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第三話「蛇姫の影」③

 決闘状が届いてから、御伽館を出るまでに四半刻もかからなかった。

 高平は古い荷場の位置を確かめると、奥にいた職員を北門と糾察司への伝達へ走らせた。それから、朝から同行していた衆員二人へ短く指示を出した。

「お二人は大月殿たちに同行を。一人は周囲の警戒を、もう一人は荷場へ近づく者の退避を優先してください。戦いが始まっても、無関係な者を加わらせないこと」

「三森総代は?」

 景真が尋ねる。

「私は御伽館に残ります。別の場所で騒ぎが起きる可能性もありますし、糾察司と陰陽寮へ正式な報告を出さなければなりません」

 高平は紅緒へ視線を向けた。

「罠である可能性は高いです。それでも行かれますか」

「行きます。御陵深影本人が来る保証はありませんが、私を呼び出している以上、放ってはおけません」

「分かりました。ただし、先ほど申し上げた条件は変わりません。単独で交戦しないこと。東春殿も、戦いが始まれば衆員の指示に従って退いてください」

「分かってます」

 景真は答えたが、高平の片眼鏡の奥の目は、あまり信用していないように見えた。

 御伽館を出ると、日はすでに西へ傾き始めていた。古い荷場は北外縁のさらに西、かつて幽京へ運ぶ木材や穀物を積み替えていた場所にあるという。新しい街道が整備されてからは使われなくなり、倉や荷揚げ台だけが放置されていた。

 北門を抜け、林を横切る脇道へ入る。紅緒は先頭を歩き、景真と衆員がその後へ続いた。

「さっきの手紙、本当に深影が書いたと思うか?」

「筆跡を知らない以上、断定はできないわ」

「でも、“父の仇を討つ”なんて、本人が今まで一度も言ってない言葉だ」

「だからこそ、本人へ確かめるのよ」

 紅緒の声は落ち着いていた。ただ、左手は腰の刀から離れない。

 道の先から、低いざわめきが聞こえてきた。

 林を抜けると、傾いた木造の倉がいくつも並ぶ空き地へ出た。中央には朽ちた荷揚げ台があり、滑車の外れた柱が夕空へ突き出している。積み残された木箱と空の樽が、あちこちへ転がっていた。

