番外編『宮本さんと風間さん㊻』
「先っぽだけ!! 先っぽだけでいいですから!!!」
餌の時間が来た猫のように舌をだらんだらんさせながら迫る私を、主さんの見えない力が弾き飛ばす。
「これが世界の総意である!!!」
弾き飛ばされた私の身体は、そのまま主さんの作った穴へと吸い込まれる。穴の中は何かネバネバしていて、どことなく甘い匂いがした。これは本当にドロリッチなのではないかと疑った私は、味を確認してみようとしたのだが、それをやる前に私の身体は何処かへと投げ出された。
視界がぐわんぐわんする。
脳が渦を巻いているようだった。私は生まれてこの方乗り物酔いというものを経験したことがないのだが、それは多分こんな感じなのだろうと考える。
頭をさすりながら目を開けると、そこは見慣れた私の部屋だった。
飾り気のない机、せんべい布団、『一撃必滅』と書かれた掛け軸、年季の入った木刀。何もかもが元のままだった。そのあまりにも慣れ過ぎた生活臭に、アレは夢だったのかと疑いそうになる。しかし━━
私は、愛刀(木刀)を愛でるように撫でつつ、背後を振り返る。
ちょうど押し入れがある辺り━━そこに、ポッカリと穴が開いていた。
中には、主さんの空間で見たのと同様の、ドロリッチの中身みたいなウネウネが広がっていた。
あれは夢ではなく、確かな現実だったのだということを、それが教えてくれていた。
私は穴から目を逸らし、ゆっくりと机へ向かった。
引き出しを漁り、紙を取り出す。ペン立てから適当なボールペンを取り出し、さて何を書いたものかと思案していると━━
ダンダンダン、と、誰かが2階を上がってくる足音が聞こえた。
振り向くと同時に、部屋の襖が開かれる。
そこに、りっちゃんが立っていた。
「・・・」
りっちゃんは、ハアハアと息を切らしながら私を見ていた。
その表情は、様々な感情が万華鏡のように浮き沈みしている。
怒り、悲しみ、安堵、呆れ、歓喜、殺意、諦念・・それらの感情が一周すると、りっちゃんの顔が大きく歪み、その目から大粒の涙がこぼれ落ちてきた。
「・・・え」
私が小さく呟くと同時に、りっちゃんは私めがけて飛びかかってきた。そして、困惑する私を有無を言わせず畳に押し倒すと━━
精密機械のようなパウンドで、私の顔面をボコボコにしてきた。
「ちょ・・りっちゃん!! なんじゃ、急に!! やめ・・やめんか!!!」
正直、非力なりっちゃんにいくら殴られたところで痛くも痒くもないのだが、異様な迫力を感じた私は、やめてくださいと懇願する。
しかし、りっちゃんは一向にパウンドをやめようとしない。一発入れる度、私の顔面にしょっぱい水がポトポトとこぼれ落ちた。
りっちゃんは泣いていた。
泣きながら、一切の躊躇なく私の顔面を殴り続けていた。
理不尽にぶん殴られ続ける私は、その様子をどこか他人事のように眺めつつ、散々食い物にしてきた女性に滅多刺しにされたホストの末期の景色というのはたぶんこんな感じなのだろうなと、ズレたことを考えていた。
りっちゃんはその後、15分くらい私を殴り続けた。
「もう・・心配したんだからね!! 静佳ちゃん!!!」
散々殴り散らかした後、りっちゃんは私の首根っこをロデオマシーンのようにぐわんぐわん揺らしながら掴んできた。
「一ヶ月もどっか行っちゃって!! みんなみんな心配してたんだからね!!」
その言葉に、私は思わず「え?」と声を上げてしまう。
だが、疑問を口にするより早く、主さんの空間は時間の流れを含め、何もかもが現世とは違うのだと頭の中で納得する。
(ワシにとっては数時間前のことなんじゃが・・。そうか。ワシは、りっちゃんを一ヶ月も一人きりにさせてしもうたんじゃな)
その事実に、私はなんとなく後ろめたくなってしまい、りっちゃんから視線を逸らした。
「・・・心配なんかせんでもええじゃろうが。ワシとりっちゃんは、友だちでも何でもないんじゃから」
私がそう言うと、りっちゃんは「はぁ?」と眉を顰めた。そして、
「急に何言ってるの? え、何? まさか最後に会った時に私が言った、『もう絶交だよ!』って言葉を本気にしちゃったの?」
と言った。
その言葉を耳にし、私は弾かれたようにりっちゃんへと視線を戻す。
りっちゃんは、呆れが限界突破したような表情で私を見ていた。
「・・・嘘。本当にそうなの? バカなんじゃないの? そんなの勢いから出た言葉に決まってるじゃない? 大体、私が本気で静佳ちゃんと絶交するつもりなら、とっくの昔にそうしてるって。ナイフで滅多刺しにしてるって。今更も今更で、私が本気の絶交なんてするわけないじゃない?」
そう言って、りっちゃんは首を左右に振りながらため息を吐いた。
絶交=ナイスボートはメンヘラが極まりすぎちょるぞりっちゃん、というツッコミを飲みこみつつ、私は呆然とりっちゃんの顔を見上げた。
「それなら・・ワシとりっちゃんは、まだ友だちのままということでええんか?」
「そうだよ!! 当たり前じゃない!!」
肩の辺りから、何か大きなモノがサッと消えた感じがした。同時に、胸の中心からじんわりと温かいものが広がっていく。私は黙ってりっちゃんを見上げた。りっちゃんは目を逸らすことなく、私の目を見つめていた。と━━
「おおい、まだかぁー」
空間に開いた穴から、金の眼が覗いた。
※※※
※※
※
その時に感じた恐怖をいったい何と表現すればよいだろうか?
