第三話「蛇姫の影」④
夕暮れの荷場に、深影の小さな声が落ちた。
「分かるの?」
真っ黒な瞳が、紅緒ではなく景真だけを見ている。
「見てればな。お前は紅緒を殺したいんじゃない。父親がどうして負けたのか、その理由を探してる」
深影はしばらく景真を見つめた。否定も肯定もしない。その沈黙が、紅緒の張った弓をわずかに下げさせた。
「仇討ちではないの?」
紅緒が尋ねる。
「仇を討っても、父さまは戻らないでしょう?」
深影は、当たり前のことを確かめるように首を傾げた。
「紅緒を殺したら、父さまが戻るの?」
「……戻らないわ」
「なら、殺す意味はないよ」
その答えには、許しも憎しみもなかった。死者が戻らない以上、復讐という行為に意味を見いだせない。ただ、それだけだった。
「じゃあ、もう終わりだな」
景真が息を吐く。
「まだだよ」
深影は再び紅緒へ身体を向けた。
「まだ見たい」
「話が違うだろ!」
「殺さないよ」
「殺さなければ続けていいわけじゃない!」
紅緒が弓を消した。深影も影蛇を引かせたが、構えは解かない。
景真は二人の間へ歩み出た。背後から、同行していた御伽衆の衆員が制止する声が飛ぶ。
「東春殿、下がってください!」
「ここで下がったら、また始まるでしょう!」
景真は紅緒の前へ立った。深影との距離は数歩しかない。
「もう十分見ただろ。紅緒は怪我をしてる。それ以上やるなら、俺が止める」
「景真、あなたが止められる相手では――」
「それは俺が一番分かってる」
紅緒の言葉へ振り返った、その瞬間だった。
深影の姿が視界から消えた。
次に景真が感じたのは、足元がなくなるような浮遊感だった。手首を取られ、身体の向きを変えられたと思ったときには、背中から地面へ落ちている。
「ぐっ……!」
肺から息が押し出された。強く投げられたはずなのに、頭は地面へ打ちつけていない。深影は、景真を壊すのではなく、一度その場から退かせるように投げたのだ。
「景真!」
「だ、大丈夫……」
痛む背中を押さえながら、景真は起き上がった。
「まだ来るの?」
深影が不思議そうに尋ねる。
「来る。紅緒が止まってるのに、お前だけ続けるのはおかしいだろ」
「わたしは、まだ終わってないよ」
「だから、それを止めるんだよ!」
景真が再び紅緒の前へ出る。
今度は投げられなかった。
深影が景真の横をすり抜けたと思った次の瞬間、背後から右腕を取られた。細い腕が肩と首の間へ回り、景真の肘が背中側へ持ち上げられる。
近い、と呑気に考えたのは一瞬。
直後、肩へ鋭い痛みが走った。
「痛い痛い痛い! 待て、そこは曲がらない!」
「知ってるよ。曲がらないから、動けないでしょう?」
「理屈は分かるけど、手加減しろ!」
「まだ壊してないよ」
「“まだ”をつけるな!」
紅緒が腰の刀を抜き、深影へ切っ先を向ける。
「景真を放しなさい」
「放したら、また邪魔するよ」
「当然だ!」
景真が叫ぶと、深影は腕をさらにわずかに持ち上げた。
「いだだだだ!」
「動くから痛いんだよ」
「痛くするために動かしてるのはお前だろ!」
*
紅緒が踏み込もうとした。
「待て、紅緒!」
景真は痛みに耐えながら声を張った。深影の腕が自分の首元にある以上、紅緒が攻撃すれば自分まで巻き込まれかねない。
「お前の父親の最期の言葉を聞いたのは、俺だ!」
深影の動きが止まった。
肩へ掛かる力は消えていない。それでも、関節を締め上げていた指がほんのわずかに緩む。
「父さまは、何て言ったの?」
先ほどまでと変わらない声だった。だが、真っ黒な瞳は瞬きもせず、景真の横顔を見ている。
「あの子を頼む、って」
深影は黙った。
荷場を吹き抜ける風が、長い黒髪を景真の頬へ触れさせる。遠くで、拘束された地廻りの妖が呻いた。
「あの子って、わたし?」
「たぶん。いや、俺はそう思った」
「どうして?」
「あの人が最後に誰を心配してたのか、顔を見たら分かった」
それは説明と呼ぶには曖昧だった。けれど、景真にはほかに言いようがなかった。
深影は紅緒を見る。
「父さまは、紅緒に負けたあと、景真にわたしを頼んだの?」
