番外編『×川あかりの追憶』
どこかで鴉が鳴いている。
夕闇の訪れを告げるその声に呼応するように、窓から差し込む光に鮮やかな橙色が混じる。
×川あかりは微かに白檀の匂いが漂う社の中央に一人座し、まんじりともせずにその光の筋を見つめていた。
彼女の目の前には、投げ捨てられたように散らばった紺色の座布団がある。先程までそこに座っていた少女は、今しがた肩を怒らせて帰ってしまった。
「・・・」
×川あかりは静かにため息を吐くと、ゆっくりと立ち上がり、傍に置いてあった『静佳ちゃん用』と書かれたハリセンを神棚に戻した。そのまま背を向けようとしたのだが、不意に何かを思い出したように立ち止まると、再び神棚に向き直る。
そして目を瞑り、『彼女』の言葉に想いを馳せた。
━━━ 人間とは、本当に軟弱な生き物じゃのう。
『彼女』━━宮本静佳がその言葉を口にしたのは、果たして意図的だったのか、そうでないのか。
どちらにせよ、あの子が自分のことを人間だと思っていないのは間違いないだろう。
十にも満たない年齢で、自分のことをそのように理解してしまっている残酷に、×川あかりは暗澹たる気持ちになる。
あの子は何もかもが無茶苦茶なように見えて、その実、誰よりも頭が良い。自分自身の異質さなど、とっくの昔に承知しているのだろう。しかし━━
あの子が有する謎の『力』。それに関しては、驚くほどに自覚がなかった。
あの『力』は何なのか? あの子は一体何者なのか?
『西』の人間である×川あかりが、訳あって『南』の総本山に越してくる以前に、『南』が総力を挙げて『宮本静佳』という女の子について調べたことがある。しかし━━
その結果は、『何も分からない』だった。
過去に『呪詛』や『祝福』の類いを受けた形跡は一切なし。両親は平凡、先祖に『冥道』や他の異能者の『血』が混ざった形跡もない。科学的な検査でも異常は何一つ検出されなかった。遺伝子学的、生物学的にも、『宮本静佳』は『人間』で間違いない。
━━━だが、絶対に『人間』ではない。
その理由━━『力』を、×川あかりと『南』の人間は、嫌というほど目にしている。
━━━この子は、第二の『安西晴信』になれるかもしれない。
『南』は色めき立ち、一時は門下に入れることで話がまとまりかけていたのだが、『南』の代表━━安南源一郎がそれに待ったをかけた。
━━━何の『因縁』も『使命』もない幼い子どもを、ただ『力』があるという理由だけで『地獄』に引きずり込むんか? 『南』も随分お偉くなったものじゃのう。お前ら全員、『東』に鞍替えしたらどうじゃ?
その一言で、この話はそれきりとなった。
後年、×川あかりが『南』の総本山に居を移した際、『西』と『南』は互いに『冥打』を交わし、宮本静佳に関することは『表』にも『裏』にも秘匿することで合意している。
その判断は絶対に間違っていないと━━強大な『力』と『因縁』に振り回されて生きてきた彼女には断言出来る。それは自身の経験だけでなく、彼女以上に強大な『力』と『因縁』に振り回されて生きてきた一番弟子━━安西晴信を間近で見てきたからでもあった。
×川あかりが安西晴信と出会った時には、彼の『力』は既に周知の事実だった。だがもし、その『力』が明らかになる前に彼と出会っていたなら、彼女は間違いなく宮本静佳と同じ対応を取っていただろう。それほどに━━痛いほどに、強い『力』というのは良くないモノを引き寄せることを、彼女は『経験』で知っていたからだ。
大いなる『力』は、大いなる責任を背負わされる。助けて当たり前、助けられなくて恨まれる地獄の道程である。安西晴信をその道程から救い出すことは終ぞ叶わなかったが、宮本静佳だけは自分や安西晴信のような道を歩んでほしくはない━━それは、紛うことなき×川あかりの本心だった。だが、その一方で━━
━━━宮本静佳をこのまま放置するのは、果たして本当に正しいのだろうかと考えてしまう。
その疑念が脳裏をかすめる度、×川あかりは激しい自己嫌悪に襲われる。
あの子は、悪い子ではない。
やることなすことめちゃくちゃだが、その根底には優しさがあった。警察や役場に虚偽の通報をされる度、この子には人の心がないのではないかと疑ったが、それは『今』なだけで、この先彼女はちゃんとした人間の心を身につけるだろうという予感が確かにあった。それは老人特有の『勘』のようなもので、根拠などないに等しい。だが、宮本静佳という女の子を長く見れば見るほど、その『勘』は絶対であると確信出来る。この子は大丈夫な子だ、と。そう━━
