第三話「蛇姫の影」②
夜が明けきる前から、御伽館の表は落ち着かなかった。
北門の手前には、足止めされた荷車が列を作っている。米、干し魚、薬草、薪。幽京へ運ばれるはずだった荷が行き場を失い、商人たちの苛立った声が薄明の空へ重なっていた。
景真は、今朝御伽館で渡された衣の袖を引きながら、その列を眺めた。現世の制服より動きやすいが、腰紐の締め方にはまだ慣れない。
「似合っていないわけではないけれど、着られている感じがするわね」
隣を歩く紅緒が言った。景真は自分の袖を見下ろしてから、紅緒の横顔を見た。
「朝一番に言うことがそれかよ」
「感想を求めている顔だったから」
「求めてない」
言い返しながら、景真は紅緒の歩調がいつもよりわずかに遅いことへ気づいた。本人は平然としているが、脇腹の傷はまだ残っている。
高平が約束どおり、御伽衆の衆員を二人同行させていた。先を歩く男は北門の番と話し、もう一人は荷を止められた商人たちから名前と行き先を聞き取っている。
「昨夜の襲撃場所は、ここから半刻ほど北です」
高平から渡された略図を確かめながら、衆員の男が言った。
「最初の襲撃はさらに北。昨日の明け方に起きています。どちらも蛇姫の名を出し、大月殿を差し出すよう要求したとのことです」
「深影本人を見た者は?」
紅緒が尋ねる。
「今のところ一人も。頭巾の者たちが、命令を受けたと名乗っただけです」
北門を抜けると、整えられた道はすぐに土へ変わった。朝露を含んだ轍が林の奥へ続き、脇には昨日転がり落ちた米粒が泥へ張りついている。
襲われた荷車は、片方の車輪を割られたまま道端へ寄せられていた。近くの木には、黒い塗料で蛇の印が描かれている。
景真はしゃがみ込み、印を下から見上げた。歪んだ輪の中央を縦線が貫いている。御伽館へ持ち込まれた板切れと、同じ印に見えた。
「触らないで」
紅緒が景真の手首をつかんだ。
「呪いが仕込まれている可能性があるわ」
「触ってないだろ」
「触ろうとしていたでしょう」
紅緒は札を一枚かざし、印の周囲を調べた。札は反応しない。妖気も術の痕跡も残っていなかった。
「ただの塗料ね」
「わざわざ印を残したのに、術は使ってないのか」
「名を知らせること自体が目的なら、術は必要ないわ」
それはもっともだった。それでも景真は、黒い線の端を見つめた。輪の下から伸びた尾が、板切れの印とは反対側へ曲がっている。
「これ、昨日の板と同じですか?」
景真の問いに、衆員が板切れを取り出した。並べればよく似ている。だが、同じではなかった。
「描いた奴が違えば、多少は変わるでしょう」
「そうかもしれません」
景真は答えながら、違いを紙へ書き留めた。まだ、それが何を意味するのかは分からなかった。
*
襲撃場所を離れた一行は、深影が前日に姿を見せた北外縁の市へ向かった。
昨日まで軒を並べていた露店の半分は、戸板を下ろしている。道の端には割れた木箱が残り、その前で小柄な妖たちが声を潜めていた。
紅緒が近づくと、彼らの表情が固まる。銀色の髪を見て、数人が店の奥へ隠れた。
「大月紅緒です。昨日ここへ来た御陵深影について、話を聞かせてください」
名乗った途端、鼠に似た顔の小妖が紅緒の前へ進み出た。前日に御伽館で深影の無実を訴えていた妖だった。
「深影さまを捕らえに来たのか」
「事実を確かめに来ました。彼女があなたたちへ、商人を襲うよう命じたの?」
「そんな命令は受けていない!」
小妖は即座に否定した。だが、その後ろから別の妖が口を挟む。
「深影さまは、銀髪の巫女と妙な衣の人間を探せと仰った」
視線が景真へ向いた。
「俺のことも?」
「おそらく。二人を見つけたら知らせろ、と」
「深影本人が、“探せ”と命じたの?」
「……見つけたら教えてほしい、と」
「あなたたちは、それを命令として受け取ったのね」
紅緒の声は静かだった。小妖たちは答えに詰まる。
「深影さまは父君の跡を継がれる。私どもは、そう思っただけだ」
「本人は、そう言ったの?」
「言葉にはなさらなかった。だが、我らを侮った地廻りの肩を、深影さまは一瞬で外した」
その場を見ていた者たちは、口々に昨日の様子を語った。深影は自分を侮った男を倒し、影の蛇で仲間を動けなくした。倒された男は、父親の代わりになるなと吐き捨てた。深影は父を倒した者を探していると答えた。
それだけを並べれば、父の縄張りを継ぎ、逆らう者を力で押さえたようにしか聞こえない。
「その地廻りの妖は、どこにいる?」
