第二話「井戸を渡る声」④
景真の言葉を聞いた若い衆員は、地図と井戸を見比べた。
「地下で、ですか。しかし、三つの井戸を結ぶ水路は図面にありません」
「今の図面には、でしょう? 幽京が造られる前のものは残ってないんですか?」
衆員はすぐには答えず、紅緒へ視線を向けた。
「幽京の地下には、造営の際に埋められた古い溝や水路があると聞いたことはあります。ただ、すべてが記録されているかは……」
「館へ戻りましょう。古い絵図が残っているかもしれないわ」
紅緒が井戸から顔を上げた。
御伽衆へ戻ると、高平は別の依頼人との話を終えたところだった。景真の説明を黙って聞き、机の上へ現在の水路図を広げ直す。
「声と異物が通れる、図面にない空洞ですか」
「はい。普通の地下水だけなら、花びらや木くずが形を残したまま別の井戸へ流れるとは考えにくいです。それに、井戸の壁から風が出ていました」
「三つの井戸は、街路を無視して斜めに並んでいます」
紅緒が地図の赤い印を指でなぞった。
高平は片眼鏡の奥で目を細めると、戸口に控えていた職員を呼んだ。
「造営以前の絵図を。水路と排水溝が分かるものを優先してください」
「かなり古いものになります。少々お待ちを」
職員が奥へ駆けていく。
「幽京が最初から今の姿だったわけではないんですね」
「ええ。ここには以前、小さな集落と田畑がありました。皇都の造営に合わせて地面を均し、水の流れも大きく改めています」
高平は現在の地図へ目を落とした。
「埋めたはずの水路が残っていたとしても、不思議ではありません。しかし、これまでは事故の報告もなく、確かめる理由がなかった」
「声が聞こえなければ、誰も気づかなかったわけか」
「気づかれないものは、存在しないものとして扱われがちです」
やがて、二人の職員が巻物を何本も抱えて戻ってきた。机の上へ順に広げられた紙は、端が擦れ、墨の線もところどころ薄れている。
現在の碁盤状の街路とは違い、古い集落の道は川や丘に沿って曲がっていた。その間を、細い水路が何本も枝分かれしながら走っている。
「これだ」
景真は一本の線へ指を置いた。
北東の古い庭から南西へ延びる水路が、三つの井戸の下を斜めに横切っている。途中には木工の長屋があり、その先で現在も使われている排水路へ合流していた。
「古い庭というのは?」
「今は塀だけが残る屋敷跡です。淡黄色の黄鈴花が、毎年この時季に咲きます」
記録係の女が答えた。別の職員も、木工長屋の印へ身を乗り出す。
「ここなら、今も何軒か木工職人が住んでいます。裏の排水溝へ木くずが落ちることもあるでしょう」
花びらと木くず。二つの井戸で見つけたものが、古い水路の上流で一つにつながった。
「水路がまだ開いているなら、花も木くずも、浅い流れに乗って井戸まで来る」
「声も、その水路の空気を通って届いた可能性があります」
紅緒の言葉に、高平が頷いた。
「では、声の主は水路のどこかにいる。問題は、入口と居場所です」
景真は古い絵図を覗き込み、水路沿いに描かれた小さな四角へ目を留めた。
「これは何ですか?」
「水門と、掃除のための点検口でしょう。ですが、造営後に塞がれたはずです」
「塞がれたはず、か」
高平はすぐに立ち上がり、戸口の職員へ指示を出した。
「現場へ向かう者を集めてください。私は館に残り、救助の手配を進めます」
*
古い絵図を手に、一行は水路の跡を北東からたどった。
屋敷跡の崩れた塀の内側には、記録どおり淡黄色の花が群れていた。散った花びらの一部は庭から流れ出した排水に運ばれ、石垣の下にある細い亀裂へ吸い込まれている。
そこから南西へ進むと、木工長屋の裏手で同じ亀裂が排水溝と交わっていた。水の中には、削りたての木くずが浮いている。
「二つとも、井戸で見たものと同じだ」
「古い水路が完全には埋まっていないことは、ほぼ間違いなさそうね」
紅緒は細長い札を亀裂の前へ垂らした。札の端が、風もないのに南西へわずかに揺れる。
「地下に空気の流れがあるわ。水面の上に、空洞が残っている」
絵図の線を追っていくと、乾物商の倉が並ぶ一角へ出た。藤吉の勤め先からは、二筋ほど離れている。
古い点検口が描かれていた場所には、壁へ寄せるように板や空箱が積まれていた。長く使われていない倉の裏で、人が立ち入る理由もなさそうに見える。
