番外編『宮本さんと風間さん㊼』
2026/09/10
思うところがあったので、前回投稿した『宮本さんと風間さん㊼』に大幅に加筆を加え、2話に分けて再投稿します。9/10以前に47話をご覧になった方は、恐れ入りますが再読の程よろしくお願い申し上げます。尚、後編は後日の投稿を予定しております。
それ以降、主さんが私の前に姿を見せることはなかった。
私は親や警察、学校の教師や地元の年寄りたちから死ぬほど怒られ、戻ってから最初の一週間は、ほぼ説教を聞くだけで一日が終わってしまった。
意外だったのは、子どもの頃から私が何をしても豪快にハッハッと笑い飛ばしてくれた源爺さんが、この時だけはとても怖い顔をして、
「・・・あの山には2度と近付いてはならん。分かったな?」
と、強い口調で言われたことだった。今まで見たことのない源爺さんの表情にひどく戸惑いつつ、私は無言で首を縦に振った。
源爺さんに怒られたのは、後にも先にもこの時だけである。
反面、私が些細なやらかしをする度にガミガミと叱りつけてくるあか婆は、このことに関しては一切何も言ってこなかった。
というより、この時期のあか婆はひどく様子がおかしくて、自分の家であるこじんまりとした神社からほとんど外に出なくなってしまっていた。
心配した私とりっちゃんが家を訪ねても、「大丈夫だから」と首を振るばかりで、それ以上何も言ってくれない。そんな状態が、1か月ほど続いた。
元気な年寄りが、急に元気をなくすことほど恐ろしいものはない。
これは早急に手を打たねばならぬと考えた私は、あか婆に生の喜びと活力を取り戻してもらうべく、以前近くの山でたまたま見つけたジェラルミンケースの中に入った小分けにされたお好み焼きの粉 (メタファー)を警察に持って行き、「近所のババアの家で見つけました」と、密告する作戦を決行しようとしたのだが、それをやる前にりっちゃんに見つかってしまい、
「お前、それをやったら、お前とその粉を混ぜて世界一汚ねぇハンバーグにしてやっからな? 冗談じゃねぇからな? 本気でやっからな?」
と、リアルガチの表情で宣告されてしまったので、仕方なく諦めた。小分けにされたお好み焼きの粉 (メタファー)は源爺さんに渡した。それがどうなったのかは知らないが、その後、源爺さんはちょっとだけ身なりが良くなった。近所の年寄りたちは夜中に突然、「いたぞおおおおおおおお!!!」と大声で奇声を上げ、プレデターごっこを始めるようになった。真夜中のプレデターごっこは、ブチギレたあか婆が八つ墓村スタイルで近所の年寄りたちを狩り尽くすまで続いた。あか婆はその翌日から通常営業に戻った。源爺さんは犬神家スタイルで川に沈んでいた。そうして私の周囲は、今までと変わりない日常を取り戻した。
ただしそれは、表面的には、である。
主さんの件の前後で、変わってしまったことは多々ある。
りっちゃんは、私に対して遠慮をするということが一切なくなってしまった。
まるで息を吸うかの如く、死ねだのクソダボだの、汚い言葉を平気で使うようになってしまった。
例えば林間学校の時などは、ドラム缶風呂に浸かっているりっちゃんを見て、「りっちゃんは虚弱体質だから、お湯だけでは疲れがとれないよね」と思い、熱したサラダ油を追加してあげたのだが、りっちゃんはそれが気に入らなかったらしく、「私の身体はインドの屋台メシじゃねぇんだよ!!」と、訳の分からんことを喚きながら刃物を手にして一晩中追いかけ回してきた。
例えば町内会の行事で海に連れていってもらった時などは、遠泳している最中にいい感じのホオジロザメを見つけたので、「りっちゃん、パーース!!」と言って投げてあげたら、りっちゃんは「ぎゃあああああああ!!」と大袈裟な悲鳴を上げ、手足をばっちゃばっちゃとばたつかせ始めた。ホウジロザメは格ゲーのレバガチャみたいな動きでビタンビタンしていた。それを見て、私は腹を抱えながら、「はしゃぎすぎじゃぞ、りっちゃん!!」と笑った。その後。私は夏の陽射しが色濃く残る夜の砂浜で、刃物を手にしたりっちゃんに一晩中追いかけ回された。