御伽衆の衆員が尋ねた。
「仲間に連れられて帰った。西外れの古い倉に出入りしている連中だ」
一行は市の西へ向かった。古い倉の前には、肩を布で吊った男が座っていた。深影に関節を外された妖である。
紅緒を見るなり、男は唇を歪めた。
「ようやく来たか。あの蛇娘を野放しにした報いだ」
「深影は、あなたに何を命じたの?」
「命令なんざ聞く前に腕をやられた。あいつの手下が俺を侮辱しやがったから、少し黙らせようとしただけだ」
「小さな妖を投げ飛ばしたと聞きました」
「先に割って入ったのは向こうだ」
男は悪びれずに答えた。
「蛇娘は、巫女と、その場にいた人間のことを聞いてきた。二人とも探して、逃がさないと言っていたそうじゃないか。仇討ちでなければ何だ」
「荷車を襲った者について、心当たりは?」
「あるわけがない。俺たちまで蛇娘の仲間だと疑われて、迷惑してるんだ」
景真は男の後ろにある倉を見た。戸は閉じられているが、隙間から黒い布の端が覗いている。昨日の襲撃者が顔へ巻いていたものと、似た布だった。
ただ、北外縁では荷を覆うためにも使われるありふれた布である。疑うには弱い。
「腕を外されたのは、何時頃ですか?」
「昼を少し回った頃だ」
「二件目の荷車が襲われたのは夕方。ここから襲撃場所までは?」
「急げば半刻もかからん」
男は鼻で笑った。
「蛇みたいな身体なら、もっと早いだろうな」
深影が襲撃場所へ向かうことも、仲間へ指示を出すことも可能だった。少なくとも、時刻だけでは無関係だと証明できない。
市へ戻る途中、紅緒が景真へ小声で尋ねた。
「何か気になるの?」
「気になることはある。でも、どれも決め手にならない」
「それなら、決め手になるまで集めるしかないわね」
紅緒は前を向いた。その横顔には、深影への警戒と、早く真相を確かめたい焦りの両方が浮かんでいた。
*
昼を過ぎる頃、北門へ戻った一行を、見慣れない装束の役人たちが待っていた。
白と黒を基調とした衣の胸元には、糾察司の印がある。先頭の役人は高平からの書状を確かめると、紅緒へ鋭い視線を向けた。
「大月紅緒殿。蛇妖の娘が、あなたを名指ししているとのことだ」
「本人から名指しされたわけではありません」
「だが、すでに二件の襲撃が起き、北の物流が止まっている。市中では妖の集団が動いているという訴えも出た」
「集団を率いている証拠は、まだありません」
「証拠が揃うまで被害が増えては困る」
役人は淡々と告げた。
「本日中に事態が収まらなければ、糾察司は御陵深影の捕縛に向けて動く。抵抗が予想される以上、陰陽寮へも退魔方の派遣を求めることになる」
周囲で話を聞いていた妖たちがざわめいた。深影を捕らえるという名目で役人と退魔方が北外縁へ入れば、彼女を支持する小妖たちも黙ってはいない。
「深影本人の犯行でなかった場合は?」
景真が口を挟む。役人の視線が、値踏みするように景真へ移った。
「誰だ」
「東春景真。御伽衆預かりの方です」
紅緒が先に答えた。
「犯人でないなら、調べに応じればよい。逃げ、抵抗するなら、それ自体が捕縛の理由になる」
「御陵深影が、そんな説明を理解して大人しく従うと思いますか」
「理解させるのは我々の役目ではない」
冷たい返答だった。だが、役人の立場からすれば間違ってはいない。
そのとき、空から白い紙鳥が舞い降りた。紅緒が右手を差し出すと、鳥は指先へ留まり、小夜の声を発した。
『紅緒さん。景真さんも一緒ですね』
「はい。糾察司からも、今夜までだと言われたところです」
『こちらにも正式な照会が届きました。退魔方には出動準備が命じられています。ただし、陰陽頭――宗心様は、退魔方へ出動準備だけを命じています。現時点では、退魔方による捕縛も討伐も許可していません』
紙鳥から聞こえる小夜の声は穏やかだったが、その言葉には余裕がなかった。
『証拠のない妖を、噂だけで討つことはできない。宗心様はそう判断されています。ただ、道が止まり続ければ、その判断も変わります』
「いつまでですか」
『日が沈むまで。その時点で新たな被害が出ていれば、糾察司と退魔方が本格的に動きます』
紅緒の指がわずかに紙鳥を握り込んだ。
『それから、紅緒さん』
「何でしょう」
『あなたは当事者です。深影さんを見つけても、一人で決着をつけようとしないように』
「そのつもりはありません」
『あなたがそう答えるときは、たいてい半分ほどしか信用できません』
「小夜様」
『景真さん。止めてくださいね』