 荷場には、すでに十人近い小妖が集まっていた。市で深影を父の後継者と考えていた者たちである。鼠顔の妖も、その中にいた。

 紅緒の銀髪を認めると、ざわめきが一斉に止まった。

「大月紅緒……」

「本当に来た」

「深影さまが、仇を討たれるんだ」

 期待と恐れの混じった視線が、紅緒へ集まる。

「誰に呼ばれて来たの?」

 紅緒が尋ねると、鼠顔の妖が紙を差し出した。御伽館へ届いたものと同じ蛇の印があり、文面もほぼ同じだった。ただし末尾には、「皆で見届けよ」と一文が加えられている。

「朝から、北外縁のあちこちへ回っていました。深影さまが、ここで父君の仇を討たれると」

「深影本人から受け取ったの?」

「いえ。店の戸へ挟まれていました」

 別の小妖も頷く。

「私のところにも、同じ紙が挟まれていました」

 景真は周囲を見回した。決闘の場所を知らせるだけなら、これほど大勢へ紙を配る必要はない。誰かが、深影と紅緒が戦うところを多くの妖へ見せたがっている。

「ここにいたら危険よ。今すぐ荷場を離れて」

 紅緒が命じると、小妖たちは互いの顔を見た。

「ですが、深影さまが――」

「その深影が、この紙を書いた証拠はないわ」

 紅緒の言葉が終わったとき、朽ちた倉の屋根から小石が落ちた。

 全員が上を向く。

 夕日を背に、一人の少女が屋根の端へ立っていた。黒髪が風に流れ、真っ黒な瞳が、まっすぐ紅緒を見下ろしている。

「見つけた」

 御陵深影は屋根から音もなく飛び降りた。高い場所から落ちたはずなのに、膝を深く曲げることもなく、地面へ柔らかく着地する。

 そして紅緒の後ろにいる景真へ視線を移した。

「人間も、一緒だね」

「この手紙は、あなたが書いたの?」

 紅緒が紙を掲げる。

 深影は一度だけ見て、首を傾げた。

「知らない」

「では、なぜここへ?」

「大月紅緒が来るって聞いたから」

 景真を確かめたのは一瞬で、真っ黒な瞳はすぐに紅緒へ据えられた。


   *


 紅緒は刀の柄へ手を掛けたまま、深影との距離を測った。

「荷車を襲い、私を差し出すよう命じたのも、あなたではないのね」

「荷車?」

「あなたの名を使って、二度も北の道が襲われた」

 深影は小妖たちを見回した。誰かに事情を尋ねるでもなく、すぐ紅緒へ視線を戻す。

「知らないよ」

「あなたの言葉だけでは、信用できないわ」

「そう」

 疑われていることにも、深影は腹を立てなかった。

「あなたが、父さまを倒したの?」

 紅緒の表情がわずかに硬くなる。

「そうよ」

「一人で?」

「最後に矢を放ったのは私。でも、景真がいなければ、お父上を止められなかった」

 深影の視線が、紅緒から景真へ移る。

「やっぱり、二人なんだ」

「お父上の仇を討つつもり?」

 紅緒が尋ねる。荷場に集まった小妖たちも、息を止めて答えを待った。

 深影は、少しだけ首を傾げた。

「話は、戦ってからでいいよ」

 次の瞬間、深影の姿が紅緒の前から消えた。

「紅緒!」

 景真が叫ぶより早く、紅緒は刀を抜いていた。

 深影の手には武器がない。それでも指先は紅緒の刀身へ触れる寸前まで迫り、手首を外側から押して刃の軌道を逸らしていた。反対の手が紅緒の肘へ絡み、関節を逆へ折ろうとする。

 紅緒は腕を引き、深影の腹へ蹴りを放った。

 当たると思った瞬間、深影の上体があり得ない角度まで後ろへ反った。蹴りが鼻先をかすめる。深影は倒れない。足を地面へ残したまま、背中が触れそうなほど身体を曲げ、その反動で紅緒の懐へ戻った。