「この下ですか?」
若い衆員が板をどける。地面には石の蓋があったが、中央から大きく割れ、片側が土の中へ沈んでいた。
割れ目の脇には、土を引っかいたような新しい筋が何本も残っている。少し離れた場所から、鼻緒の切れた草履も見つかった。
「藤吉のものかもしれません。店の者を呼びます」
衆員が走り出す。
景真は割れ目の前へしゃがみ込み、耳を近づけた。地下からは水の流れる音と、何かが時折こすれるような音が聞こえる。
「藤吉!」
呼びかけても、返事はない。
「もっと大きな音を出してみて」
紅緒に言われ、景真は石の蓋を拳で三度叩いた。固い音が割れ目から地下へ落ちていく。
しばらくして、かすかな声が返った。
『……ここ、だ……!』
「いた!」
周囲の衆員たちが一斉に動く。石の蓋を持ち上げようとしたが、崩れた土と瓦礫が下から噛み込み、簡単には外れない。
「待って。無理に動かせば、下へ崩れるわ」
紅緒は膝をつき、割れ目へ札を差し込んだ。墨で書かれた文字が淡く光り、地面の下へ線のように広がっていく。
その顔がわずかに強張った。脇腹へ力が入ったのだろう。景真はすぐに気づいた。
「無理するなって言われただろ」
「支えるだけよ。持ち上げるのは御伽衆に任せる」
「それが無理してない人の顔か?」
「今は藤吉を見て」
言い返す声には、まだ余裕があった。景真はそれ以上止めず、割れ目へ向かって呼びかける。
「藤吉、聞こえるか! 今から助ける。石が落ちるかもしれないから、頭を守ってくれ!」
『わかっ……た……』
声は弱いが、確かに返ってきた。
紅緒の札が地中の瓦礫を押さえる間に、衆員たちは太い棒と縄を使って石蓋を少しずつ持ち上げた。開いた隙間から冷たい空気が吹き出し、湿った土と古い水の匂いが広がる。
下には、石組みの細い水路が続いていた。水は足首ほどの深さしかなく、その上には人が身を屈めて進める空間が残っている。
「声が潰れずに届いたのは、この空間があったからか」
「水路というより、長い筒ね」
紅緒は札を押さえたまま答えた。
*
縄を結んだ二人の衆員が水路へ降りた。
景真はほかの衆員たちと地上で縄を支え、紅緒は札で崩落を押さえながら、地下から届く声に耳を澄ませた。しばらくして、「見つけたぞ」という叫びが響いた。
藤吉は点検口から少し下流の場所で、崩れた石材の間に片脚を挟まれていた。意識はあったが、冷えと疲れで自力では立てない。
瓦礫を取り除き、板へ寝かせた藤吉が地上へ引き上げられる。青ざめた顔で何度も咳き込んだが、店から駆けつけた同僚を認めると、安心したように目を閉じた。
「命に別状はなさそうです。脚も、折れてはいないでしょう」
手当てのできる衆員が告げると、周囲から安堵の息が漏れた。
水を飲んで落ち着いた藤吉は、途切れ途切れに昨夜のことを話した。
店の使いを終えて戻る途中、近道をしようと倉の裏へ入った。長年の傷みで脆くなっていた古い石蓋が、藤吉が踏み込んだ拍子に割れ、そのまま地下へ落ちたという。
落ちた直後はまだ歩けたため、藤吉は明かりか出口を探して水路を進んだ。だが、少し下流で足元の石組みが崩れ、片脚を挟まれて動けなくなった。
「上に人がいるのは、分かったのか?」
「桶の音が……聞こえました。縄が石へ擦れる音と、桶が水面を打つ音がして。それで、井戸が近くにあると思って……」
藤吉は乾いた唇を動かした。
「叫んだら、向こうでも誰かが騒いでいた。でも、しばらくすると音が遠くなって……次は、違う方から桶の音がしたんです」
古い水路は、途中で現在の排水路と交わっていた。朝夕の排水調整では、いくつかの水門が順に開閉され、そのたびに水位と空気の流れる向きが変わる。そのため藤吉の声は、同じ道を通りながら、時間によって別の井戸へ強く届いていたのだ。
「だから、井戸を渡っていたように聞こえたのね」
紅緒が三つの井戸の方角を見た。
「井戸を渡ってたのは、人でも妖怪でもない」
景真は、地下から流れてくる浅い水へ目を落とした。淡黄色の花びらが一枚、木くずとともに揺れながら通り過ぎていく。
「声と水だったんだ」
藤吉は桶の音を聞くたびに助けを求めた。水門の操作で流れが変わるたび、声の出口だけが別の井戸へ移っていた。
怪異に見えたものは、古い水路と、助けを求め続けた一人の人間の声だった。