「・・・静佳ちゃんには、ちゃんとした人間の心がある。『あの二人』とは、何もかもが根本的に違うのだから・・」
開け放たれた社の扉から、酷く冷たい風が吹いてきた。
宮本静佳という少女に関し、×川あかりは『西』と『南』に一つだけ嘘をついている。
安南源一郎から「静佳ちゃんのような『力』を持つ子どもに何か心当たりはないか?」と訊ねられ際、彼女は首を横に振った。
それは半分は本当であり、半分は嘘だった。
×川あかりは、確かに宮本静佳の『力』に心当たりはない。類似のものを見たことすらない。だが━━
宮本静佳は容姿が非常に整った少女である。それに加え、彼女には大きな身体的特徴が一つあった。それは━━
━━━純金のように輝く、金色の眼。
宮本家に、同様の眼を持つものはいない。それは、彼女ただ一人に与えられた『異質』。
その『金色の眼』に、×川あかりは心当たりがあったのだ。
※
━━━今から数十年前のこと。
私は、愛媛県※※市の山深い集落━━『あの九月』によって地図上から消失した悲劇の舞台、※※地区にて生を受けました。
※※地区は、私が生まれた時から既に限界集落に片足を突っ込んでおり、小学校は1クラスしかなく、私が五年生の時には一年生は僅か二人しか入学して来ませんでした。バスは一日四便、スーパーや飲食店はなく、買い物が出来る場所は賞味期限切れの商品を平然と棚に並べるような悪徳雑貨屋くらい。山には猪やマムシなどの危険な害獣が沢山いるため、子どもたちだけで立ち入ることは許されず、川は流れが早い上に、上流のダム建設現場の排水とゴミが大量に流れてくるせいで足をつける気にもならないほど汚れていました。近所に住む老人や専業主婦は口を開けば悪口ばかりで、常に三、四人で固まってクスクスと意地の悪い笑みを浮かべていました。まるで誰かを見下していなければ、今すぐにでも自分の現状に押しつぶされてしまうといわんばかりに━━。
漫画やアニメに出て来る『楽しい田舎暮らし』など幻想に過ぎなくて、『田舎』という極めて悪辣な環境の真実の姿がそこにはありました。
私は、あの地区のことが大嫌いでした。
遊ぶ場所もなければ、心が安らぐ瞬間もない。何もかもが碌なモノではなく、不満ばかりが積もっていく環境でしたが、それでも、私は毎日がそれほど嫌だとは感じていなかったのです。
理由は二つありました。
一つは両親。父と母は優しくて、私のことをすごく愛してくれましたし、大事にもしてくれました。最悪な環境でしたけれど、両親が私のことを守ってくれたおかげで、私は腐らずに毎日を過ごすことが出来たのです。父と母には心から感謝しているし、私は二人のことが本当に大好きでした。
そして、もう一つの理由は━━
私のたった一人の親友である、『あの子』の存在でした。
※※※
※※
※
『あの子』は小さな犬を飼っていて、名前をムクと言います。
私はムクのことが可愛くて可愛くて仕方なくて、散歩の度にいつも『あの子』にくっついていきました。
ムクはとても人懐っこい犬で、私が撫でると嬉しそうに舌を出して擦り寄ってくれました。あの頃、『あの子』と一緒になってムクの散歩をする時間が、私にとっての一番の幸福な時間だったのです。けれど━━
その幸福な時間の中に、どうしても耐えられないことが一つだけありました。
それは、ムクの散歩ルートの途中にある空き地でいつもたむろしていた、ある四人組の存在でした。
彼らは全員男の子で、ヨレヨレの古いランニングシャツに穴だらけのズボン、ボロボロの靴という酷い出立ちをしていました。私の知る限り、その服装が変わったことは一度もありません。恐らく、年がら年中、同じ服を着ていたのでしょう。
彼らは私と同い年くらいの少年でしたが、私は彼らのことをまったく知りません。名前も、どこに住んでいたのかも、私は何も知りませんでした。
彼らは学校に通っておらず、この半年の間に突如として※※地区に現れた子どもたちだったからです。
彼らは空き地の中心で、いつも無言で円陣を組んで座っていました。何かをして遊んだり、談笑しているといったところを見たことはありません。ただ━━
