第四話「蛇の居場所」①
人は、誰かに見られていると、眠っていても分かるものらしい。
景真は、頬へ触れるかすかな息遣いで目を覚ました。
薄明かりの差し込む御伽館の客間。見慣れない天井を認識するより早く、視界いっぱいに真っ黒な瞳があった。
「おはよう、景真」
深影が、同じ寝床の端へ横向きに寝そべっていた。顔と顔の間は、手のひら一枚ほどしかない。黒髪が敷布の上へ広がり、その一部が景真の肩に掛かっている。
「――うわあっ!」
景真は反射的に後ろへ逃げようとして、壁へ後頭部をぶつけた。鈍い音が客間に響く。
「痛っ……何してるんだよ!」
「見てる」
「それは分かる!」
深影は驚いた様子もなく、片肘をついて景真を見下ろした。昨日と同じ装束のまま、乱れた気配すらない。
「動いてない景真の方が、よく見えるでしょう?」
「だからって、どうして俺の寝床にいるんだ!」
「景真を見に来たから」
「理由になってない!」
戸の外から、廊下を踏み鳴らす音が近づいてきた。
「朝っぱらから何の騒ぎだい!」
勢いよく戸を開けた八重が、寝床の上の二人を見て止まった。きっちりまとめた白髪交じりの髪が、今朝も一筋も乱れていない。
八重は景真を見た。次に深影を見た。もう一度、二人の間の距離を見た。
「……景真。あんた、ずいぶん早く幽世へ馴染んだもんだね」
「違います! 起きたらいたんです!」
「そう」
深影が肯定したため、八重の目が細くなる。
「あんたは昨日、事情を聞かれる前に逃げた蛇の娘だね」
「御陵深影」
「名乗りは結構。まず寝床から出な」
「まだ見てる途中だよ」
「人の寝床へ勝手に入る奴に、途中も終わりもあるかい」
八重が敷布の端を引いた。深影の身体がわずかに傾く。それでも深影は、なぜ追い出されるのか分からない顔をしている。
そのとき、廊下の向こうからもう一つ足音が近づいた。八重の背後へ、銀色の髪が現れる。
「八重さん、景真の肩を診に――」
紅緒は、寝床の上にいる深影を見た。
真っ黒な瞳と赤い瞳が、朝の客間で静かに向き合う。
「深影」
「おはよう、紅緒」
「そこから出なさい」
「どうして?」
「今すぐ」
声は低くも大きくもなかった。だが、昨日の荷場で弓を向けられたときより、景真にはよほど怖く聞こえた。
深影は少し首を傾げたあと、ようやく寝床から降りた。
「紅緒も景真を見に来たの?」
「あなたが壊しかけた肩を診に来たのよ」
「壊してないよ」
「だから問題がない、とはならないわ」
「昨日も聞いた」
「聞いただけで、理解していないでしょう」
紅緒の視線がさらに冷たくなる。深影はその変化まで観察するように見返した。
八重が二人の間へ手を差し込む。
「説教は広間でおやり。こっちは朝の支度があるんだ。景真も、いつまで寝床に座ってるつもりだい」
「俺の部屋なんですけど……」
「だから早く着替えな」
反論する間もなく、景真は八重に戸を閉められた。閉じる直前まで、深影の真っ黒な瞳だけが隙間からこちらを見ていた。
*
半刻後、御伽館の奥にある小さな座敷へ、深影は座らされていた。
正面には三森高平。その隣に八重、向かいには紅緒と景真が並ぶ。深影だけが、取り囲まれているという自覚もない様子で、卓上の湯飲みから立つ湯気を目で追っていた。
「改めて確認します」
高平は片眼鏡の位置を直し、深影へ向き直った。
「昨夜、御陵殿は事情聴取を求める御伽衆の衆員を振り切り、荷場から立ち去りましたね」
「うん」
「その後は、どちらに?」
「北の林で寝たよ」
「そして今朝、東春殿の客間へ無断で入り込んだ」
「うん」
「どうやって入ったんですか?」
「外の壁を登って、窓から」
景真は思わず客間のある二階を見上げた。窓には鍵に似た留め具があったはずだ。
「窓、閉まってただろ」
「隙間があったよ。指が入れば開けられる」
「今夜から棒をかませます」
八重が即座に決めた。
「御陵殿」
高平が話を戻す。
「北の道で起きた荷車襲撃について、あなたが命じた事実はない。地廻りの者たちがあなたの名を騙ったことも確認されています」
「なら、もういいでしょう?」
「よくありません。あなたは大月殿へ戦いを挑み、東春殿を投げ、関節技で拘束した。さらに事情聴取を拒んで立ち去った」
「景真の腕は壊してないよ」
「壊さなければよい、という話ではありません」
「みんな同じことを言うね」
「それだけ大切な決まりだからです」
高平の穏やかな声にも、わずかな疲れがにじんでいた。
「あなたは今後、糾察司から正式な事情聴取を求められる可能性があります。それまで所在を明らかにし、勝手に戦いを起こさないと約束できますか」