・・・と、いう風な具合に、私はりっちゃんから完全に舐められてしまったわけだが、最初の頃のように変に萎縮されるよりはマシだと思い、好きなようにさせることにした。
結果、それは私の人生における二番目の大悪手となる。
私が甘やかしすぎたせいで、りっちゃんの増長はとどまることを知らなくなり、びすけちゃんが『棺桶』を背負って八面六臂の活躍をし始める頃には、りっちゃんはありとあらゆる意味で無敵のバケモンになってしまっていた。
どれくらいバケモンなのかというと、テレビ局で三郎くんと一緒に大物芸能人の楽屋に挨拶に行く際、扉前の「⚪︎⚪︎様」と書かれた張り紙を指差し、
「いい、サブ!! コイツはね、相当な額の金を稼いでる癖に、すんげぇ安いカツラを利用している筋金入りのけちんぼだけど、そのことについては一切触れちゃダメだからね? それが大人の対応ってやつだからね? 分かった?!」
と、大声で言った後、何事もなかったかのように中へ入って行くレベルのバケモンである。その時の三郎くんの心中を察すると、私は本当に申し訳ない気持ちで一杯になる。それはともかく。
りっちゃんはもう手遅れだけど、せめてびすけちゃんだけはバケモンにさせるまいと思い、私は私なりに薩摩式道徳を説いてあの子を正道に導こうとしたのだが、いくら私が努力しようにも、バケモンとひとつ屋根の下に暮らす子どもがまともな人間に育つはずがなく、あれよあれよという間に、びすけちゃんもりっちゃんと同じバケモンになってしまった。
私がそのことを強く実感したのは、びすけちゃんが三郎くんと一緒に『天才霊能力者いっちゃん』の再来と呼ばれた伝説のクソ番組『キンキン&カンカン』を始めた後のことなのだが━━それは、まだまだ先の話である。
※※※
※※
※
あか婆は、ふとした瞬間に魂が抜けたような表情を見せることが多くなった。
その目はひどく遠いところを見つめていて、何事かを思い出しているのは明白だったが、それが何であるのかを訊ねる勇気は私にはなかった。あか婆のガラス玉のような瞳の向こう側、薄氷よりも更に薄い膜の向こう側に、一歩足を踏み入れれば二度と這い上がることが出来ない暗闇が広がっている━━その気配を、濃厚に感じ取っていたからだ。
あか婆が抱える『闇』の正体が何なのかを、私は結局最後まで知ることはなかった。
しかしある時、私は『その一端』を垣間見てしまった。
あれは、びすけちゃんがまだ幼稚園に通っていた頃の話だ。
あか婆はとても古風な人で、まるで昭和の高度経済成長期からそのままタイムスリップしてきたような生活を送っていた。
居間にはテレビもクーラーもなく、あるのは古びた桐の箪笥と丸っこいちゃぶ台のみ。台所には動いているのが奇跡としか言いようがない緑がかった古い冷蔵庫が一台と、所々が錆びついたガスコンロ。屋外に置かれた洗濯機は当たり前のように縦型で、しかも、一般家庭ではほとんど見られなくなった二層式だった。そんな人間が携帯電話など持っているはずがなく、あか婆の家にあるのは、世間では最早骨董品と認識されているダイヤル式の黒電話が一台のみである。
いつまでそんな化石みたいな生活をしているのだと、ことあるごとに源爺さんからチクチク言われていたのだが、あか婆は、
「私はこれでいいんですよ」
と言うばかりで、一向にQOLを上げようとはしなかった。
しかし、びすけちゃんが生まれ、
「あか婆も久喜原と一緒にムーチューブで盗撮犯を私人逮捕する動画を視るのですぅ〜。捕まったクズの性犯罪者どもが職場に配属されたばかりの新卒みたいに身体をカチコチにさせながらIQ2の言い訳と屁理屈を垂れ流すザマを観て美味しいアイスを食べるのですぅ〜」