「何、その身体……」

「蛇だから」

 深影は当たり前のように答えた。

 紅緒の刀が横へ薙がれる。深影は首だけを傾け、髪を数本切らせながら刃を避けた。続く切り返しには、足元の影から黒い蛇が伸びる。

 影蛇が紅緒の足首へ絡みついた。

 紅緒は札を投げ、短い火花で影を散らす。その隙に距離を取ろうとしたが、脇腹へ痛みが走ったのか、足がわずかに鈍った。

 深影は見逃さなかった。

 細い指が、紅緒の傷のある脇腹へ向かう。紅緒は刀の鞘で受け止めたが、衝撃で表情を歪めた。

「そこ、痛いんでしょう?」

「だから何?」

「痛いところなら、早く動けなくなるよ」

「ずいぶん合理的ね」

「違うの?」

 深影には、卑怯だと責められる理由が本当に分からないらしい。

 紅緒は刀を鞘へ戻し、左手を横へ伸ばした。淡い光が集まり、身長ほどもある和弓の形を取る。右手には、巫力で編まれた光の矢が現れた。

 深影の真っ黒な瞳が、初めてわずかに見開かれた。

「それ」

「何?」

「父さまを倒したのは、その弓でしょう?」

 紅緒は答えず、弦を引いた。

 霊矢が放たれる。

 光が荷場を一直線に裂いた。深影は横へ跳ぶのではなく、上体を矢をいなすように捻った。矢は胸元をかすめ、背後の木箱を砕く。

 深影の足元から二匹の影蛇が走る。紅緒は次の矢で一匹を射抜き、もう一匹を刀で払った。

 影蛇を払った反動で、紅緒の足がもつれ、片膝が地面へ落ちた。

 深影はすでに間合いの内側にいた。今なら喉にも胸にも手が届く。

 だが、攻撃しなかった。

 真っ黒な瞳で紅緒を見下ろし、ただ一言告げる。

「立って」

「……命令しないで」

 紅緒は脇腹を押さえて立ち上がり、再び弓を構えた。

「もう一度」

 深影が言った。

 怒りでも嘆きでもない声だった。だが、その静けさがかえって不気味に響く。

 紅緒は再び霊矢を番えた。

「これは見世物ではないわ。皆、下がって!」

 衆員が小妖たちを倉の陰へ誘導する。景真も下がるよう促されたが、足が動かなかった。

 深影は父を倒した紅緒を探し続け、今、傷口を躊躇なく狙っている。どう見ても、復讐者の戦いだった。


   *


 その霊矢が放たれる直前、荷揚げ台の上で乾いた音がした。

 景真が振り向く。朽ちた柱の陰から、黒い布で顔を隠した者が腕を振り下ろしていた。

「上だ!」

 叫ぶと同時に、荷場の上へ張られていた縄が切られた。

 太い網が、紅緒と深影をまとめて覆うように落ちてくる。網の端には石の重りが結ばれ、当たれば立っていられない。

 紅緒は後ろへ跳んだ。深影は一歩も退かず、両腕を上げる。足元から伸びた影蛇が網へ絡みつき、落下する向きを横へ逸らした。

 重い網が地面を叩き、土埃が上がる。

「今だ! 蛇娘も巫女も、ここで潰せ!」

 倉の上から声が響いた。

 肩を布で吊った地廻りの妖が、二階の壊れた窓から姿を見せていた。深影に腕を外された男である。周囲の倉や木箱の陰から、仲間たちが一斉に飛び出した。

 黒い布。袖や首へ貼り付けた鱗。朝から証言に出ていた襲撃者と同じ姿だった。

「やっぱり、こいつらが……!」

 景真の横で、同行の衆員が刀を抜く。もう一人の衆員は、小妖たちを庇うように前へ出た。

「お前らも蛇娘を担いだ報いだ!」

 地廻りの一人が小妖へ棍棒を振り下ろす。衆員が受け止め、刃の峰で腕を打った。荷場のあちこちで怒鳴り声と悲鳴が重なる。

 混乱に紛れ、別の男が紅緒の背後へ回った。手には短い槍があり、傷の残る脇腹へ狙いを定めている。

 景真が声を上げるより先に、黒い影が地面を走った。

 影蛇が槍の柄へ巻きつき、男の腕ごと横へ引き倒す。槍先は紅緒の衣をかすめただけで地面へ刺さった。

「紅緒に触らないで」

 深影は倒れた男を見下ろした。

「私を助けたつもり?」

 紅緒が弓を構えたまま尋ねる。

「違うよ」

 深影は即座に答えた。

「今、わたしが見てるの。邪魔しないで」

 紅緒の眉がわずかに寄った。

「あなた以外が傷つけるのは許さない、ということ?」

「傷が増えたら、どれがわたしの結果か分からないでしょう?」

 迷いのない返事は、助けられたことへの礼を言う気さえ失わせた。

 地廻りの妖が二人、深影へ同時に飛びかかる。

 深影の身体が低く沈んだ。最初の男の腕を取り、その勢いを止めずに肩越しへ投げる。投げられた男が二人目へぶつかったところへ、影蛇が脚を絡め、まとめて地面へ引き倒した。