「戦わない方がいい相手とは、戦わないよ」
「判断するのはあなたではありません」
「どうして?」
「その説明から始める必要がありそうですね」
高平がこめかみを押さえたところで、開け放した障子の外から紙の擦れる音がした。
白い折り紙の鳥が庭を越え、座敷へ飛び込んでくる。紅緒が右手を差し出すと、紙鳥は指先へ留まった。
『皆さん、おそろいのようですね』
「小夜様」
『深影さんも、今度は逃げずにいらっしゃいますか?』
「いるよ」
『結構です。昨夜の騒動について、糾察司とはこちらで話をしました』
紙鳥から流れる小夜の声はいつもどおり柔らかい。だが内容は、深影を逃がした紅緒たちへの後始末そのものだった。
『荷車襲撃の実行犯が捕縛され、深影さんが一連の偽装に関与した証拠もないため、直ちに身柄を拘束することは見送られます。ただし、大月紅緒への無断の挑戦、東春景真への暴行、事情聴取の拒否は別です』
「暴行って、壊してないよ」
『深影さん。“壊していない”は免罪符になりません』
「小夜も同じことを言うね」
『皆が同じことを言うときは、ご自分の考えを疑ってください』
深影は返事をせず、紙鳥をじっと見た。
『今後、監督する者のもとで所在を明らかにすること。正式な事情聴取を求められれば応じること。幽京で無断の戦闘をしないこと。この三つを守るのであれば、糾察司には当面の拘束を求めないと伝えてあります』
「監督する者?」
『あなたが何をしてよく、何をしてはいけないか教える人です』
「景真?」
「何で俺なんだよ」
『景真さんに監督させれば、二人そろって行方不明になりそうですので却下です』
「俺への信用が低すぎません?」
『昨夜、戦闘の兆候があれば退くよう言われたのに、二人の間へ入りましたよね?』
景真は黙った。紅緒も横から何も助けてくれなかった。
*
問題は、深影を誰のもとへ置くかだった。
「結界神社で私が監督します」
最初に申し出たのは紅緒だった。
「私なら深影が暴れても止められます。それに、景真へ近づくため御伽館へ勝手に入るなら、ここへ置いておく方が危険です」
「紅緒のところに行くの?」
深影の真っ黒な瞳が、わずかに興味を帯びた。
「まだ紅緒の弓を見られる?」
「見せないわ」
『結界神社は監督施設ではありません』
小夜の声が即座に割って入る。
『幽京の結界を守る重要な場所へ、勝手に戦いを挑む方を置くわけにはいきません。それに紅緒さん一人へ、結界の管理と深影さんの監督を同時に負わせることも認められません』
「では、ものの歩はどうですか。武人が多いなら、深影が暴れても対応できます」
『あんな脳筋集団へ預ければ、三日もせずに腕試し大会が始まります』
「陰陽寮は?」
景真が尋ねると、紙鳥の首がわずかに傾いた。
『陰陽寮は妖怪を保護する宿でも、問題児を預かる寮でもありません。それに宗心様が許可なさらないでしょう』
「小夜のところでもいいよ」
『私の家へ来た場合は、式神に一晩中見張らせます』
「見られるのは嫌じゃないよ」
『では、身体の各所へ封縛の札を貼っても?』
「それは動きにくいね」
『でしょう?』
小夜の声には微笑みが含まれていたが、冗談かどうか景真には判断できなかった。
『現実的なのは、御伽衆での一時預かりです』
「こちらですか」
高平が眉を上げる。
『深影さんは父親から景真さんを託された理由を確かめたい。そのため、自分から御伽館へ戻りました。無理に別の場所へ閉じ込めるより、ここに留まる理由があります』
「戻ったというより、寝床へ入り込んだんですがね」
八重が低く言う。
『人間と妖怪の双方が出入りする御伽館なら、幽京で暮らすための決まりを学ぶこともできます。三森総代、監督をお願いできませんか』
高平はしばらく答えなかった。
御伽館の広間からは、朝一番の依頼人を案内する声が聞こえてくる。昨夜の騒動に関する後処理だけでも、職員たちは忙しく動いていた。そこへ、紅緒と互角に戦い、人の寝床へ窓から入る蛇妖が加わる。
「御伽衆は、厄介事の駆け込み寺ではないのですが」
「ここは困っていることを頼む場所なんでしょう?」
深影が昨日、小妖たちへ話した言葉をそのまま返した。
「あなた自身が厄介事なのです」
「わたしは困ってないよ」
「周りが困っています」
高平の返答に、八重が鼻を鳴らした。
「置く場所を探してる間にも、この子はまた景真の窓を開けるよ」
「開けるよ」
「胸を張って言うんじゃない」