と、ねだられるようになると、頑なあか婆の心にも変化が生じた。
それからしばらくして、あか婆のちゃぶ台と箪笥しかなかった居間に、場違いにも程があるデスクトップPC一式が仲間に加わった。
最初は、びすけちゃんに付き合う形でパソコンをカタカタしていたあか婆だが、時間が経つにつれ、あか婆は自分なりの楽しみ方を見つけたらしく、びすけちゃんがいない時でも、何事かを一人でカタカタするようになった。
ゲームでもやっているのだろうかと思ったが、びすけちゃん曰くそうではないらしく、あか婆はどうやら『自伝』のようなものを書いているらしかった。
それがどういう内容の『自伝』なのかは、びすけちゃんも知らなかった。
「完成したら、久喜原が一番最初に読ませてもらう約束をしているのです!!」
びすけちゃんは嬉しそうにそう言ったが、その約束が果たされることはなかった。
それからほどなくして、あか婆は『自伝』を書くことをやめた。
理由は明らかではない。びすけちゃんにすら、あか婆はその理由を語らなかったのだ。居間にあったパソコンは、いつの間にか何処かへ消えてしまっていた。
それ以降、あか婆は寝込むことが多くなった。
大病を患ったとか、そういう話ではない。あか婆に『何か』があって、その『何か』が、あか婆に立ち上がるだけの力を失わせてしまったのだ。
心を、折られてしまったのだ。
それがいったい何だったのかを、あか婆は最後まで語ることはなかった。
だが、ある時━━
当時の私は、りっちゃんとびすけちゃんの生活費を稼ぐために色々なバイトを掛け持ちしており、九州一帯を忙しく動き回っていた時期だった。
そのバイトがひと段落し、私は様子見がてらあか婆の家を訪れていた。
久方ぶりに見たあか婆は、ほんの少し前に見た時よりも更にやつれていた。
布団から上半身を起こし、弱々しい笑みを浮かべるあか婆を見て、私は堪えきれずに涙を流した。
背中をさすりながら、何か欲しい物や、して欲しいことはないかと訊ねると、あか婆はゆっくりと首を横に振った。
が、その途中、まるで何かを思い出したかのように、あか婆は動きを止めた。
背中をさすりながら、いったいどうしたのだろうと様子を見守っていると、あか婆は俯いたまま、
「静佳ちゃん。一つだけお願いがあるのだけれど、いいかしら?」
と聞いてきた。
私はもう、何だってしてあげるという気持ちで、「うん!」と頷いた。
あか婆は、私の返事を聞いて薄く微笑むと、ゆっくりと息を吐き、
「あなたが『六の宮の冥主』様とお会いした時のことを・・その時のことを、詳しく教えて欲しいの」
と、言った。
想像外のお願いに、私はひどく戸惑いながら、「どうしてそんなことを・・」と訊ねた。
しかし、あか婆はその問いに答えることなく、じっと俯いたままである。
強い疑念と不審が、心の中に棘のように突き刺さっていたが、これがあか婆の望みならと、私は主さんにお会いした時のことを語り始めた。
主さんが『天』であり『冥』であり『生』であり『死』、すなわち、森羅万象におけるすべてであることとか、
主さんが紙と鉛筆を作ろうとして、宇宙を滅ぼすレベルの化け物を創造してしまったこととか、
主さんは児童ポルノ禁止法と令和のコンプラを遵守していることとか、
主さんが引きこもりでメンヘラの『友だち』を心配して『家』を訊ねた際、うっかりノックの加減を間違えて『家』を半壊させてしまった結果、『妾の住処に何をしてくれとんじゃ、このクソボケがっ!!』とブチギレさせてしまい、以降、数十億年に渡って絶縁状態が続いていることとか、
そういった話を、私はあか婆の前で順に話して聞かせた。
あらかた話尽くし、他に何かあったかなと考えていると、ふいに脳裏に浮かび上がってくるものがあった。
