番外編『宮本さんと風間さん㊶』
山籠りが終わってから、何故かりっちゃんは学校に来なくなった。
担任の教師は物凄く曖昧な顔をして、「久喜原さんは家庭の事情で・・」と言葉を濁すばかりで、具体的な欠席の理由を何も教えてくれなかった。
私は、何があったんじゃろうと思い、りっちゃんの家にお見舞いに行ったのだが、呼び鈴を鳴らしても何の反応も返ってこなかった。人の気配が、完全に消えていた。
仕方なく、私は事情を知っていそうなあか婆の元を訪ねた。
あか婆に、りっちゃんはどうしたんじゃと訊ねると、彼女は疲れ切った顔でため息を吐き、「ついてきなさい」と言って立ち上がった。
言われるがままあか婆の後ろをホイホイついていくと、集落の外れにある古い教会に辿り着いた。
そこは、私が生まれるずっと前から建っている教会で、それなりに手入れはされているものの、牧師はおろか、誰も常駐していない無人の廃墟だった。
私は、屋根にそびえる十字架を見上げながら、
「前々から気になっとったんじゃが、何でこの集落に耶蘇教の教会があるんじゃ? ここらに住む人間は、みんな神道が仏教じゃろうに?」
と、訊ねた。あか婆は、ふっと薄く微笑むと、
「・・・九州は、キリスト教絡みの案件が多いからよ」
と、答えた。
案件?と問い返したが、あか婆はそれ以上何も教えてはくれなかった。
教会の扉は左右の取手に鎖が巻き付けられており、その結び目は巨大な南京錠で封印されていた。
あか婆はサバイバルナイフみたいな形をした鍵でそれを開けると、慣れた手つきで鎖を外し、その扉を開いた。
ギ、ギ・・という重い音と共に、観音開きの扉がゆっくりと開かれる。
教会の内部は、外見とは裏腹に意外なほど清掃が行き届いていた。廃墟特有のカビと埃の入り混じった、あの何ともいえない独特な悪臭がまったくしない。
中に足を踏み入れて真っ先に目についたのは、色褪せたステンドグラスを背にした巨大な十字架と、マリア像である。その眼前には、まるで頭を垂れるようのに、長椅子がずらっと並んでいる。
あか婆はホールを迂回するように右端へ向かうと、マリア像の真横にある小さな扉へ向けて歩いていく。私は、その背を黙って追った。
あか婆が扉を開けようとしたところで、対面に置かれたアップライトピアノが突如として音を奏で始めた。
人の姿はない。
私はギョッとして立ち止まってしまったのだが、あか婆はそれに目を向けることさえしない。まるで何事もなかったかのように扉を開ける。
不思議に思った私は、あか婆の服をちょいちょいと引き、
「あのピアノ、勝手に讃美歌を弾いちょるが、アレはアレか? 金持ちの家によくある、自動で演奏してくれるピアノか?」
と、訊いた。
あか婆は苦笑しつつ、首を横に振った。じゃあアレはいったい何なんじゃと訊ねたのだが、あか婆に「しー・・」と、遮られてしまう。そして、
「みなさんの邪魔をしてはいけませんよ」
と、言われた。何のことは分からなかったが、私は言われた通りに口をつぐんだ。
その際、ふと気配を感じて後ろを振り返った。すると━━
誰もいなかったはずの長椅子に、大勢の人間が座っている姿が視えた。
皆、古い時代の格好をしていた。老若男女が黙って項垂れ、讃美歌に耳を傾けている。その手には例外なく、鉄製のロザリオが握られていた。彼らの身に纏っているボロボロの古い衣服とは対照的に、それらはキラキラと宝石のように輝いていた。
その厳粛な光景に、私はしばし目を奪われる。
「静佳ちゃん?」
あか婆の声に、私はハッとなって彼女の方を向く。
「あか婆、人がたくさん・・」
私は背後を指を差しながらそう言ったのだが、振り返った時にはもう、誰の姿もなかった。
讃美歌は、いつの間にか止んでいた。
※※※
※※
※
扉を抜けた先には短い階段があって、私はあか婆と連れ立ってそこを登った。
階段を登り切ると、天井の低い空間が現れた。二階というより、屋根裏部屋と表現した方が正しいかもしれない。
屋根裏部屋には左右両側に窓が二つあり、真ん中を区切るような形で壁が張られていた。その壁の中央に、またもや扉がある。その前に立ったあか婆はトントンと扉をノックし、
「立夏ちゃん、入るわよ?」
と言った。
中から、誰かの返事が聞こえた。
扉を開けると、ベッドから半身を起こしたりっちゃんの姿があった。
りっちゃんはあか婆の姿を見て顔を綻ばせたのだが、背後に私がいることに気付くと、突如として目尻をキッと吊り上げ、枕を投げつけてきた。
「うおっ、いきなり何すんじゃりっちゃん」
