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第三話「蛇姫の影」①

 夜明け前の森には、一昨夜の戦いの跡が残っていた。

 幹を抉られた木。長く巨大なものが土の上を滑った痕。霊矢が通った場所には、白く焼けた筋が走っている。蛇妖の巨体が横たわっていたはずの地面には、灰色の塵が薄く積もっていた。

 その中央に、一人の少女がしゃがみ込んでいた。

 御陵ごりょう深影みかげは、指先で塵へ触れた。粉は朝露を吸い、皮膚へ黒く張りついた。払い落とそうともせず、今度は地面へ残る細い傷をなぞる。

 黒髪が肩から滑り、頬の横へ垂れた。顔立ちはまだ少女らしいのに、真っ黒な瞳には朝の光さえ映さず闇そのものに見える。

「父さま」

 呼びかけに答えるものはなかった。

 深影は立ち上がり、近くの木へ手を置いた。樹皮には、鋭い何かが貫いた跡がある。穴の周囲へ残る霊気を確かめるように、わずかに首を傾げた。

「これで、倒したんだ」

 悲しんでいるのか、怒っているのか。その声からは、どちらも読み取れなかった。

 昨日から、深影は父を倒した者について、同じ問いを何人もの妖へ繰り返していた。だが、大した情報は得られずにいた。

 背後の茂みが揺れた。小さな角を持つ年老いた妖が、木々の間から恐る恐る姿を現す。一昨夜、陰陽寮の増援が来るより前に、深影を見かけた者だった。

「御陵の娘か。まだここにいたのか」

「父さまを倒した人を知ってる?」

 挨拶もなく尋ねられ、老いた妖は少し面食らう。だが、僅かな間を置いて、静かに答えた。

「……ああ、知っている」

 深影の眉が、ほんのわずかに動いた。

「誰?」

「銀の髪をした巫女だ。陰陽寮の者らしい。もう一人、妙な服を着た人間の小僧も一緒だった」

「人間?」

「御尊父の前へ飛び出したのに、何故か無事だった。詳しいことは分からん」

 深影は、塵の付いた指先を見た。

「その二人、どこにいるの?」

「巫女は結界神社の守り手だ。人間の方は知らん。だが、御伽衆が引き取ったという話もある」

「そう」

 深影は森の外へ向かって歩き出した。

「待て。見つけて、どうするつもりだ」

 問いかけに、深影は足だけを止めた。振り返った真っ黒な瞳を見て、老いた妖が一歩下がる。

「確かめることがあるの」

「何をだ」

「会えば分かるよ」

 それだけ言うと、深影は再び歩き始めた。

「二人とも見つける。見つけたら、逃がさない」

 朝靄の向こうに、幽京の屋根がかすんでいた。


   *


 その日の朝、景真は先程渡された御伽衆の衣に着替え、依頼札の山と向き合っていた。

 二日前までは学校の机で教科書を開いていたはずなのに、今は「逃げた一つ目小僧」「夜ごと屋根を叩く何か」「嫁入り前の娘に取り憑いた狐」といった札を、内容ごとに分けている。文字は読めても、判断の基準が分からない。

