破山邸 AM3:17
――振り返ると、気づいた時にはもう手遅れになっていることばかりだ。
しんしんと降り注ぐ雪は街を白く染め上げていく。
凍えるほど冷たい森の中に一人、変わった男の姿があった。黒のスーツに身を包み、手には傷だらけのトロリーバッグを持った男は慣れた足取りで森を進んでいく。
極寒にも関わらず額に浮かぶ汗は、彼がここに来るまでどれほどの労力を費やしたのかを如実に表していた。
男は草花を乱暴に踏みつぶし、やがて洋館の前で立ち止まった。
まるで西洋の白のように荘厳な屋敷だが、一方で弾痕が至る所に残されている。
木々に囲まれ蔦が絡みついた様子はまるで廃墟だ。人が住んでいるようには到底見えない。
だが、それでもここは家だった。
――
「待って」
男は視線だけを声の主に向ける。
「……いつから、そこに」
「初めから、だよ」
男は思わず目をそらした。
だが、それも顔を覗き込まれてしまう。
「あのね、君の考えてることくらいわかるよ? ねえ私ちゃんと言ったよね? 『無理だよ』って」
男の顔が歪む。
「……君には君の役割があったはずだ」
「安心して。こっちは動ける。私の方に心配はいらない」
その言葉の意味を男は瞬時に悟った。
「駄目だ。来るな」
決して大きな声ではないが、取り付く島もない。冷たい否定だけがあった。
「却下。私も行くから」
即答だった。
「君じゃ足手まといだ。無駄死にさせるつもりはない」
「一人より二人だよ! だいじょうぶ、私だって昔とはもう違う。守られるだけの私じゃない!」
彼女を守る必要がないことは、男が一番よく知っていた。
現状の打破を一番に据えるならば、彼女の提案は理にかなっていた。
それでもなお、男は躊躇していた。
――今は、誰が為に。
それは雪にも覆い隠せない感情。
状況はあまりにも切迫していた。
「絶対に、貴方を一人にさせない」
お互いに決して目をそらさない。
「……駄目だ」
「なんで!」
何か言いたげな唇に指をあてる。
指先から伝わる彼女の体温は、まるで甘い毒のように心に染み込んでゆく。
「よく考えろ。この状況で君が現場を統括せずにどうするつもりだ。この重要性を知っているのは僕と君だけなんだぞ!」
彼女の目が伏せられる。
男はその表情に弱かった。
「……五分間だ。一〇分経っても合図がなければ屋敷を焼き払え。その隙にこちらも撤退する」
それも五分間を生き延びることができたらの話だ。
「君なら、わかってくれると信じている」
ゆっくりと指を離す。
その真っ直ぐな瞳が、今は苦しくて仕方なかった。
「……わかった」
彼女が静かに口を開く。
「その代わり、絶対に戻ってきて。死んだら二度と許さない」
――きみも……死なないで。
その言葉が喉に引っ掛かって出てこない。
男は彼女に背をむける。振り返ってしまえば最後、もう二度と前には進めないことだけが分かっていた。
「…………」
男は焼け焦げた屋敷へと足を踏み入れる。
客人を歓迎するはずの玄関ホールは血の海と化していた。
転がっている死体はこの屋敷の使用人か、それとも襲撃者のものか。この惨状では到底区別することはできないだろう。
血に濡れた数多の凶器が、この屋敷で起こった戦闘の激しさを物語る。戦闘からかなり時間を経ているのか、屋敷内には腐臭が充満していた。
一歩を踏み出すたびに、ぴちゃり、と水音が響く。
この惨状を前にしても男の表情はぴくりともしない。
ホールの中心で男は足を止めた。
獣の気配が一つ。
息をひそめているつもりなのだろう。
男は袖の内側から黒い球体を手に取り、頭上へと放り投げる。
それはまるで夜空に灯る一等星のように。
白く淡い光を灯す。
直後、耳を突き刺すような絶叫がホールを震わす。
だが男はやはり俯いたまま、決してその表情は変わらない。
ぐしゃり、と何かがつぶれる音が後ろから響く。
「と…………ゃ……」
男はジャケットの内ポケットへと手を入れる。
「……ま……」
振り向くと同時に男は落下してきた者を打ち抜いた。
敵が微動だにしないことを確認すると何事もなかったかのように再び歩き出す。
その行動に一切の無駄はない。
毒々しいほどに鮮やかな血沼は、ゆっくりとホール奥へと流れていく。
螺旋階段の根元に発砲し、床板を踏み抜く。
その目に優しさはない。
――もう、何もかも終わってしまえ。
煉瓦造りの地下通路を、男は物音一つを立てずに進んでいく。
灯りもなければ湿気すらない。
伸ばした手の先すら見えない。
行く手には見るからに頑丈な扉、
本来であれば生体認証を必要とするが、今は屋敷の電源が完全に落ちている。
扉のロックも強引に解除されていた。
事はすでに起きた。
あとは蓋を開けるだけ。
――イメージは波紋。意識が一粒、水面を広がっていく
風船が割れるように感覚が弾け飛び
五感すら消えた一瞬、世界と身体が溶け合い混じり合う――
ゆっくりと右腕を持ち上げる。