私が抗議すると、りっちゃんはきーっと猿みたいな声を上げ、
「どのツラ下げて私のところにきたのっ!!」
と、訳の分からないことを言った。
私は「はぁ?」と首を傾げる。何も心当たりがなかった。
また例によって例の如くメンヘラを発症したんかと内心でため息を吐いていると、今度はボックスティッシュを投げつけられた。戸惑う私をよそに、りっちゃんは野郎ぶっ殺してやると言わんばかりの顔で、私のことを睨みつけている。
「私、静佳ちゃんのせいで酷い目に遭ったんだからね!! キリスト教の神父さんがいっぱい来て、私を見るなり青ざめた顔して『デイモン・・』ってすっごく小さな声で呟くんだよ!? 全員が一切に胸の前で十字を切り始めるし、その指が捕まったばかりの盗撮犯みたいにプルップル震えてるし、聖書の一節をキてるようで吸われてるだけのパチスロのBGMみたいに延々聴かされるし、聖水を雨の日の水たまりをフルスピードで駆け抜けるクソセダンのようにぶっかけられるしで、本当に本当に酷い目に遭ったんだからねっ!! その時の私がどんな気持ちだったか分かる!?」
手足をバタつかせながら、ぎゃあぎゃあと訳の分からないことを喚き散らすりっちゃんを、あか婆がまぁまぁと宥めている。小声で、あの子には何を言っても無駄だからと言っているのを、私の地獄耳は聞き逃さなかった。
それを聞いて、またもや先日の怒りがぶり返してくる。
友達のお見舞いに来ただけなのに、私はこんなにも親切で友達思いだというのに、何でこんなことを言われなくてはいけないのだろうか?
それが、本当に腹立たしかった。怒りが沸々と湧いてくる。だが━━
「静佳ちゃんなんて大嫌い!! もう絶交だよ、絶交!!!」
その言葉を聞いた瞬間、自分でも怖いくらい、怒りがすうっと引いていくのを感じた。
続いて訪れたのは、圧倒的な虚無である。
怒りも悲しみもそれ以外も、何の感情も感じられなかった。暴れるりっちゃんも、それを宥めるあか婆も、ベッド以外ほぼ何もない屋根裏部屋も、窓から差し込む光も、何もかもがどうでもいいもののように思えた。
私は一度だけ天を仰ぐと、そのまま背を向けて部屋を出た。
階段を降りる途中、あか婆が私の名前を呼ぶ声が聞こえた。追いかけてくる気配がしたので、私は走って逃げた。
何から逃げているのかは、自分でもよく分からなかった。
※※※
※※
※
その後、私の足は自然に『御山』へと向いた。
近所の年寄りから『六死ヶ嶽』と呼ばれ、畏れられている忌み山だが、私にとっては、そこは心の安らぐ場所だった。
居場所、と言っても過言ではない。
山を駆け抜け、いつもの相撲を取っている広場に辿り着くと、私はすうっと息を吸い込み、
「全員勝負じゃ!! 今日こそ、この山で一番強い奴を決めっど!!!」
と、大声で叫んだ。
が、その声は、綿に吸い込まれた水のように消えていく。
『御山』は、声はおろか音すら出せないのだということを、私はすっかり忘れていたのだ。
どうしたものかと、ちょっとだけ気まずい気持ちで広場の真ん中に突っ立っていると、私の声ではなく、私の殺気に反応したのだろう。『気配』が、続々とこちらに向かって集まってきた。
山の木々の間から、いつもの『熊』と『猿』、そして、滅多に姿を見せない『蜘蛛』までもが顔を覗かせる。
集まってきたのはそれだけではなかった。
四方八方から、黒い何かがイナゴの群れのように集まってきた。その中には、今まで一度も見たことのない『犬』のようなモノと『鳥』のようなモノ、それに加えて、大きな『鼠』のようなモノの姿があった。そして、その群れに覆い被さるかのように、深海生物のような奇怪な形をしたモノ、植物に手足が生えたような形をしたモノ、類似のものさえまったく思いつかない前衛芸術のような形をしたモノまで、山に生息するありとあらゆるモノが、我先にと私めがけて押し寄せてきた。
その数、何体なのか想像もつかない。
上を向いても下を向いても見渡す限り黒、黒、黒で、私を取り囲むモノたち全員が、今にも飛びかからんばかりに昂揚しているのが肌で分かった。
その様を見た私はニッと破顔し、来いやと言わんばかりに木刀を大上段に振り上げる。
とにかく、何でもいいから暴れたくて仕方なかった。
モノたちの全身が僅かに膨らみ、跳躍のための力を蓄え始める。じりじりとした緊張が辺り一帯を包み込み、張り詰めに張り詰めたその糸が、臨界点を迎えてぷつりと切れそうになった瞬間━━
『御山』の頂上から、鉄砲水のような強烈な怖気が襲いかかってきた。
あの時の感覚を、言葉でどう表現すれば良いのだろうか?