「そういえば、主さんは私のことを『逸材』だって仰ってくれたけれど、他にもそういう人がいたんだって。1人は、数千年前に見つけた『アイツ』っていう人と、あともう1人は━━」
「数十年前に見つけた、『まり』って人」
その瞬間に感じた空気の重さと冷たさを、私は生涯忘れることが出来なかった。
まるで私の足元が急に崩れ落ちて、暗い井戸の底の底まで落っこちてしまったかのように感じられた。その冷たさに、私は思わず身震いしてしまう。まるでそれに呼応するかのように、夕焼けの赤みがかった陽射しがすうっとなりをひそめ、夜の暗がりが部屋を支配し始めた。
「・・・ッ」
あか婆の身体が、大きく震えた。目からこぼれ落ちる涙が、夕立のように布団を濡らしていく。
「あか婆・・」
どうしたのかと訊ねる私に一切答えることなく、あか婆は声を上げずに泣いた。とても長い時間、泣き続けた。
私は迷子の幼児のように、ただただあか婆の名前を呼び続けることしか出来なかった。
それから程なくして、あか婆は何処かへと一人旅立った。
その行き先が何処であったのかを、私は知らない。
びすけちゃんにも、りっちゃんにも、源爺さんにも━━あか婆は、自分がいったい何処へ行くのかを伝えなかったのだ。
しかし、ただ一人だけ━━あか婆の『一番弟子』である安西晴信だけには、行き先を伝えていたようである。
それは、あくまでも私の推測だ。あの男が、本当にそれを知っていたのかどうかは定かではない。だが、知っていなければ━━
あか婆の遺体を家に連れて帰ってあげることなど、不可能だったと思う。
※※※
※※
※
あか婆の通夜は、何故か仏式で執り行われた。
「あか婆は神道の人なのに、お通夜は仏式で構わないの?」
私がそう訊ねると、源爺さんは小さく頷いた。
「アレの実家は代々曹洞宗の檀家でな。アレは自身の『因縁』が深すぎる故、家族が眠る墓に入ることは出来んが、その代わりせめて、最後は家族と同じ仏式で見送って欲しい━━それが、前々からの遺言だった。だから、これでいいんじゃ」
その言葉に、あか婆にも家族がいるのだという当たり前の事実に、私は今更ながらに思い至った。
思い返せば、あか婆から家族にまつわる話を聞いたことは一度もなかった。血縁者が訪ねてきたという話も聞いたことがない。
それは明らかにおかしいことなのに、私もりっちゃんも全く気にしてこなかったのは、恐らく本能的に、これは決して触れてはいけない話なのだと理解していたからだろう。
あか婆の抱えていた『因縁』とやらが何なのか、気にならないといえば嘘になる。けれど、血縁者と縁を断ち、家族が眠る墓にも入れないなど普通のことではない。何か、とても大きなことがあったに違いないのだ。他人が興味本位で踏み込んで良い領域ではない━━これは間違いなく、そういう話だ。
私は、頭に沸いた疑問を振り払うように、
「そういえば、アイツはどうしたの?」
と、源爺さんに訊ねた。アイツとは、安西晴信のことである。
「晴信は━━」
源爺さんが言うには、安西晴信はあか婆を家に連れ帰った後、通夜と葬儀、その他諸々のことを源爺さんに任せ、姿を消したらしい。
その不義理っぷりに、私はひどく腹を立てたが、源爺さんはゆっくりと首を横に振り、
「・・・一人にさせておいてやれ」
と、憔悴しきった表情でそう言った。
それを見て、私は黙ってその場を去った。
一人にさせなければならないのは、安西晴信だけではないことを察したからだ。
びすけちゃんは通夜の間中、一言も喋らず正座していた。
その表情は怒りに満ち溢れていて、最早憎悪の領域に片足を突っ込んでいた。
危険な兆候だった。
だが、私もりっちゃんも、いったい何と声をかけてよいか分からず、黙ってその様子を見守ることしか出来なかった。
私たちは、揃いも揃って役立たずだった。
心がうまく動かない。
なくしてしまった大切な人と、これから守っていかなければならない大切な人。
