり込むのだろう。情けない。


 整わない呼吸と動悸を必死で押さえつけながら、そのまま布団に沈むように眼を閉じた。




 ――泥に沈むように。


   それは緩やかな絶望。


   もう二度と抜け出すことはできない。もがけばもがくほど沈んで、だったら何もしない事が最善の策なんだ。


   そうすれば僕はまだここに居ていられる。みんなとおんなじ場所に。


   けれどそれはほんとうに......?


   いつかは必ず沈んでしまう。


   ああ、嫌だ。まだみんなと一緒にいたい。


   ねえ、みんな助けて!


   それでも誰も振り向かない。


   その時に気付いたんだ。誰も僕のコトを見ていないんだってことに――――


 ――


 


 休日の学校は、けれど平日よりも活気があるように思えた。


 もちろん平日より人は少ないし、教室にもほとんど人が居ない。けれど学校にいる人々は間違いなく活動的で楽しそうな雰囲気に包まれていた。


 これが休日部活。


 ......やっぱり僕に部活は無理じゃないのかな。


「もう来てたんだ。早いね」


 昨日も聞いた声。結菜はドアの鍵を開けると美術室に入っていく。


「結菜こそ」


「一応ね、わたし部長だし」


 初耳だ。というか、二年生が部長をするなんて聞いた事がない。


「三年生が一人もいなくて、仕方なく私が部長やることになっちゃった。ほんと、困っちゃう」


 手慣れた動作で様々な備品を引き出す。


 筆にキャンバス......だけじゃない。なにかを模したオブジェクトやがらくたも机に並べていく。


「手伝うよ」


「ありがとう。そこの箱を全部出して並べてほしいの」


 結菜が指差したのは段ボールに入ったがらくたの山。それがいくつも積み重なっている。


「わかった」


 物をすべて並べ終えても結菜には疲れが見えなかった。


 ......荷物はけっこう重かったはずなのにな。


「おつかれー、ありがとう」


「そういえば、他の部員は?」


 一人でこれらを用意するのは楽じゃないはずだ。けれど短針が九時を指しているのに人がやってくる気配はない。


「来ないよ」


「え、来ないってどういうこと......?」


 思わず聞き返してしまったけれど、思えば廃部のこともわざわざ隠していたみたいなのに聞いて良かったのか不安になる。考えなしな言動に我ながら腹が立つ。


「んー......、えっとね」


 案の定、結菜は話しにくそうにしていた。


「ごめん、別に無理して聞きたいわけじゃ......」


「いいや、なんていえばいいのかな......。みんなその、美術部って形はあっても活動してる人はほぼいなくて」


「幽霊部員ってこと?」


 そう聞くと結菜は困ったようにうなずいた。


 幽霊部員の実在と言うのもまた変な言葉だ。


「じゃあ、いつも一人で活動してるの?」


「別に言わなくたっていいじゃん」


 目を逸らされて初めて僕は自身の失言を悟った。


「……ごめん」


 部活に入るべきじゃなかった。


 そんな後悔を今さら、もう遅い。


「そこで謝られるとこっちも困るんだけど?」


 少しふざけた雰囲気で結菜が茶化す。……茶化してるのかな?


「はい、じゃあ座って」


 見事に話が脇に置かれてしまう。この気まずい雰囲気を無視してくれたことが嬉しい。


「はい、それでは部活動を始めます。礼」


 釣られるように礼をして、僕ははじめて一人の学生に馴染んだ気がした。

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