強いて現すなら、『死』。
巨大な蛇に丸呑みにされてしまったかのような、確定的な死の予感。けれど、もしそれに呑まれようものなら、決してそれだけではすまされないのだという、『死』という概念を超えた先にある何かの暗い影を感じ取ってしまった。
私は、汗をかくことも、瞬きすることも、息をすることも出来ずに、ただ動きを止めていた。
心臓を動かしていることさえ、不敬に感じた。
その予感を感じ取ったのは、私だけではないらしく、その場にいたモノたち全員が、私と同じようにピタリと動きを止めていた。
そして、すべての感覚を総動員して、『御山』の頂上を注視していた。
━━━そこに、『何か』がいる。
遥か遠くに存在するその『何か』は、私たちのことをただ『見ている』だけだった。
その眼差しに、怒りや苛立ちといった感情はない。
カラスの鳴き声がしたから上を向いたとか、野良猫の鳴き声がしたから路地裏に目を向けたとか、人間で例えるならばそんな風な感覚で━━ほんの些細な興味で、『何か』は私たちに目を向けているのだと何故だか分かった。だが、たったそれだけのことで━━
まるで『魂』を握られてしまったかのような、圧倒的な絶望を覚えてしまった。
その時間は、果たしてどれほど続いたのだろうか?
長かったように思うし、案外短かったようにも思う。
不意に、何の前触れもなく『何か』の視線が消えた。
瞬間、どっとした疲れが、まるで土砂崩れのように双肩に押し寄せてくる。
手から木刀がするりと抜け落ち、私はその場に四つん這いになって崩れ落ちてしまった。
私の周囲を囲んでいたモノたちも、空気の抜けた風船のようにふにゃふにゃとその場にへたり込んでいた。
※※※
※※
※
広場の中心で、私はぽつんと一人きりで立ち尽くしていた。
先程まで広場を埋め尽くさんばかりに溢れていたモノたちは、引潮のようにすうっと一斉に帰っていってしまった。今は、私以外に何者の気配もない。
「・・・」
私は、ぼうっと頂上の辺りを眺め続けていた。頭の中にあるのは、先程の『視線』━━何者かによる、圧倒的な存在感である。
━━━あの視線の主に、お会いしてみたい。
私の脳内は、いつの間にかその願望だけに支配されていた。
その心の声に導かれるように、私は『御山』を登り始めた。
緩い傾斜を登りながら、そういえば広場より先に足を踏み入れるのは、これが初めてであることに気付く。
それはたまたまだったのか、それとも無意識に忌避していたのか。
どちらなのかは定かではないが、今の私の心は決まっていた。
━━━例えこの先に何が待ち構えていようとも、お会いせねばならぬ。
その、一心だった。
それは、とても不思議な感覚だった。
私は、視線の『主』のことを何も知らない。けれど、遠い遠い昔に、拝謁の栄誉を賜ったことがあるような━━そんな、不思議な感覚がした。
自分でも説明出来ないその不思議な感覚に導かれるまま、私は歩を進める。
しかし、山の頂上には、どれだけ歩を進めても辿り着けない。歩けども歩けども同じ景色が続くばかりで、何かのまじないにかけられたかのように、進んでいるのに進めない。進路を変えてみても、結局同じ場所に辿り着く。業を煮やした私は、周りの木々や薮を引きちぎって進んでやろうとしたのだが、その時ふいに、足元に濃い霧が立ち込めているのに気付いた。ハッとして顔を上げると、辺り一面深い霧に覆われ、文字通り一寸先すら見えない有様となっていた。
流石に、私は不安を覚えてしまったが、両手で自らの頬を二、三度張ると、意を決して再び歩き始めた。進行方向は、勘に任せた。