私と『あの子』が空き地の側を通る度、まるで昆虫のような感情を伺いしれぬ目で、じっと私たちのことを見つめてくるのです。
私は、それがひどく恐ろしかったのです。
彼らが本当のところ、何を思って私たちのことを見ていたのか、それは今となっては分かりません。しかし、全てが終わってしまった後━━『あの九月』が終わった後に、私は当時の『西』の代表から、こう言われました。
━━━あの子たちはきっと、君たちのことが羨ましかったのだろう。
あの四人組の男の子は純粋な日本人ではなく、『ある団体』が『ある恐ろしい目的』を持って、外国から集めてきた日本人の血が混じった子どもたちだったのです。
生贄の羊、実験動物、そんな言葉ではまるで足りない扱い━━『骨壷』である彼らにとって、呑気に犬の散歩をしている私たちの姿は、さぞや苛立たしく、疎ましく、そして━━
羨ましかっただろうに違いありません。
その溜まりに溜まった鬱屈が爆発したのが、恐らく『あの日』だったのでしょう。
※※※
※※
※
何ぶん数十年も昔の話なので、確かとは言えませんが、始まりは七月の末だったように記憶しています。
いつものように『あの子』と一緒にムクの散歩をしている最中、空き地を通りかかった私は、思わず「あれ?」と声を上げてしまいました。
一人、足りない。
いつも四人いる男の子が、その日は何故か、三人しかいなかったのです。
何か用事があったのか、あるいは風邪でも引いたのか、考えられる理由はいくつもあるのに、何故だかそれが気になって仕方ない。私が一人立ち止まり、首を傾げていると━━
突如、『あの子』に手首を掴まれました。
そしてそのまま、逃げるように早足で空き地を通りすぎていく。私は目を白黒させ、されるがまま『あの子』に引きずられていきました。『あの子』はとても引っ込み思案な子で、こんな乱暴な真似をされたのは初めてのことだったのです。
辻を曲がり、完全に空き地が見えなくなってからも、しばらく『あの子』は私の手を離しませんでした。リードに首を引っ張られるような格好になったムクが、苦しげに小さく鳴くと、『あの子』はようやく手を離してくれました。
「・・・どうしたの? ※※ちゃん?」
戸惑いつつ、私は訊ねました。けれど『あの子』は私に背を向けたまま、何も語ろうとはしません。今まで見たことのない彼女の様子に、ムクも戸惑っているのが肌で分かりました。どうしようかと思案していると━━
「四人じゃないよ」
と、『あの子』が呟きました。
「四人じゃないの。あかりちゃんは知らないんだろうけど、あの人たち、最初は五人だったの。・・・でもある日、一人いなくなって、それっきり・・」
「・・・」
私は何も言えずに黙って立ち尽くすことしか出来ませんでした。
綺麗な夏の夕焼けがふいに色を落とし、まるで血液のようにドス黒い不吉な色へ変じます。『あの子』が、ゆっくりと私の方へ振り返りました。
「たぶんあの人も、もう帰ってこないよ」
逆光になっていたのか、それとも目を逸らしてしまったのか。
あの時、『あの子』がどんな表情を浮かべていたのか━━私は、それを思い出すことがどうしても出来ないのです。
※※※
※※
※
その後、『あの子』の言葉が正しいことはすぐに証明されました。
三人組が四人組に戻ることはなく、それどころか、お盆を過ぎる頃には更に一人減り、新学期が始まる頃には、更にもう一人減りました。
そうして、空き地の四人組は『あの九月』が始まる頃には、たった一人だけになってしまったのです。
「・・・」
いつもの散歩道を、私と『あの子』は肩を寄せ合うようにして歩いていました。
夏休みが終わり、新学期が始まったばかりの頃でした。その頃は、『あの九月』に通じる最初の異変が、ぽつぽつと※※地区に現れ始めていた頃でした。
表面上は長閑だった※※地区に、突如として動物の虐殺死体の遺棄が相次ぐようになったのです。
そして、まるでそれに呼応するかのように、得体の知れない不審者の目撃情報、突如として別人のように変わってしまった住人の噂話、山深い集落に住む奇妙な信仰宗教の信者たち━━などといった不穏な噂が、毎日のようにそこらかしこから聞こえるようになりました。そんな中━━
小学四年生の女の子が、行方不明になるという大きな事件が起こりました。