 一人が起き上がろうとする。深影はその背中へ膝を置き、腕を背後へ折り畳んだ。

「待て、折れる!」

「まだ折れてないよ」

「そういう問題じゃ――ぐあっ!」

 深影は相手が動かなくなる位置まで、関節を静かに締め上げた。

 紅緒も威力を絞った細い霊矢を矢継ぎ早に放ち、倉の上の男たちが持つ武器だけを射抜いていく。木の棍棒が砕け、短刀が手から弾き飛ばされた。

 景真は倒れた襲撃者のそばに、黒い塗料の入った小壺が転がっていることへ気づいた。腰には、蛇の印を描くための木型が差してある。

「これを見ろ!」

 景真が木型を拾い上げる。歪んだ輪と縦線。ただし、手彫りのため線は均一ではない。現場ごとに印の形が違っていた理由だった。

 鼠顔の小妖が、倉の陰から顔を出した。

「お前たちが、深影さまの名を……」

「黙れ!」

 肩を吊った男が怒鳴る。

「お前さえ戻らなければ、俺たちは好きにやれた! 巫女と殺し合って、二人とも消えればよかったんだ!」

「父さまのこと、知ってるって言ってたね」

 深影が男を見上げた。

 その声に怒りはなかった。

「嘘だったの?」

「お前の親父には何度も邪魔された! 娘まで同じ場所へ収まると思うな!」

「ならないって言ったよ」

 深影は足元の影へ指先を向けた。

 数匹の影蛇が倉の壁を這い、二階の窓から中へ入り込む。男の悲鳴とともに、その身体が窓から引きずり出された。落下する直前、影蛇が胴へ巻きつき、地面すれすれで止める。

 深影は男を地面へ下ろした。助けたというより、壊さず拘束するための動きだった。

 ほどなく、地廻りの妖たちは全員、御伽衆の衆員と紅緒、深影によって制圧された。

 小妖たちは、黒い布と鱗の飾り、蛇印の木型を前に言葉を失っている。自分たちが信じた決闘状も、深影を崇める気持ちも、すべて地廻りに利用されていた。

「これで終わりよ」

 紅緒は弓を消し、深影へ向き直った。

「あなたの名を騙った者は捕らえた。もう戦う理由はないでしょう」

「あるよ」

 深影は紅緒から目を離さなかった。

「まだ、終わってないから」

 足元の影が再び蛇の形へ揺らめく。

 騒動の首謀者ではない。だが、復讐を諦めたわけでもない。

 少なくとも、その場にいた者たちの目には、そう映った。


   *


 紅緒は再び光の弓を構えた。

「まだ続けるの?」

「うん」

「私はあなたのお父上を倒した。もう十分でしょう」

「まだ」

 深影は地面を蹴った。

 紅緒が矢を放つ。深影は影蛇を盾にするが、光の矢は黒い身体を貫いて消し飛ばした。残った光が深影の頬を浅く切り、細い血の筋を作る。

 深影は傷へ触れなかった。

「今の矢?」

「何が」

「今のも、父さまにも使ったの?」

「そうよ」

「そう。じゃあ、もう一度」

 紅緒は答えず、次の矢を番える。

 深影は正面から距離を詰めた。普通なら矢を避けるため左右へ動くはずなのに、紅緒の指先と弦だけを見ている。放たれる瞬間、身体を捻って軌道から外れ、間合いの内側へ滑り込む。

 深影の指が紅緒の肩へ触れた。紅緒は弓を消し、刀の柄で手を打ち払う。

 互いの足が交差する。深影の膝が紅緒の脇腹へ向かった。紅緒は鞘で受けるが、衝撃で一歩下がった。

「そこを狙うのをやめなさい」

「どうして?」

「あなたのお父上との戦いで負った傷ではないわ」

 紅緒の言葉に、深影は一瞬だけ動きを止めた。

「だから?」

 深影は再び踏み込む。

「痛いなら、そこを庇うでしょう。動きが読みやすいよ」

 深影の手刀が傷口へ迫る。紅緒は身を捻って避け、刀の峰を深影の肩へ叩き込んだ。

 鈍い音がした。深影の肩が不自然に下がる。外れたのだと景真にも分かった。

 それでも深影は顔色を変えず、反対の手で自分の腕をつかんだ。小さく身体を振ると、関節が音を立てて元へ戻る。

「痛くないのかよ……」

 景真の呟きが漏れた。

 深影は紅緒だけを見たまま、腕を確かめるように回した。

「父さまにも、その打ち方をしたの?」

「あなたに説明する義理はないわ」

「じゃあ、もっと見せて」

 深影の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 景真の胸へ、引っかかりが生まれる。

 深影は紅緒の傷を狙う。躊躇も手加減もない。けれど、紅緒が体勢を崩したとき、追い打ちをせず、構え直すまで待った。

 霊矢を避け切れず頬を切られても、怒りを見せなかった。それどころか、同じ技をもう一度求めた。

 地廻りが紅緒を襲ったときは、真っ先に攻撃を止めた。自分以外が傷を増やせば分からなくなる、と言った。

 復讐なら、紅緒が弱っている今こそ好都合なはずだ。罠に乗じて倒せばよかった。地廻りの攻撃を止める必要も、紅緒が構え直すのを待つ必要もない。

 深影の戦いは、十分に命へ届き得る。関節を壊すことにも、傷を広げることにも迷いがない。

 それでも、目的は紅緒の死ではない。

 景真は一昨夜の蛇妖を思い出した。

 激しく暴れ、紅緒を襲いながら、景真だけには攻撃を止めた父親。行動と、その奥にあるものが一致していなかった。

 今、深影の姿も同じように見える。

 父を倒した相手を探し、逃がさないと言い、傷口を狙って戦っている。外側だけを見れば、復讐以外には思えない。

 だが深影が見ているのは、紅緒の命ではない。

 構え。矢。間合い。傷を庇う動き。父が敗れた理由につながるものを、一つずつ確かめている。

 紅緒が大きく息を吸った。

 光の弓へ、これまでより強い巫力が集まる。脇腹の痛みに耐えながら、深影を止めるための一矢を放つつもりだ。

 深影も腰を落とした。影蛇が左右へ広がり、紅緒の射線を塞ぐように頭をもたげる。

 このままでは、どちらかが大きな傷を負う。

「紅緒、待て!」

 景真が二人の間へ声を投げた。

「こいつは、お前を殺しに来たんじゃない!」

 紅緒の指が弦を引いたまま止まる。

「父親を倒したお前の強さを、確かめに来たんだ!」

 深影の動きも止まった。

 真っ黒な瞳が、初めて紅緒ではなく景真だけを捉える。

「分かるの?」

 夕暮れの荷場に、深影の小さな声が落ちた。

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