何もない空白の世界を、私は一人歩いていく。
当然のように無音。
気付くと、地面から土の感触が消えていた。
ゴツゴツした小石やヌメった落ち葉、足が沈み込むような泥沼の感触が消え失せ、代わりに訪れたのは、鏡の上を歩いているかのような平坦で滑らかな感触と、いつ足元が抜け落ちてしまうか分からない背中合わせの恐怖だった。頂上へ続く傾斜もいつの間にやらなくなり、私は平行棒のようにピンと揃えられた不気味なほどに平坦な道を、ただただ真っ直ぐに歩いていた。
途中、何度も止まろうと思った。何度も振り返ろうと思った。けれど━━
それをやったら終わりだと、私の中の何かが囁き続けていた。
その声に従い、私は前だけを真っ直ぐ見つめて歩いていく。
心細いという感情を、私はこの時、生まれて初めて味わっていた。
※※※
※※
※
どれくらいの時間が経ったろうか。
一時間も経っていない気がするし、一日経った気もする。何なら、五年十年百年経ったような気もする。
私の中の時間の感覚が、完全に狂ってしまっていた。
いや、狂っていたのは時間の感覚だけではなかった。脳の思考力そのものが、完全におかしくなっていた。何も考えることが出来ない。気を抜くと、自分の名前さえ忘れそうになってしまう。
私の自我が、消えかけの蝋燭のようにふらふらと揺れている中、私の頭を支配していたのは、『お会いせねばならない』という使命感のみだった。その一念で、私は一歩一歩、まるで亀のように歩を進める。
その途中、何かの気配を感じた。
目を向けると、いつの間にか私の周りに無数の『影』がいた。
『影』は人間のような形をしている。その『影』は、ほんの少し背中を丸めた格好で、私とは反対の方向に向かって歩いていく。その姿を横目で見て━━
━━━この人たちは、何処へも行くことが出来ないのだと、何故だか分かった。
何処へも行けないのなら、いったい彼ないし彼女らは、いったい何処へ行けるというのか?
━━━行けるところなど何処にもない。
何処にもないからこそ、こんなにも悲しい気持ちになるのだ。
私の両目からは、いつしか涙が溢れていた。
その涙が止まらなくて、私は何度も何度もそれを拭う。何の音も聞こえない無音の空間の中で、私は迷子の幼子のように声をあげて泣いていた。
それから、長い時間歩いた。
歩いて歩いて歩いて、目から溢れ出る涙がようやく止まった時、
不意に、目の前が大きく開けた。
辺りに広がるのは真っ白な空間。
けれど、その『白』は、霧による白ではない。何の『白』なのかは分からない。けれど、その『白』は、とても尊く、そして、
━━━恐ろしいモノのように感じた。
私は恐る恐る、その空間を歩いていく。
その『白』の中心に、異質なモノが建っていた。
大人の背丈ほどの高さの、黒い祠。
その格子戸の奥には、宇宙の果てのような闇が広がっている。
まるで魅入られたようにその『黒』を見つめていると━━
闇の中に、二つの目玉が浮かんだ。
私は、思わず飛び退いてしまう。
闇に浮かんだその眼は、私の眼と同じ黄金の色をしていた。
けれど、その輝きは私とはまるで比較にならない。
私の金色がメッキの色だとするならば、闇の中に浮かぶ眼の金色は、磨き抜かれた純金の金色。人の魂の卑しい部分をくすぐるその色が、じっと私を見つめ、
ニッ、と、愉快げに目を細めた。
そして━━
『よくぞ辿り着いたな、ニンゲン!! お前は凄いな!!!』
そう言って『眼』は━━『主さん』は、幼い女児のような声で、カラカラと笑ったのだった。