「これは探し人でいいんですか?」

 景真が掲げた札には、「酒を飲むと消える夫を探してほしい」と書かれていた。

「まずは奥方に確認するこった。探し人じゃなく、失せ物になっちまうかもね」

 古株の受付である八重やえが、書類から顔を上げずに答えた。白髪の混じった髪をきっちりとまとめ、次々と訪れる依頼人を、短い言葉だけで捌いている。

「失せ物、ですか」

「夫は嫁の所有物なのさ」

「世知辛い……」

 景真が札を別の束へ置いたところで、館の入口から怒鳴り声が響いた。

「総代を出してくれ! 昨夜、北の道で荷を奪われた!」

 埃まみれの商人が、二人の職員に支えられて広間へ入ってくる。片袖が破れ、額には浅い傷があった。

「落ち着きな。何があったんだい」

 八重が立ち上がる。商人は卓へ両手をつき、荒い息のまま言った。

「蛇の連中だ。『蛇姫の命だ』と言って、干し肉も米も持っていきやがった。逆らうなら、次は店を潰すと」

 広間のざわめきが一段大きくなった。

「蛇姫、とは?」

「一昨夜倒された大蛇の娘だよ! 父親の仇を探して、仲間を集めてるって話じゃないか!」

 景真の手が止まった。

 昨夜、高平へ届いた報告を思い出す。父を倒した者を探している、小柄で身軽な者。

 商人の後ろから、今度は鼠に似た顔の小妖が飛び込んできた。

「違う! 深影さまは、そんなことしてない!」

「何だと?」

「あの方はお父上を倒した巫女を探しているだけだ。お前たちの荷なんか要らない!」

「こっちには証拠があるんだよ!」

 商人と小妖が、卓を挟んで睨み合う。八重が間へ紙の束を差し込み、二人の顔を遠ざけた。

「喧嘩をするなら外で。訴えを聞いてほしいんなら、一人ずつ話しな」

 低い声に押され、二人は渋々口を閉じた。

 騒ぎを聞きつけた高平が奥から現れる。その後ろには、景真へ貸していた藍色の羽織を受け取りに来た紅緒もいた。景真の姿を見て一度だけ頷き、すぐ商人へ視線を移す。

「襲った者の姿は見ましたか。証拠がある、と仰いましたが」

 高平に尋ねられ、商人は首を振った。

「頭巾をかぶっていた。だが、腕や首に蛇の鱗が見えた。荷車にも、こんな印を残していった。十分証拠になるだろ」

 商人が差し出した板切れには、黒い塗料で蛇のような曲線が描かれていた。歪んだ輪の中央を、一本の縦線が貫いている。

 紅緒が板を受け取り、目を細める。

「御陵家の印なの?」

「違う!」

 小妖がすぐに否定した。

「大旦那さまも深影さまも、こんな印は使わない。誰かが勝手に――」

「なら、その深影とやら本人が否定するなり弁明するなりするはずだろ」

 商人の言葉に、小妖は詰まった。

「それは……」

「ほら見ろ」

 紅緒は板切れを見つめたまま、何も言わなかった。

 景真はその横顔を見る。自分が蛇妖を射たことも、その娘が父を倒した相手を探していることも、紅緒はもう理解している。

「もう一つ、報告だよ」

 八重が、許可を待つこともなく別の紙を高平へ差し出した。

「北外縁の数か所で、妖たちが紅緒ちゃんの居場所を聞いて回ってるみたいだ。見慣れない衣を着た人間の少年についても」

 広間にいる者たちの視線が、紅緒から景真へ移った。

「俺も?」

「あなたも、あの場にいたでしょう」

 紅緒の答えは冷静だったが、右手は無意識に腰の札袋へ触れていた。

「それも蛇の娘の差し金じゃないのか?」

 商人が吐き捨てるように言う。即座に反論しようとした小妖を、高平が手で制した。

「お待ちなさい。現時点で、御陵深影本人が襲撃を命じた確証はありません。先程の印も、証拠と呼ぶには弱いでしょう。しかし、無関係と決める材料もない」

「では、どうするんですか」

「まずは、話を分けて聞きます。噂と事実を同じ卓へ載せれば、どちらも見えなくなりますから」

 その言葉とは裏腹に、館の外ではすでに「蛇姫」という名が広がり始めていた。


   *


 昼を過ぎる頃、深影は北外縁の小さな市へ姿を現した。

 幽京の大路ほど整っていない通りには、人間の商人よりも妖の店が多い。軒先へ薬草を吊るした店、獣の骨を削った道具を並べる露店、湯気の代わりに青い煙を上げる食堂。