学校は休校となり、子どもたちには家の外に出ないよう通告がありました。
けれど、それを律儀に守っている子どもはほとんどおらず、大半の子は通告を無視し、友達の家などに平然と遊びに行っていました。自分だけは大丈夫だという根拠のない自信が、まるで流行病のように子どもたちの間に蔓延していたのです。
かくいう私も、その一人でした。
流石に遊びに出歩くようなことはしませんでしたが、ムクの散歩くらいなら大丈夫だろうと、私は『あの子』と一緒に散歩に出かけていたのです。
『あの子』は、外に出ることを酷く怖がっていました。
けれど、本当は家から一歩も出たくないのに、ムクが可哀想だからという理由で、無理矢理勇気を振り絞って散歩に出かけていたのです。
『あの子』はとても優しい女の子で、誰かのために自分を犠牲に出来る子でした。
その心意気に感化された━━というのは美化しすぎかもしれませんが、私は学校が休校になってからも、毎日必ずあの子の散歩に付き添うようになりました。
その日も、私はしんとした街並みを、『あの子』と一緒に歩いていました。
※※地区は、上流でダムの建設工事を行なっている関係で、昼夜を問わず巨大なダンプカーが走り抜ける物凄い騒音に悩まされていましたが、何故かその頃は、ダムの建設工事が中断されていて、ダンプカーが一台も通らなくなっていたのです。いつものように井戸端会議に夢中になっているおばさんや老人たちの姿もなく、町はまるでゴーストタウンのように静まりかえっていました。
その不気味な静けさに、私と『あの子』は自然と肩を寄せ合うような形で歩くようになりました。
私たちが歩く靴の音と、ムクのハッハッという呼吸音が、やけに大きく聞こえたことを憶えています。お互い一切会話はせず、ムクの愛らしく揺れる小さな背中ばかりを見つめていました。と━━
ジャリ、と、誰かが砂を踏み締める音がしました。
ムクが跳ねるように立ち止まり、慌てた様子で『あの子』の後ろに隠れます。どうしたのだろうと顔を上げると━━
私たちの目の前に、包丁を手にした男の子が立っていました。
空き地の四人組━━その最後の一人でした。
彼は血走った目で荒い息を吐き、私たちのことを睨みつけていました。
手にした包丁が、夕陽に反射してギラリと不気味に光ります。
私は『あの子』と抱き合い、ひっと短い悲鳴を漏らしました。生まれて初めて覚える類の恐怖━━殺意を目の当たりにし、身体の震えが止まらなくなっていたのです。
その拍子に、『あの子』はうっかりリードを手放してしまいました。
それが落ちるポトリという音がしたかと思うと、それまで『あの子』の背後に隠れていたムクが突然前に進み出て、ワンワンと果敢に吠え始めました。
「・・・」
けれど、ムクは身体の小さな子犬だったので、男の子には何の脅威にもなりませんでした。
彼はムクの方に視線を落としさえせず、包丁を大振りに構えたまま、ゆっくりと私たちの元へ歩いてきます。
私たちはお互いの身体を強く抱きしめたまま、助けを呼ぶ声すら上げることも出来ずに、ただ震えることしか出来ませんでした。
その時、ふっ、と、大きな影が差しました。
いつの間に現れたのか、男の子の背後に、巨大な影が立っていたのです。
逆光で、姿はよく見えませんでした。
その『影』は大きな手で、男の子の手首をがっちりと掴んでいました。
大人が助けに来てくれたのだと、私は安堵しました。けれど、目が慣れるにつれ、その『影』が普通ではないと気付きました。その正体を見とめた時、
「ひいぃぃ!!」
私は、大きな悲鳴をあげてしまいました。
その『影』は、二メートルに迫るほどの長身で、全身を黄ばんだ包帯でぐるぐる巻きにした、明らかに普通ではない人間だったからです。
『影』は、申し訳程度に衣服も身につけていました。けれど、それはいつの時代のものなのかも分からないほどに色が煤けた空色のワンピースで、丈もまるで合ってはいませんでした。裾の長いノースリーブのようにしか見えないその古いワンピースと、乱雑に巻かれた黄ばんだ包帯の切れ端が、風に吹かれてふらふらと揺れていました。
「・・・」
『影』に手首を掴まれた男の子の顔は真っ青で、今にも倒れそうなほど凄い汗をかいていました。
ガクガクと震える手から包丁が滑り落ち、地面に当たってカランっという硬い音を立てました。その、次の瞬間でした。