両者に対する心の配分をどうすればいいのか分からなくて━━気持ちの整理をどうつければいいのかが分からなくて、私たちは参列者に会釈し続けるだけの機械人形と化していた。
それではいけない。
あか婆に対して申し訳ないし、びすけちゃんにもよくない。
それが分かっているのに、何も出来ない。頭も心も動かない。・・・どうすることもできない。
あか婆のことをダシにして、私もりっちゃんも、それを良しとしてしまっていた。
結局、私たちは何一つ行動を起こせないまま、あか婆の通夜は終わった。
翌日。
私とりっちゃんは、葬儀の受付に二人して立っていた。
そういうことはしなくていいと源爺さんから言われたのだが、何かしていないと辛いと言って、無理矢理受付係の役目をやらせてもらっていたのだ。
びすけちゃんはあか婆のいる居間に一人座し、むっつりとした顔で正座していた。りっちゃんが言うには、昨日から一言も喋っていないらしい。
「どうすればいいのかしらね・・」
りっちゃんの疲れ切った呟きに、私は何も答えて上げることが出来なかった。慣れ親しんだ無力感に苛まれていると━━
「すみません」
と、一人の男に声をかけられた。
その声に、私の意識は現実へと引き戻される。頬を赤らめながら、「あっ、申し訳ありませんでした」と、頭を下げると、男はおずおずと私に向けて何かを差し出してきた。
最初は香典かと思ったが、それにしてはやけに小さい。何だろうと思い目を凝らしてみると、それが免許証であることに気付く。
(何で免許証・・?)
顔を上げると、私と同様、訝しげに眉を顰めるりっちゃんと目があった。
男は恐縮しきった顔でしきりに頭を下げ、
「あ、あの、実はですね・・私、物凄く変わった苗字をしておりまして・・。喪主様や関係者の方々がご不快に思われるかもしれませんので、記帳の前に、まずこちらの方をご確認いただきたいのですが・・」
と、言ってきた。私とりっちゃんは、揃って免許証の名前欄に目を向ける。すると━━
確かにそこには、物凄く変わった苗字が書かれていた。
いや、変わっているどころではない。例え漫画でも、こんな苗字は存在しないだろう。それくらい、それはおかしな苗字だったのだ。
私の心に、疑念が広がっていく。
「・・・あの、失礼ですが、この免許証は本物なんですか?」
あか婆は職業柄、妙な人間が近づいてくることが多かった。
その多くは、心霊系ルポライターや心霊系インフルエンサーを名乗るイキり大学生の成れの果てで、あか婆の『名声』を利用━━あるいはネタにしようというくだらない連中ばかりだった。
この男も、そういった連中と同じ類の人間で、あか婆が亡くなったことを何かしらのネタにしようとしているのだろうか?
━━━だとしたら許さない。
私の目元が自然と険しくなっていく。と━━
「偽物じゃねぇよ。その免許証は本物だ」
男の後ろから、見知った顔がひょっこりと姿を現した。
その顔を見て、私は目を丸くする。
「えっ、ヤマさん!? どうして・・」
思わず身を乗り出すと、ヤマさんは照れたような苦笑を浮かべ、片手を上げた。
「娘さんが産まれた時以来か。立夏ちゃんも久しぶりだな」
「は、はい・・」
私同様、驚きに目を見開いているりっちゃんが、困惑げに頷く。
そんな私たちの動揺を見てとったのか、ヤマさんは軽く肩をすくめると、
「静佳ちゃんには、前に話したろう? 俺は昔、あかりさんに随分と世話になったんだよ」
それを聞いて、私は「あっ」と小さく声を上げる。緑ヶ丘市にいた時、確かに私は、ヤマさんからその話を聞いていたのだ。
「そういえばそうでしたね・・。ごめんなさい、すっかり忘れてました・・」
「晴信から訃報を聞いてな。お互い取るものも取らず、こうして駆けつけたというわけさ」
なあ?と言って、ヤマさんは傍らの男━━奇妙な苗字の男の肩に手を置いた。