八重は深影の頭から足元までを眺めた。恐れているというより、扱いの難しい依頼書を読むような目だった。
「誰かが駄目なことを教えなきゃ、何度でも同じことをする。だったら、目の届くところへ置く方がましだね」
「八重さん」
「監督全部を引き受けるとは言ってないよ、総代。ただ、館の決まりを教えるくらいなら私がやる」
深影が八重を見る。
「八重が教えるの?」
「まずは、人の寝床へ入るときは許可を取るところからだ」
「許可を取れば入っていい?」
「相手がいいと言ったらね」
「景真」
「駄目だ」
「まだ聞いてないよ」
「何を聞かれても駄目だ」
紅緒が隣で深く頷いた。
*
高平は紙鳥と八重を交互に見たあと、ようやく小さく息を吐いた。
「一時的に、御伽衆の監督下へ置くことは認めます。ただし、無条件で住まわせるわけにはいきません」
「条件は?」
深影が尋ねる。
「ここに留まるのであれば、御伽館の仕事をしていただきます」
「仕事?」
「食事を作る者がいる。部屋を整える者がいる。依頼人の話を聞き、解決する者がいる。あなたが食事と寝床を受け取るなら、あなたも館のために何かをする必要があります」
「食べ物なら、外で狩ればいいでしょう?」
「幽京の中で狩りをしないでください」
「鶏も?」
「誰かが飼っている鶏は、絶対に駄目です」
「山の鼠は?」
「今は食事の相談をしているのではありません」
高平は一度目を閉じ、言葉を選び直した。
「まずは、御伽館にどのような仕事があるか試してもらいます。役に立てる仕事が見つかり、八重さんの指示に従えるのであれば、御伽衆預かりとしてここへ置けるか、改めて判断します」
「見つからなかったら?」
「別の監督先を探します」
「景真はここにいるの?」
「そうだけど、何でそれが基準なんだよ」
「父さまが、どうして景真に最期の言葉を聞かせたのか知りたいから」
深影は迷いなく答えた。
「紅緒のことも、まだ見たい」
「私はここに住んでいないわ」
「なら、会いに行くね」
「許可なく結界神社へ入ったら、今度こそ拘束するわよ」
「先に聞けばいい?」
「聞かれても断るわ」
深影は少し考えた。
「分かった。景真を見られるなら、ここでいいよ」
「俺は仕事の報酬じゃないんだが」
『ひとまず、話はまとまりましたね』
紙鳥の小夜は満足そうだった。
『三森総代、深影さんの監督開始について、こちらから糾察司へ伝えます。深影さんは、正式な呼び出しがあれば今度こそ応じてください』
「逃げたら?」
『次は、私が直接迎えに行きます』
「わたしを捕まえられるほど、小夜は強いの?」
座敷の空気が一瞬止まった。
紅緒の表情が険しくなる。高平も片眼鏡の奥から深影を見た。だが、紙鳥から返った小夜の声は変わらない。
『試しますか?』
「今はいい」
『賢明です』
紙鳥はそこで声を失い、紅緒の手の上で静かな折り紙へ戻った。
八重が膝を打って立ち上がる。
「決まったなら、まず朝飯だ。食べ終わったら、館の中を案内するよ」
「仕事をするの?」
「そうさ。あんたに何ができて、何をさせたら危ないか、一つずつ確かめる」
「紅緒と同じだね」
「どういう意味だい」
「戦って、できることを確かめたでしょう?」
「私は戦わないよ。口で教える。言うことを聞かなければ、飯を抜く」
深影の真っ黒な瞳が、初めてわずかに揺れた。
「それは困るね」
「なら、言うことを聞きな」
「分かった」
昨日、紅緒の警告にも高平の事情聴取にも素直に従わなかった深影が、初めて迷いなく頷いた。
八重は満足そうに踵を返し、深影を広間へ連れていく。
その背中を見ながら、景真は小声で呟いた。
「もしかして、八重さんが一番強いんじゃないか?」
「少なくとも、深影を扱うことに関してはそうかもしれないわね」
紅緒は深影の後ろ姿を見つめたまま答えた。警戒は消えていない。それでも、今すぐ弓へ手を伸ばす気配もなかった。
御伽館の広間では、人間と妖怪の依頼人がすでに列を作っている。誰かを探す者、争いを訴える者、困り事をうまく言葉にできない者。八重はその一人ひとりに対し、短い言葉で捌いていく。
深影は八重の隣に立ち、行き交う者たちへ真っ黒な瞳を向けた。
父の代わりになることを求められた場所ではない。力を比べるための場所でもない。
深影の真っ黒な瞳は、行き交う依頼人を追っている。そこに自分の役目を見つけているのかは、景真にもまだ分からなかった。
ただ、八重が振り返り、受付卓の横を指した。
「ぼうっとしてないで、こっちへおいで。まずは仕事を見るところからだ」
「うん」
深影は素直に、その隣へ歩いていった。