ガゴッ、という、今までの人生で聞いたことのない、厭な音がしたのは。
私の目の前で、男の子の手が脱ぎ捨てられたゴム手袋のようにだらんと垂れ下がりました。男の子の顔が大きく歪み、顎が外れんばかりに口が開かれ━━
その身体が、ふっと目の前から消失しました。
声を上げる間もありませんでした。
男の子の身体は、『影』によって布切れのように軽々と投げ捨てられ、そのまま地面に叩きつけられたのです。
人間の肉と硬いモノがぶつかる、何とも形容しがたい厭な音が響きます。舞い上がる砂埃と共に、男の子の肺から空気が一気に抜けるゴボリッという音が漏れました。男の子は白目を剥き、打ち上げられた魚のようにビクビクと痙攣していました。
「・・・」
『影』は、頭をくいくいと小さく左右に揺らしながら、そんな男の子をじっと見つめていました。
頭部を覆う包帯からは、生垣の隙間から生えた雑草のように髪が無造作に飛び出しています。唇は常に半開きで、その奥には血のように真っ赤な舌と、鈍く輝く何かしらの金属のようなモノが覗いていました。その正体が歯の矯正器具なのだと気付くのは、ずっと後になってからのことでした。
男の子を見下ろす『影』の眼は、浮世絵の三白眼のようにとても大きくて、まるで初めから瞼が存在していないかのように、常に限界まで見開かれていました。そして、その眼は━━
光輝く、黄金のような色をしていたのです。
「・・・」
『影』は、男の子の身体を両足で挟み込むように跨ぐと、大きく背を曲げてその顔を覗き込みました。
そして、くいっくいっと、顔を小さく左右に揺らします。
いったい何をやっているのだろうと、その光景を怯えながら見つめていると、
『影』は不意に腕を振り上げ、出鱈目に男の子の顔を殴り始めたのです。
肉が叩きつけられ、血が飛び散る悍ましい音が、何度も何度も私の耳朶を襲いました。あまりの恐怖に半ば正気を失い、夢うつつのように白くぼやける頭の中で、幼い子どもがきゃっきゃっとはしゃぎながら、ぬかるみの中でタップダンスを披露する光景が、何故だか頭に浮かんできました。
「・・・」
私は声を上げることも、泣くことも、逃げることも出来ずに、だらんと両の腕を下げたまま、目の前に広がる地獄を見続けることしか出来ませんでした。しかし━━
「やめてっ!!」
『あの子』が、『影』の腕に飛びついたのです。
『影』の動きが止まり、その目が『あの子』に向けられました。
「もうやめて!! 死んじゃう!! その子、死んじゃうよ!!!」
『あの子』は泣きながら━━ガタガタと震えながら、今にも崩れ落ちそうな膝を必死に奮い立たせて、そう叫びました。
それを見た瞬間、私の身体は勝手に動き出していました。
『あの子』の身体にすがりつき、『影』から離れるよう必死に懇願しました。けれど、『あの子』はまったく聞いてくれなくて、『影』の腕を離そうとはしませんでした。
「・・・」
そんな私たちを、『影』は不思議そうに見つめていました。そして━━
「あっ、そっか」
と、見た目にそぐわないひどく幼い声でそう言うと、何かを得心したかのように、両手をポンと叩いたのです。
呆気に取られる私たちの前で、『影』は「え、えへへへ、へへ・・」と、不気味に笑うと、横たわる男の子の頭を掴み上げ、無造作に私たちの前へずいと突き出してきました。
「あ、あなた、たちも、や、やりたいんだよね? ね? うぇへへへ・・」
「・・・」
『影』の言わんとしていることが何一つ理解出来ない私たちは、ただ押し黙ることしか出来ませんでした。
そんな私たちを置き去りにし、『影』は不気味で卑屈な忍び笑いを響かせます。
「ご、ごめんね・・わ、私、人の、人の心がないから、気を利かせるとか、そ、そういうことが全然出来なくて・・そ、そうだよね、やりたいよね? や、やりたいに決まってるよね? だ、だって、殺されそうになったのはあなたたちだもんね? 殺してやりたいに決まってるもんね? ご、ごめんね、気が利かなくて・・。う、うっかり、私が殺しちゃうところだった・・。コ、コレあげる。あ、あげるから、こ、殺しちゃっていいよ? ほ、ほら・・ほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほら」
恐怖のあまり腰から力が抜け、私たちは互いを庇い合うようにその場にへたり込みました。