「俺だけじゃない。あの場にいた俺たちへ託したんだと思う」
紅緒は深影へ向けていた刀をわずかに下げ、答えた。
「あなたのお父上は、操り札から解放された後に意識を取り戻した。最期まで、あなたのことを案じていたんでしょう」
「操り札?」
「意思を乱す札が貼られていたのよ。誰が仕掛けたかは、まだ分かっていないけれど」
「そう。……父さま、苦しそうだった?」
深影が尋ねた。
初めて、その声がわずかに幼く聞こえた。
「最後は、落ち着いてた」
景真は一昨夜の光景を思い出しながら答えた。
「お前のことを頼めたからかもしれない」
「そう」
深影はそれだけ言った。涙は流さない。表情もほとんど変わらない。
だが、景真の腕を極めていた力が、今度こそ抜けた。
解放された景真は数歩前へよろめき、肩を押さえる。紅緒は刀を鞘へ戻し、すぐ景真のそばへ寄った。
「外れてはいないようね」
「そこまでされてたら、もっと騒いでる」
「騒ぎ方は十分だったわ」
深影は、肩を押さえる景真をじっと見ていた。
「父さまが頼んだのに、景真は弱いね」
「余計なお世話だ」
「どうして、景真だったんだろう」
「俺が聞きたいよ」
「じゃあ、見てれば分かるかな」
景真は嫌な予感を覚えた。
「何を?」
「景真を」
深影は、ようやく薄く微笑んだ。
*
日が山の端へ沈み始める頃、荷場の騒ぎはようやく静まった。
地廻りの妖たちは御伽衆の衆員によって縄を掛けられ、黒い布、鱗の飾り、蛇印の木型、塗料の小壺が証拠として集められた。北門へ走った職員から連絡を受け、御伽衆の応援もまもなく到着するという。
「一連の襲撃については、あなた方から事情を聞きます」
衆員が告げると、肩を吊った地廻りの男は顔を背けた。
鼠顔の小妖たちは、深影の周囲へ集まっていた。先ほどまでの熱狂は消え、どこか所在なさそうに互いを見ている。
「深影さま」
鼠顔の小妖が、おそるおそる口を開いた。
「あの者たちは捕らえられました。これからは、深影さまが私どもをお守りくださるのでしょうか」
「守らないよ」
深影は迷わず答えた。
「わたしは父さまじゃないから」
「ですが、私どもは、もう地廻りに逆らってしまいました」
「なら、また来ないように御伽衆へ頼めばいいでしょう?」
「人間の組織へ頼るのですか」
「困っていることを頼む場所なんでしょう?」
深影は御伽衆の衆員を指した。
「勝てないのに、自分たちだけで戦うから困るんだよ」
突き放すような言葉だった。それでも、一人で耐えろとは言っていない。小妖たちは顔を見合わせ、やがて小さく頭を下げた。
「それから、わたしの名前を使って戦うのはやめて」
「なぜでしょう」
「わたしが頼んだみたいに見えるから。邪魔だよ」
思いやりからの理由ではない。しかし少なくとも、その場にいた妖たちが深影を旗印に争う流れは、そこで収まった。
紅緒が深影へ向き直る。
「今回の襲撃を命じたのがあなたでないことは分かった。でも、私へ戦いを挑んだことまで、なかったことにはならないわ」
「うん」
「本来なら、今すぐあなたを拘束すべきよ。けれど今は、地廻りの者の引き渡しと、ここにいる妖たちの安全を優先する」
「分かった」
あまりに素直な返事に、紅緒の表情がわずかに緩む。
「次は、人のいない場所にするね」
「戦わないという意味よ」
「それは分からない」
紅緒の眉間へ、深い皺が寄った。
「あなた、本当に話を聞いているの?」
「聞いてるよ。でも、紅緒のことはまだ全部分かってないから」
「分からなくて結構よ」
御伽衆の衆員が、深影へ近づく。
「御陵深影殿。事情を確認するため、御伽館まで同行していただけますか」
「行かない」
「事情聴取を拒めば、糾察司から正式な召喚が出ます」
「荷車を襲ったのは、わたしじゃないでしょう?」
「荷車の件だけではありません。大月殿と東春殿へ危害を加えたことについても、話を聞く必要があります」
その言葉には応えず、深影は背後の倉へ一歩下がった。足元から伸びた影蛇が、衆員たちの進路を塞ぐ。