人間の語彙力では到底表現しようのない恐怖に、私とりっちゃんは揃って大きく身を震わせる
穴の中から覗く主さんの眼は、明らかに少し不機嫌だった。人間の感覚でいうなら、レストランで注文した品がいつまで経ってもやってこない時に感じる程度の苛立ち。
その程度の些細な『苛立ち』が、私たちに空を覆い尽くすミサイルの群れを目撃してしまったかのような深い絶望を与えた。
私は慌てて立ち上がり、「今すぐ参ります」と答えようとした。
けれど、身体が動かない。声も出ない。私の上に馬乗りになっているりっちゃんをどかすことも出来ない。私は━━
行きたくない、と感じてしまった。
あれほど主さんと共に行くことを望んでいたのに。『夢』を叶えることを望んでいたのに。・・・私の本当の居場所は『ここ』にあるのだと知ってしまったのに。
それでも、私は行きたくないと感じてしまった。
その理由は明白だった。
私は、夢も望みも居場所も━━すべてを投げうってでも側にいたいと願う人を、既に見つけてしまっていたのだ。
私は、その人の顔を見やる。
りっちゃんの顔面は蒼白で、彼女の大きくて綺麗な銀色の眼が、恐怖に大きく見開かれていた。
その表情を見て、私は何か大きなモノを飲み込んだかのように、ぐっと喉を締まらせる。
りっちゃんの側にいたい。
いなければならない。
私の頭の中のすべてを占めるその思いが、りっちゃんの表情を見た瞬間、上書きされていく。
側にいたいと願うこと以上に、私はりっちゃんに、これ以上怖い思いをしてほしくはなかったのだ。
それでようやく、腹が決まった。
私はなるべく優しくりっちゃんの身体をどかすと、主さんへと向き直った。そして首を垂れ、慇懃に告げる。
「お待たせして申し訳ございません。ただちに参りま━━」
「お待ちください」
私がそう言い切る前に、背後から誰かが待ったをかけた。
※※※
※※
※
目を向けると、そこにはあか婆が立っていた。
いつもの白い巫女装束に赤い袴。ただ、その顔面は、あか婆の束ねられた真っ白な長髪以上に蒼白で、滝のような汗をかいていた。
その姿を見て、私の全身から一気に血の気が引いていく。何をするつもりだという疑問以上に、その表情が私を恐怖で凍り付かせた。
あか婆の顔は、死を覚悟していたからだ。・・・いや、その表現は些か的を外している。
あか婆は、死以上のことを覚悟していたのだ。
あか婆は、主さんがどういう存在なのかを正確に把握していて、それがどうしようもなく恐ろしいものだと分かっていながら、私のために声を上げてくれた━━それが、今の一瞬で分かってしまった。
いいから。
私のことはいいからと、叫びそうになったその時━━
「あれ? お前は・・」
あか婆を見ていた主さんが、何かを訝しむように呟いた。
「・・・ん〜?」
穴の向こうの主さんは、目を細めて何事かを考えているようだった。いったいどうしたのだろうと、その様子を見つめていると、主さんは不意に大きく「あ!」と声を上げ、
「思い出したぞ!! お前、『あの時』のアイツか!!」
と、言った。
「ハッハッハッ!! 朕としたことが最初は気付かなかったぞ!! まったくニンゲンというやつは、ほんの少しの時間で外見が大きく変わってしまうから厄介だな!! 久しぶりだな、お前!! あれから元気にしていたか!?」
主さんからそう問われたあか婆は、今にも泣き出しそうな表情で薄く笑った。その奥には強い悲しみと畏れ、そして━━
ほんの僅かに、怒りが混じっているように見えた。
あか婆は慇懃に頭を垂れると、
「お久しぶりでございます。『六ノ宮の冥主』様」
と言った。
その名前を聞くなり、主さんの眼が小さくぴくりと跳ねた。
「またその名前かー。お前たちニンゲンは、朕のことをいつもその名前で呼ぶが、朕は別に━━」
主さんの言葉が途切れた。その眼は、何かを考え込むように上を向いたかと思うと、すぐに頭を振るかのように左右へ振られる。
「・・・まあ、いい。朕にとって、名前など大した意味はない。お前たちの好きに呼ぶがよいー」
と、まるで何事かを諦めたかのような声でそう言った。
「で?」
主さんの眼が、再びあか婆をとらえる。
「お前は、朕に何か用があるのであろー? 用があるのなら早く言えー。この世界を壊さないよう朕の姿を見せるのは結構大変であるのだぞー」