「はい・・」
ヤマさんに声をかけられると、男は顔をくしゃくしゃにして涙を流し始めた。二人の関係は不明だが、かなり親しい間柄のようである。
「あかり先生には、命を救っていただいた大恩があるというのに・・。私はここ数年、仕事や家庭の忙しさを理由に、お礼に伺うようなこともせず、不義理を重ね続けてしまいました・・。私はそのことが、申し訳なくて申し訳なくて・・。こんなことになるならせめて、息子が産まれた時にお伺いすればよかったと・・私はそれが、悔やまれてならないのです・・」
袖で顔を覆って泣き始めた男に、ヤマさんは慰めるように優しく肩を叩く。その様子を見て、この人は本当に心の底からあか婆のことを悼んでいるのが分かった。迷惑系だか何だかのくだらない連中だと疑ってしまったことを、私は強く恥じた。
「あの・・」
りっちゃんが、遠慮がちに声をかけてきた。
「お二人は、どういったご関係なんですか?」
ヤマさんは「ああ」と言って、小さく口の端を吊り上げると、
「俺とこいつはな、共にあかりさんに命を救われた仲なんだ」
と、言った。
傍らの男も、顔をくしゃくしゃにしながら「はい、はい・・」と何度も頷いている。
「・・・」
私とりっちゃんは、無言で目を交わす。お互い、その表情には困惑が滲んでいた。
ヤマさんの返答は、答えになっているようでなっていなかった。
二人がどういった知り合いで、何があってあか婆に命を助けられるようなことになったのか。そういった大事な部分が、完全に抜け落ちていたからだ。緑ヶ丘市にいた時も、ヤマさんは詳しい話を一切口にしていない。
しかし、私はその疑問を口にしようとは思わなかった。ここは、そういったことを訊いて良い場ではないし、何より━━
ヤマさんと男、両名の目に、隠しきれない怯えが見て取れたから。
「・・・おっと。長々と話し込んだら他の人の迷惑になるな」
ヤマさんは自身の記帳を済ませると、香典を渡しがてら「それじゃあ、また後でな」と言い、手を振って受付を後にする。
二人が立ち退くと、入れ替わるようにして、小さな男の子の手を引いた女性が受付に現れる。
その女性は、『変わった苗字の男』の妻であると名乗り、傍らの男の子を息子だと紹介した。
「このたびはご愁傷様です・・」
親子揃って頭を下げるのに合わせ、私もりっちゃんも返礼の言葉を述べる。
だが、その言葉はどこか上の空で、私たちは二人揃ってぼうっとしてしまっていた。
その『原因』に、私は目を向ける。
母親に手を引かれた、異様に顔立ちが整った美しい男の子へと━━
「・・・りっちゃん?」
ヤマさんと三人家族が揃って家の中に消えてからも、りっちゃんはぼうっと宙を見つめるような目をしていた。
その美しい銀眼が、凍えた月のように輝いている。
『勘』が降りてきた証だった。
「りっちゃん?」
私が再度声をかけると、りっちゃんは夢から醒めたようにびくりと身体を震わせ、私に向けて謝ってきた。
その表情には、強い困惑が張り付いている。
「・・・何を『視た』の?」
「いや・・」
私が訊ねると、りっちゃんは大きく首を傾げながら、何かを言おうとしたのだが━━
「このたびはご愁傷様で・・」
他の弔問客が受付にやって来たため、その話はそのまま有耶無耶になってしまった。
それからしばらく、弔問客が記帳を行おうとする度に、ぎょっと目を丸くすることが増えた。
その都度、私とりっちゃんは「大丈夫です、問題ありませんから」と、付け加える必要があった。
その原因となっているのは、勿論あの男の『変わった苗字』である。
あのヤマさんが保証しているのだから、偽名の類では絶対ないのだろう。けれど、それでもまだ信じ難い。
訝しげな顔をして記帳する弔問客を見つめながら、私は台帳に記された『変わった苗字』へと目を向ける。そこには━━
みかん畑
と、書かれていた。