その一瞬に、深影は倉と倉の間の暗がりへ滑り込んだ。
「待て!」
衆員が追おうとする。だが、紅緒が片手で制した。地廻りの妖たちを拘束している衆員は二人だけで、小妖たちも動揺している。ここで深影を追えば、拘束が解ける危険がある。
「今は地廻りの者の拘束と、ここにいる妖たちの安全を優先してください。深影を追えば、また別の騒ぎになります」
「しかし――」
「次に同じことをすれば、今度こそ逃がしません」
紅緒の声には、先ほどとは別の静かな怒りが混じっていた。
暗がりへ姿を消す直前、深影が景真を見る。
「景真」
「何だよ」
「また見に行くね」
「どこへ?」
「景真のところ」
「何でだよ」
「動いてないときの方が、よく見られるでしょう?」
意味を問い返す前に、深影の姿は消えた。
景真はしばらく、何もない影を見つめた。
「……何か、すごく嫌な予告をされた気がする」
「気のせいではないでしょうね」
紅緒も同じ場所を睨んでいた。
*
その夜、陰陽寮の一室には、北外縁から届いた報告書が積まれていた。
北門の通行記録。糾察司からの照会。御伽衆が押収した蛇印の写し。退魔方へ下された待機命令。
机の向こうで、大道宗心は最後の一枚まで目を通していた。灯明の光が、白を基調とした狩衣と、深く刻まれた眉間の皺を照らしている。
向かいに座る小夜は、いつもの糸目を崩さず、静かに報告した。
「北外縁の騒動は収まりました。御陵深影が妖たちを率いていた事実はありません。一連の襲撃は、彼女の父親を恐れていた地廻りの妖たちによる偽装です」
「捕縛した者は」
「御伽衆から糾察司へ引き渡されます。荷も明朝から通せる見込みです」
宗心は報告書の端を揃えた。
「御陵深影本人は」
「逃げました」
「逃がした、の間違いではないのか」
「紅緒さんは、現場の安全確保を優先したようです。深影さんを追えば、支持していた妖たちまで再び動く可能性がありましたので」
「結果を理由に手順を省くな」
宗心の声は低いが、怒鳴ることはない。
「収束と解決は違う。再発を防いで、初めて処理は完了する。それが規則だ」
「承知しております」
小夜は素直に頭を下げた。
「とはいえ、糾察司と退魔方が本格的に動く前に片がついたのは幸いでした。両者が北外縁へ入れば、深影さんを支持する妖たちも反発し、さらに大きな衝突になっていたでしょう」
「幸いで済ませるな。御伽衆へ正式な顛末書を出させろ。大月紅緒には、当事者としての行動に問題がなかったか、別途確認する」
「はい」
宗心は次の紙へ視線を移した。
「東春景真。術も武器も持たぬ迷い人が、御陵深影の目的を見抜いたとある」
「ええ。深影さんが紅緒さんを殺すのではなく、父親を倒した強さを確かめようとしていると、戦いの中から見抜きました」
「偶然ではないのか」
「深影さんのお父上が操られていることに気づいたのも、井戸の件で行方不明者の居場所を見つけたのも、彼です」
「二度、三度と続けば能力だと?」
「少なくとも、無視する理由は減ります」
小夜の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
宗心は答えず、報告書へ目を落とす。
「御陵深影は、仇討ちを望んでいなかったそうだな」
「人間が考える意味での仇討ちではありません。父親を倒した者へ興味を持ち、戦って確かめようとしただけです」
「理解しがたい」
「妖とは、そういうものでしょう」
「理解できぬからといって、予測を諦める理由にはならない」
宗心は筆を取り、報告書の余白へ二つの名を書き加えた。
東春景真。
御陵深影。
「この二名は、継続確認の対象として記録へ残せ。関係各所から、今後の動きを報告させる」
「お気になりますか?」
小夜が尋ねる。
宗心は筆を置き、ようやく顔を上げた。
「興味を持ったわけではない。記録に残し、経過を見るだけだ」
灯明の下で、二つの名が黒々と残った。
朝廷にとっては、まだ小さな記録にすぎない。
それでもその夜、東春景真と御陵深影という二つの名は、陰陽頭の記憶にわずかに残った。