 深影が通りを歩くだけで、店先の会話が次々と止まった。

 父とよく似た妖気。光を返さない闇色の瞳。そして、亡くなった蛇妖の娘だという噂。

 最初に近づいてきたのは、朝に御伽館へ駆け込んだものとは別の、小柄な妖だった。背中を丸め、深影へ何度も頭を下げる。

「深影さま。私どものもとへお戻りくださったのですね」

「戻った?」

「大旦那さまがお亡くなりになってから、あの者たちがまた場所代を取り始めました。でも、深影さまがいらっしゃるなら、もう安心です」

 深影は、自分を囲み始めた妖たちを見回した。

「どうして安心なの?」

「どうして、と言われましても……深影さまが、私どもを守ってくださるのでしょう?」

「わたしは父さまじゃないよ」

 あまりに平坦な返事に、小妖の笑顔がわずかに固まった。

「ですが、大旦那さまの娘で――」

 深影はその期待を肯定も否定もせず、通りの先へ真っ黒な瞳を向けた。

「銀色の髪の巫女を知らない?」

 唐突に変わった問いへ、小妖たちは一斉に顔を上げた。

「結界神社の大月紅緒です。一昨夜、大旦那さまを討った巫女だと」

「どこにいるの?」

「すぐにお調べします」

「妙な衣を着た人間も一緒だったと聞いたよ」

「そちらも必ず」

 深影は頷いた。

「見つけたら、教えて」

 それだけの言葉で、小妖たちは命令を受けたように散っていった。

 入れ替わるように、通りの奥から三人の妖が現れた。いずれも体格がよく、腕や頬に古い傷がある。先頭の男は、小妖たちの背中を見送り、鼻で笑った。

「父親が死んだ途端、娘を旗にするとは。弱い連中は変わり身が早いな」

 深影は男を見た。

「あなた、父さまを知ってる?」

「知っているとも。ずいぶん邪魔をされた」

「巫女のことは?」

「俺たちに聞く態度か、それが」

 男が深影の肩へ手を伸ばす。その直前、先ほどの小妖の一人が戻り、二人の間へ割って入った。

「深影さまへ触れるな!」

 男は小妖を片手で払いのけた。小さな身体が露店の箱へぶつかり、乾いた音を立てる。

 次の瞬間、男の腕が不自然な方向へねじれていた。

「――がっ!」

 深影はいつ男の懐へ入ったのか。背後から肘と肩を固定し、ほんの少し身体を沈めただけだった。鈍い音とともに、男の肩が外れる。

 悲鳴が市へ響いた。残る二人が動こうとしたが、深影の足元から伸びた黒い影が蛇の形になり、素早い動きで二人の首へ巻きついた。蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。

「その子に聞いてる途中だったの」

 深影は倒れた男を見下ろした。

「どうして邪魔したの?」

「お、俺の腕……!」

「外れただけだよ。戻せば使える」

 深影は男の外れた肩ではなく、答えを待つようにその顔を覗き込んだ。

 しかし、男が話そうとしていないことを感じ取ると、深影はあっさりと腕を放した。男は肩を押さえ、仲間に支えられながら後ずさる。

「覚えていろ。父親の代わりになれると思うなよ」

「ならないよ」

 深影は即座に答えた。

「父さまを倒した人を探してるだけ」

 男たちは返事をせず、通りの奥へ消えていった。

 箱へぶつかった小妖が起き上がり、深影を見上げる。その目には、恐れよりも強い歓喜が浮かんでいた。

「深影さまが、私どものために……!」

「違うよ」

「必ず、仇の居場所を見つけます」

 深影は少し首を傾げたが、もう否定しなかった。

 市を離れる少女の背中へ、妖たちが次々と頭を下げる。

 その日のうちに、噂は形を変えた。

 蛇妖の娘が帰ってきた。父に従っていた者たちを集め、逆らう者の腕を折った。次は、父を倒した銀髪の巫女を狙っている――。


   *


 その日の夕刻、朝の訴えから半日も経たないうちに、北の道で二件目の襲撃が起きた。北外縁から幽京へ向かう荷車が、林の間の細い道を進んでいた。

 荷台には米俵と干し魚、薬草を詰めた箱が積まれている。御者台には商人が座り、その隣には若い荷運び人が乗っていた。二人は朝から広がる蛇姫の噂を気にしながらも、日暮れ前に北門へ着こうと牛を急かした。