指先が触れた刹那、すでに結末は決定的だった。
――
時刻は午前七時過ぎを指している。
徳夜が指定した時刻まで残り六分。心配ばかりが心に積もる。
「桐原委員、全攻撃班の配置は終了。いつでもいけます」
「了解。合図があるまで待機」
徳夜の後ろ姿が脳裏から消えてくれない。
――やっぱり、私も行くべきだった。
普段は明朗快活な彼女だが、今はその顔に諦念の色が浮かんでいた。
「桐原委員」
徳夜に指示された時刻まで残り六分。だが今は一秒さえもどかしい。
状況はあまりにも切迫している。
「委員!」
「ほわぁっ!」
驚いて振り返ると、不安げな表情をした部下が立っていた。
「岡野くん、なにかあったの?」
穏やかな物言いだが、その目は部下を突き刺さしていた。仮に冗談でも挟めば命はないだろう。
だが、彼は怯むことなく口を開く。
「連盟から支援が到着しました。外縁部によれば、破山邸から半径五キロメートルに敵の姿はありません」
「ありがとう、支援部隊は全て外縁部に回して。面倒だから屋敷には近づかせないで」
本部からの支援を『面倒』と形容するあたりから彼女の余裕のなさをうかがうことができる。実際、この場所に増援を送られたところで焼け石に水であることに変わりはない。
仮に『敵』が奇襲を仕掛けてくればここにいる八割が惨殺されるに違いない。
連盟の最高戦力である徳夜ですら、この状況を切り抜けるのは難しいだろう。遂行という観点から言えば『敵』はこの上なく優れていた。
策を講じる間にも、事態は刻一刻と揺れ動く。
座して『敵』を待つか、こちらから仕掛けるか。どちらにしても戦は避けられない。
連盟から言い渡された命令は、事態の鎮圧および破山家惨殺の真相解明。けれど結果は期待できないだろう。
――これは負け戦かな……。
どう考えてもこちらが潰される未来しか想像できない。まるで蜘蛛の巣に飛び込んだ蝶の気分だ。
もはや全員揃っての生還は不可能。状況は命の選別を行う段階まで切迫していた。
「岡野くん」
「はいっ!」
......彼は狂っている。
「君に指揮を頼みたい。できる?」
「できます!」
即答だった。好物を前にした子犬のような目でこちらを見つめてくる。
「…………」
気を取り直して口を開く。
「これから屋敷を焼き払う。私は一班を率いて屋敷に突入、状況を把握次第すぐに撤退する。私たちが戻るまで撤退の指揮を任せたい」
「『敵』は近いです。戦闘はおそらく避けられません」
彼女は内心で舌打ちをする。岡野が進言するくらいだ。すぐそこまで来ているのだろう。
「足止め程度に交戦しつつ退いて。まともに戦えば確実に全滅する。一班の突入と同時に始めて」
岡野が頷く。
「一班はどうすれば」
「屋敷の現状を把握次第すぐに追いかける。もしもの犠牲はそれだけで十分」
「……死にたいんですか」
「いいや、……どうだろう」
屋敷の構造は頭に叩き込んである。『敵』の目的は破山の末裔だけではない。必ず奴らは地下にいる。
私だって、生き残れるかわからないくらいだ。
「ねえ、岡野くん」
なんですか、という風に首をかしげる。その仕草がどこか幼くって頬が緩んでしまう。
「きみは私を継いで」
「いいや、俺は超えますよ」
頼もしい返事に少しほっとする。
ひとたび常識に憧れてしまえば、燃え盛る業火に身を焼かれる苦しみが襲い掛かる。
だってわたしたちは常識に生きていないのだから。
本来はありえないはずの第六感を持ち、自らを異人と呼称する人類、人と異なるわたしたち。異人はこの世界においてノイズに他ならない。
特脳と呼ばれる第六感は、同時に甘い毒だ。
異人の中にはやがて特脳の力に溺れ、暴走する者が現れる。何を媒介にすることなく直に世界へ影響を及ぼす特脳はかつて存在したどんな兵器にも劣らない。特脳の力は畏怖され崇められるには十分すぎる神秘だった。
世界の理に干渉する者が、しかし破山には及ばない。
異人が魔法使いだとしたら破山家は神様と呼ぶにふさわしい。決して覆せない絶対意思。そして横に並ぶものはいない孤独な存在。
この傷だらけの屋敷もおそらくは神殿に見えることだろう。
――それも数時間前までの話だったけれど。
徳夜の指定時刻まで三分を切る。秒針の音が焦燥感を掻き立てる。
「一班、突入用意」
きっと現実は決まってる。この先、私たちに訪れる命運は変えられないだろう。
命を背負う場合も、そうでない場合も、ここに生じる責任の重みは変わらない。
信頼を預かるということは逃れられない責任を負うということ。
――でも、こればかりは仕方ないよね。
この先へ踏み出せば、きっと死ぬだろう。
「……そんなこと、最初から知ってたのに」
ここに来た時から覚悟していたことだ。
なぜだか気分は軽くて、まるでピクニックに来たみたいだ。
あの世への旅路が少しでも安らかでありますように。
そう祈ることすら馬鹿らしく思えた。