あか婆は小さく頷き、一歩前へと進み出る。
私はその袖を思わず掴んでしまった。
あか婆が、いったい何をするつもりなのか分からない。分からないけれど、それは絶対にダメだと強く言いたかった。でも、頭の中からは何も言葉が出てきてくれなくて・・私は、駄々をこねる幼子のように、あか婆の袖を掴んだまま、イヤイヤと首を振ることしか出来なかった。
ふと見ると、もう片方の袖に、りっちゃんも縋りついていた。りっちゃんは私同様、泣きながら頭を左右に振っている。
そんな私たちを、あか婆はとても愛おしいものを見るような眼差しで見つめていた。そして、小さく笑みを浮かべると、私たちの頭を優しく撫でてくれた。
それで何故だか、ふっと力が抜けた。
あか婆の袖をしっかりと掴んでいたはずの私とりっちゃんの手は、まるで空気を掴んでしまったかのようにするりと抜け、行く手を阻むものが何もなくなったあか婆の身体は、ゆっくりと主さんの元へと歩いていく。
その歩き方に淀みはない。けれど、少しだけ身体が震えていた。
あか婆はそれを隠すかのようにその場に座すと、畳に手をついて平伏する。そして、
「『六ノ宮の冥主』。貴方様のかねてよりのお望み通り、私が貴方様の元へと参ります。ですからどうか、この子のことは見逃してくださいませ」
と言った。
※※※
※※
※
主さんは長く何も喋らなかった。
無言を貫く主さん、平伏するあか婆、肩を寄せ合う私とりっちゃん。息が詰まりそうなその沈黙は、
「・・・え?」
という、主さんの心底困惑した声で破られた。
「ん? んん? んんんー? いや、あの、そんなことを言われても、困るというか何というか・・気を悪くしないでほしいのだが、朕はお前にはそこまで興味がないのだ。何せ、今の今までお前のことを忘れていたくらいだからなー」
その言葉に、あか婆が弾かれたように顔をあげる。その表情には、強い困惑が刻まれている。
「で、では何故、貴方様は、ことあるごとに私の危機を救ってくださったのですか? あの御力は、紛うことなき貴方様の━━『六ノ宮の冥』のものでした。その因縁故、私は貴方様に見染められた者━━『六ノ宮の寵姫』と呼ばれ、畏れ忌み嫌われて生きてきたのですよ? 私に興味がないと仰るなら、どうして私のことを━━」
畳に置かれたあか婆の手が、強く握りしめられる。そこには、隠しようのない怒りが感じられた。
「・・・貴方様のせいで、私は自分の命よりも大事なものをいくつも失ってきたというのに・・」
「・・・」
肩を震わせるあか婆を、主さんは気の毒そうに見つめている。
そして、はぁと大きなため息を吐くと、
「お前はどうやら、根本的に思い違いをしているようだな・・。お前に執着し、命を助けていたのは朕ではない。それは━━」
と、言いかけたところで、
「ぎゃあああああああああああっ!!!」
突如、主さんが悲鳴を上げ始めた。
※※※
※※
※
鳩が豆鉄砲を食らったような顔している私たちの前で、穴の向こう側にいる主さんは、ぎゃあぎゃあと転げ回っている。
ここからでは見えないが、穴の向こうで何事かが起こっているらしい。
そこそこ長い時間ぎゃあぎゃあ言った後、主さんは、
「分かった分かった!! 何も言わない!! 何も言わないし帰るから、もうそれやめてよぉぉ!!!」
と、涙声で叫んだ。
その一言で、『何事か』から解放されたらしく、主さんは「うぅ・・」と、憔悴しきった声を漏らした。そして、
「もうやだ。帰る。お家帰る」
と呟くと、空間に開いた穴が収縮するようにすうっと消え━━
「あ」
ようとしたところで、主さんが再び眼を覗かせる。その眼が私の方を見やると、
「宮本静佳よ。気が変わったら、いつでも朕のところに戻ってくるがよいー。お前の居場所は朕の元である。そう遠くない未来、それが分かる時がくるであろう」
そう言い残すと、主さんの気配は今度こそ完全に消えた。
沈黙の帳が降りる。
私たちは長く口を開かなかった。
主さんの気配にあてられてしまったせいでもあるのだが、それ以上に私とりっちゃんを沈黙させたのは━━
「・・・」
背を向けたまま、まるで何かが抜け落ちてしまったかのように立ち尽くす、あか婆の小さな背中だった。