後の調査で、三つの井戸はいずれも石組みの一部が崩れ、古い水路の空洞へ通じていたことが分かった。
御伽衆へ戻る頃には、日は西へ傾き始めていた。
高平は救出の報告を最後まで聞くと、机の上へ一枚の記録を広げた。
「こちらでも、水門番の記録を確かめました。最初と二つ目の声が聞こえた直前には、異なる水門が順に操作されています。今朝の三つ目も、朝の水門操作の直後でした」
「声の移った時刻と、水門の切り替えが一致したんですね」
「ええ。水門の操作によって、声の出口が変わったと考えてよいでしょう」
高平は記録を閉じ、景真と紅緒へ向き直った。
「ご苦労さまでした。藤吉の勤め先の店主からも、礼の言伝が届いています」
「俺は、見えたものをつないだだけです」
「多くの者にも、同じものは見えていたでしょう」
高平は静かに言った。
「しかし私たちが怪異を探している間、あなたは助けを求めている人を探していた。その違いは、小さくありません」
景真は返事に困り、隣の紅緒を見る。
紅緒は否定せず、わずかに口元を緩めていた。
「紅緒まで、何だよ」
「別に。高平殿の言うとおりだと思っただけ」
「素直に褒められると、逆に落ち着かないな」
憎まれ口を叩きながら、景真の鼓動は僅かに速くなっていた。
紅緒の笑った顔を見るのは、思えばこれが初めてだった。研ぎ澄まされた刃のような表情ではなく、年相応の少女の微笑み。
「面倒な人ね」
景真の内心を知ってか知らずか、紅緒はそう言って苦笑した。
*
高平は机の上へ一枚の紙を置いた。
「東春殿。改めて、当面は御伽衆預かりとして、この館に滞在していただこうと思います」
「今日の件を解決したからですか?」
「いいえ。数日の寝床と食事は、初めから用意すると申し上げました。それと今日の働きは、別に評価します」
どこまでも分けて考えるらしい。
「滞在が長引く場合は、館の雑用を手伝っていただきます。掃除、荷運び、依頼札の整理。幽世の常識と決まりも覚えてもらわなければなりません」
「望むところです」
「結構。ただし、今日のような依頼へ出るかどうかは、その都度あなたの意思を確認します。武器も術もない方を、危険な現場へ無条件に出すことはできません」
「分かりました。よろしくお願いします」
景真が頭を下げると、高平も同じ深さで礼を返した。
「二階の端に、空いている部屋があります。衣服も明日までに用意させましょう。それまでは、その上着をお使いください」
景真は紅緒から借りた藍色の羽織を見下ろした。
「これ、返した方がいいか?」
「着るものが届いてからでいいわ」
紅緒は立ち上がった。窓の外では、夕暮れの光が館の屋根を赤く染めている。
「私は神社へ戻ります。結界を長く空けるわけにはいかないから」
「怪我してるんだから、帰ったら休めよ」
「あなたに言われなくても分かってる」
「本当に分かってる人は、さっき地面へ札を突っ込んだりしないだろ」
「あれは必要だったでしょう」
紅緒は少しだけ視線を逸らした。
館の入口まで見送りに出る。人通りの向こうには、夕焼けに沈む幽京の大路が続いていた。
「今日は、ありがとう」
景真が言うと、紅緒は足を止めた。
「あなたを幽世へ連れてきたのは私ではないけれど、見つけたのは私だから」
「だから?」
「帰る方法が分かるまでは、放っておくつもりはないわ」
ぶっきらぼうな言い方だったが、景真には十分だった。
「俺には関係ないって言ってなかったか?」
「あなたも、関係ないことにはしなかったでしょう」
紅緒はそう言い残し、大路の人波へ歩き出した。銀色の髪が夕陽を受け、しばらく遠くからでも見えていた。
景真は左手の腕時計へ目を落とす。針は相変わらず、午後五時五十六分で止まっている。
帰る方法は分からない。ここは家でもない。
それでも今夜、眠る場所だけはできた。
館へ戻ろうとしたとき、北門の方角から来たらしい番人が、慌ただしく広間へ入ってきた。
「三森総代。少し妙な報告がございます」
高平が書類から顔を上げる。
「何がありました」
「昨夜、北の外れで倒された蛇妖について、聞き回っている者がいるそうです。小柄で、ひどく身軽な者だったと」
「名は?」
「名乗らなかったそうです。ただ――」
番人は一度言葉を切った。
「父を倒した者を探している、と」
館の外では、酉の刻を告げる鐘が鳴り始めていた。