歯の根の噛み合わない私たちの目の前に、原型をとどめないほどに破壊され尽くした男の子の無惨な顔面がありました。鼻先が触れるほどの至近距離で、振り子のように揺れる男の子の顔の間から、チラチラと『影』の狂った笑みが病的な紙芝居のように垣間見えます。
これは悪夢で、私はまだお布団の中にいて、これは単に夢を見ているだけに違いない。だって、そうでなければおかしいから。現実に、こんなことがあるはずがない━━。
私は頭の中で、そう逃避し続けていました。
けれど、これは紛うことなき現実で、私の腕の中で震えている『あの子』の体温と、男の子から湧き出る生々しい血の匂いが、これが決して夢などではないことを教えてくれました。
恐怖のあまり心と脳が逃げ場を失い、意識の糸がぷっつりと切れそうになった瞬間、
━━━※※。
血の匂いをかき消すほどの強い芳香が、鼻腔に押し寄せてきました。
その強烈な匂いに合わせ、明らかに日本語ではない言葉が聞こえました。イントネーションからして、中国語に間違いない。けれど━━
あの時『あの男』が『影』のことを何と呼んだのか、それを思い出すことはどうしても出来ませんでした。
『男』に名を呼ばれた瞬間、『影』はびくりと身体を震わせると、手に持っていた男の子を空き地の方に放り投げ、即座にその場に平伏しました。
両手を地面についた格好で頭を深く下げ、額を地面に擦りつける最上級の平伏。
まるで『王』を迎え入れるような、仰々しい所作。
『男』は、それが当然と言わんばかりに、悠然とこちらに向かって歩いてきます。その背後には、血のように赤い巨大な夕陽が浮かんでいました。
『男』が歩く度、チャリンチャリンと、何かぶつかる硬い音がしました。
その音は、男が腕にぶら下げている女物のトートバッグから聞こえてきました。派手なピンク色に、海外の有名な高級ブランドのロゴが入った、夜職の女性が持つような代物。『男』は歩きながらバッグの口に手を伸ばし、何かを取り出しました。
それは、トートバッグ同様、一目で高価なものだと分かる香水の瓶でした。
その瓶を二、三度振るうと、『男』は自らの身体にそれを振りかけ始めます。首、肩、胸元、手首、腋・・それを、
━━━シュシュシュシュシュシュシュシュシュシュシュシュシュシュシュシュシュシュシュシュシュシュシュシュシュシュ
病的な回数、繰り返し始めました。
『男』の指が電信を打つように激しく上下し、風に乗ってむせかえるような香水の匂いがこちらに漂ってきます。『男』は、しばし気持ちよさそうに香水を振りかけていたのですが、不意に何かに気付いたように眉根を寄せると、持っていた香水の瓶を無造作に投げ捨ててしまいました。瓶はすぐ側の電柱に当たり、派手な音を立てて割れてしまいました。
『男』は何故か少し苛立った様子でトートバッグの中を漁ると、今度は凝った装飾の施された小さな瓶を取り出し、またもやそれを自らに何度も何度も吹きかけ始めました。男性用香水のきつめの柑橘系の匂いと、女性用香水の柔らかなフローラル系の匂いが混ざり合い、辺りには暴力的な匂いが立ち込めていました。
その明らかに普通ではない様子を見て、私はこの『男』がまともな人間ではないことを悟りました。
先程までとは種類の違う恐怖に、『あの子』を抱きしめる腕に更なる力がこもります。ムクはもう完全に怯えきっていて、私たちの足元でプルプルと震えていました。『あの子』は大丈夫だろうかと、その顔を覗き込むと、
『あの子』は何故か、熱に浮かされたようなぼうっとした顔をしていました。
その表情を見て、何故だか私は、大きな雨雲が迫り来るような不吉な予感を覚えてしまいました。
そんな私たちを置き去りにし、『男』は気持ちよさそうに香水を何度も何度も振りかけ続けています。しかし━━
「・・・ピ、ピーシャー・・」
平伏する『影』にそう呼ばれると、『男』はハッとした表情になり、思い出したかのように私たちへと目を向けました。そして、軽く頭を下げると━━
「对不起・・・おっと、ごめんなさい。怖い思いをさせて申し訳なかったね、美しいお嬢さんたち」
そう言って、『あの男』は━━薄気味悪いほどに顔立ちが整った『あの恐ろしい男』は━━『影』とまったく同じ金眼を優しげに歪め、私たちに微笑みかけてきたのです━━。