 道の前へ、黒い布で顔を隠した者たちが現れた。

 一人ではない。木々の間から次々と姿を見せ、荷車の前後を塞ぐ。袖口や首元から覗く皮膚には、鱗のようなものが見えた。

「荷を置いていけ」

「何者だ」

「蛇姫の命だ」

 商人の顔から血の気が引いた。

「御陵の娘か……」

「父の仇を差し出すまで、北の道は通さない」

 商人が手綱を引き、荷車を後ろへ向けようとする。だが背後の者が棒で車輪を打ち、牛が暴れた。荷台が傾き、米俵が道へ転がり落ちる。

 混乱の中、若い荷運び人だけが林へ飛び込み、枝をかき分けて逃げた。

 背後からいくつもの怒鳴り声が追ってくる。

「銀髪の巫女を出せ!」

「大月紅緒を差し出せば、道は開けてやる!」

 男は振り返らず走り続けた。


 薄暗くなった頃、御伽館の戸が激しく叩かれた。

 景真と紅緒は、広間の奥で朝から集まった証言を聞き直していた。卓の上には、蛇の印が残された板切れと、被害を書き留めた紙が並んでいる。

 戸が開き、泥と血に汚れた若者が転がり込んできた。

「助けてください! 北の道で、荷車が……!」

 高平がすぐに立ち上がる。

「襲った者は、何と名乗りました」

「蛇姫の命だと。父親の仇を差し出すまで、道を通さないと……」

 若者は息を整えながら、紅緒の銀髪を見た。

「銀色の髪の巫女を渡せと言っていました」

 広間の空気が凍りついた。

 紅緒は静かに立ち上がった。脇腹が痛んだのか、一瞬だけ呼吸が止まる。それでも表情を変えず、腰の刀へ手を置いた。

「御陵深影が私を探しているのは、間違いなさそうね」

 景真は卓上の蛇印を見た。

 深影が紅緒を探している最中に、その名を掲げた者たちが紅緒を差し出せと道を襲った。偶然で片づけるには、出来すぎている。普通に考えれば、深影の差し金だ。

「三森総代」

 紅緒が高平へ向き直る。

「御陵深影を探します」

 高平はすぐには頷かなかった。負傷した若者と、積み上がった報告書を見比べる。

「探すべき相手が、彼女本人とは限りません」

「ですが、本人に確かめなければ始まりません」

 景真も立ち上がった。

「俺も行きます」

「景真」

「一昨夜のことを確かめたいなら、あの場にいた俺にも話せることがあります。それに――」

 景真の脳裏に、蛇妖の最期がフラッシュバックした。

「たぶん俺は、御陵深影に会わないといけない。それに、紅緒一人に任せて、あとで後悔するよりはいい」

 高平の片眼鏡の奥で、目がわずかに細くなった。

「……いいでしょう。ただし、御伽衆の衆員を同行させます。東春殿は証言と現場の確認に徹し、戦闘の兆候があれば、大月殿か衆員の指示に従って退いてください」

「大月殿もまだ負傷中です。深影本人を見つけても、単独で交戦しないこと。それが条件です」

「今から出れば、相手の望みどおりになりかねません。北門の番へ事情を伝え、今夜は荷を止めてもらいます。御伽衆からも北の道へ人を出しましょう。現場の確認は明朝です」

 紅緒は不満そうだったが、負傷者と夜道を見て反論を飲み込んだ。

 館の外では、北の道を通れなくなった商人たちの声が増え始めている。

 一人の蛇妖が父を倒した者を探し始めたことで、噂は人を動かし、恐れは妖を動かし、とうとう幽京へ続く道まで止めようとしていた。

 そして、そのすべての中心にいると考えられた少女は、銀髪の巫女と、見慣れない人間を探して、夜の北外縁を歩いていた。

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