「俺に振るんですか?」
『紅緒さんよりは、あなたの方が無茶を止める側に見えますので』
紙鳥はそこで声を失い、ただの折り紙へ戻った。
景真は紅緒を見る。紅緒は何事もなかったように紙鳥を懐へしまった。
「今の話、半分しか信用されてないらしいぞ」
「余計なところだけ聞かないで」
軽いやり取りとは裏腹に、残された時間は少なかった。日が傾けば、朝廷の組織が深影を捕らえるため北外縁へ入る。
その前に、深影が首謀者なのかを確かめなければならない。
*
御伽館へ戻ると、八重が朝から届いた訴えを時間順に並べていた。卓の上には、被害者の証言、襲撃場所の略図、蛇の印を写した紙が広げられている。
「遅かったね。留守の間にも、三件増えたよ」
「また襲撃が?」
「いや。深影って娘を見た、手下に誘われた、あの娘が人を殺した。どれも話が大きい割に、本人を見た者はいない」
八重は一枚の紙を指で弾いた。
「殺されたって男なら、昼過ぎに自分で酒場へ来たそうだ」
「噂の方が、本人よりよく動いてるな」
景真は椅子へ腰を下ろし、集めた情報を一つずつ並べた。
最初の襲撃。昨日の明け方。蛇姫の命だと名乗り、荷を奪った。
二件目。昨日の夕刻。紅緒を差し出すまで道を通さないと告げた。
深影が市へ現れたのは昨日の昼。小妖たちに紅緒と景真を探させた。地廻りの男の肩を外した。
現場の蛇印はよく似ているが、線の向きや形が少しずつ違う。術も妖気も残されていない。
そして、深影から襲撃を命じられた者は一人もいない。
「御陵深影が直接手を下さず、手下へ任せているだけでは?」
紅緒が景真の向かいへ座る。
「俺も最初はそう思った」
「今は違うの?」
景真は、八重が書き取った証言を読み返した。
「襲った奴らは、紅緒を出せと言ってる」
「私が父親を倒したと思っているなら、不自然ではないわ」
「でも、深影は俺のことも探してる」
紅緒の目がわずかに細くなった。
「父親が倒されたときのことを確かめたいなら、あの場にいた二人を探す。深影本人はそうしてる。でも、襲撃者は一度も俺の名前も特徴も出してない」
景真は、二件分の証言を指で示した。
「紅緒だけを差し出せば道を開けると言った。俺を探してる様子はない」
「深影が、あなたを後回しにした可能性は?」
「ある。でも、それなら最初から“父の仇”だけを探せばいい。わざわざ俺まで捜させる理由が分からない」
景真は次に、二つの蛇印を並べた。
「顔を隠してるのに、鱗だけは見せてる。深影の印でもないのに、蛇だと分かる印を残してる。こいつらは正体を隠したいんじゃない。深影の仕業だと思わせたいんだ」
八重が腕を組む。
「つまり、蛇姫の名を騙ってる奴がいる、と」
「たぶん。深影は騒ぎの中心にいる。でも、少なくとも荷車を襲わせたのは、別の奴かもしれない」
「では、襲撃者の目的は何でしょう」
高平が奥から現れた。いつから聞いていたのか、片眼鏡の奥の目が卓上の略図へ向いている。
景真は紅緒の名が書かれた証言を見た。
「紅緒を外へ引っ張り出すことです」
「誰のために?」
「深影のため――じゃない」
口にしてから、景真は考え直した。
「深影と紅緒を会わせたい奴がいる。二人が戦うと思ってるんだ」
紅緒は否定しなかった。深影が父を倒した者を探し、逃がさないと言っている以上、遭遇すれば戦いになる可能性は高い。
「共倒れを狙っている、ということですか」
高平の問いに、景真は首を振った。
「そこまでは分かりません。深影を援護する可能性もあります。ただ、深影の名前で紅緒を呼び出そうとしてるのは間違いないと思います」
深影が事件を命じていない可能性は高くなった。
それでも、紅緒への復讐を望んでいない証拠はどこにもない。むしろ、父を倒した相手を執拗に探している事実だけは、少しも揺らいでいなかった。
「深影本人を見つけない限り、終わらないわね」
紅緒が立ち上がる。
「ええ。そして、こちらが彼女を捜していることは、相手にも伝わっているはずです」
高平は略図へ視線を落とした。
「こちらが調べ始めたと知れば、向こうも次の手を打ってくるでしょう」
その言葉が終わるより早く、御伽館の外で誰かが走る足音がした。
戸が開き、息を切らした小妖が一枚の紙を握って飛び込んでくる。
「古い荷場に、蛇姫が仲間を集めている!」
紙には、黒い蛇の印とともに、短い文が記されていた。
――日暮れ、北の古荷場にて、父の仇を討つ。大月紅緒へ。
紅緒の目が、紙の上の自分の名で止まった。




