プロローグあるいは反省
雨の匂い。
窓の外では灰色の雲が低く垂れ込めていて、校庭の隅にある鉄棒だけが濡れた光を鈍く反射していた。
美術室には僕しかいない。
そもそもこの教室を美術室と呼べるだろうか。
剥き出しになった鉄筋コンクリートと吹きさらしの教室。
石膏像の並ぶ棚の前で、僕は描き途中のキャンバスに手を伸ばす。
描きかけの空は、途中で止まっていた。
完成していたなら、きっと蒼く澄み渡る空だったのだろう。
「……ははっ」
最近、色が分からない。
鮮やかな絵を描きたかったはずなのに。
ぽつぽつと雨音が聞こえてくる。
僕は壊れかけの椅子にもたれかかり目を閉じる。
昔は静かな場所が好きだった。
誰も期待しない、誰も話しかけてこない。
そういう場所にいる時だけ苦痛を無視できた。
『まだいたんだ』
不意に声がした。
腕が震える。
入り口を振り返ってもそこには誰もいない。
怪訝なものを見つめるような視線もない。
「あ……」
誰もいない。
僕はすこし笑った。
もういない。いなくなった。
必要以上に踏み込んでこないから。
「はは……」
そういえば、委員会の仕事の話もしたな。
僕がここに座っていて、教室の入り口の前で結菜が呆れた顔をしていた。
石膏像。
古い木棚。
乾ききっていない油絵具。
その全てに彼女との想い出が滲む。
『ここ、相変わらず独特な匂いだね』って、そう言ったら彼女は『嫌なら帰れば』って冷たく吐き捨てる。
そんな会話がなぜか温かかった。
僕はここでなら普通でいられた。
窓際まで歩いていき、外を見つめる。
「……」
沈黙。
でも気まずくない。
だって僕しかいないのだから。
無理に何かを言わなくていい時間。
教室ではみんな会話を急ぎすぎる。
沈黙があると不安そうに笑う。
「……っっ」
でも、そうやって君と話すのが好きだったんだ。
ねえ、結菜。
どうして、なんで行っちゃったんだ。
還ってきてよ。僕はまだこの教室から出ていけないのに。
結菜。
結菜。
この不幸に釣り合わないくらい、君との時間が幸せだった。
ゆらゆらと椅子を揺らしながら僕は空を見上げる。
鈍い曇り空。
僕は再び目を閉じて思い出す。
決して忘れないように、瞼に焼き付いて離れないようにと祈りながら。
君と僕の境界。
思い出すならきっとあの日だ。
僕らが普通ではいられなくなった日。
おんなじ存在だと知ったあの夜の事からだろう。
次から第一話です。




