第四話「蛇の居場所」②
朝食が終わると、紅緒は結界神社へ戻っていった。深影に景真へ近づかないよう何度も念を押し、高平と八重にも監督を頼んでから、ようやく御伽館を出た。
深影は紅緒の背中が戸口から消えるまで見送っていたが、追いかけようとはしなかった。八重から仕事を試すと言われたことを、今のところは覚えているらしい。
「まずは、あれを奥の倉へ運んでもらうよ」
八重が指した先には、米俵が六つ積まれていた。御伽館へ届いたばかりで、二人の職員がすでに一つずつ運び始めている。
「一つずつ持っていきな。廊下の角へぶつけるんじゃないよ」
「全部でいいよ」
「無理をするんじゃ――」
八重が止めるより早く、深影は米俵を二つ抱えた。細い身体が重みで沈むこともない。人の間をすり抜け、廊下の角へ一度も触れず、三往復で運び終えてしまった。
荷運びをしていた職員たちは、空になった土間と深影を交互に見る。
「次は?」
「……じゃあ、広間の梁を拭いておくれ」
脚立を用意する前に、深影は柱へ片足を掛けた。するすると高い場所へ上り、梁の上へ身体を折り畳むように乗る。普通なら手の届かない裏側まで布を滑らせ、埃も蜘蛛の巣も残さなかった。
炊事場では、魚をさばかせた。深影の刃は骨の形を知っているように動き、身をほとんど残さず切り分けた。火を通すこと、人へ出す前に勝手に食べないことを一度教えると、二度目には守った。
依頼札の分類も同じだった。最初に探し人、護衛、失せ物、揉め事などの分け方を説明すると、深影は一枚も間違えず箱へ入れていった。
「“できれば穏便に”は、戦わない方がいいという意味だったね」
「そうだよ」
「覚えた」
昨日まで幽京の決まりを何一つ理解していなかった少女とは思えないほど、教えたことを吸収するのが早かった。
「普通に何でもできるじゃないですか」
景真が感心すると、八重は腕を組んだ。
「できる仕事と、この子へ任せるべき仕事は別だよ」
「どう違うんです?」
「荷運びには荷運びの者がいる。掃除にも炊事にも、館を回してきた担当がいる。深影ができるからといって、その者たちの仕事を取り上げる理由にはならない」
深影が首を傾げる。
「わたしの方が早いよ」
「速い者だけ残せばいい、という話でもないんだよ」
「どうして?」
「あんた一人で館を回すわけじゃないからさ」
八重はそう答えたが、深影の役目が見つかったわけではない。
大抵のことはできる。だが、それだけなら、深影でなくてもよかった。
*
昼前、八重は一包みの薬を深影へ渡した。
「二階の奥にいる岩戸という衆員へ届けな。昨日、足をひねった奴だ」
「分かった」
深影は匂いを確かめるように包みへ顔を近づけると、迷わず階段を上っていった。
ほどなくして戻ってくる。手には何も持っていない。
「届けたよ」
「岩戸はいたかい」
「いなかった」
「では、誰へ渡したんだ」
「机に置いたよ」
八重の眉が動いた。
「部屋には、どうやって入った」
「窓から」
「また窓かい!」
「戸は閉まってたけど、窓は少し開いてたよ」
「閉まっている部屋へ、勝手に入るんじゃない!」
「でも、薬を届ける仕事でしょう?」
「届けるためなら何をしてもいいわけじゃない。相手がいなければ戻ってきて、私へ報告するんだ」
「机に置いた方が、早く飲めるよ」
「誰が置いたか分からない薬を、岩戸が飲むと思うのかい」
深影は少し考えた。
「匂いで分かるよ」
「岩戸は蛇じゃない」
景真は、今朝の自分の客間を思い出した。深影は頼まれたことをこなす力はある。だが、目的へたどり着くまでに越えてはいけない境界があることを、まだ感覚では理解していない。
「器用なんだが、どこへ置いても目を離せないね」
八重は深影を見ながら呟いた。困り果てたというより、難しい依頼書を読み解くような目だった。
「次は何をするの?」
「今日はもう、私の隣に座ってな」
「何をするの?」
「何もしなくていい。来る奴を見てな」
「見るだけ?」
「まずはね。勝手に答えず、勝手に動かず、私が何をしているか見るんだ」
「見るのは得意だよ」
「それはありがたいね」
八重は受付卓の隣へ小さな腰掛けを置いた。卓の脇には、普段から使っている護身用の短杖が立てかけられている。
深影が腰を下ろすと、ちょうど広間全体が見渡せた。景真は少し離れた机で依頼札を束ねながら、二人の様子を見守ることにした。
*
最初に受付へ来たのは、目を泣き腫らした若い女だった。
「妹が、今朝から戻らないんです」
水を汲みに井戸へ出たまま、昼になっても帰らないという。
八重は女を椅子へ座らせ、湯飲みを差し出した。すぐに質問を重ねず、呼吸が落ち着くのを待つ。
隣の深影が、女の顔を覗き込んだ。
「困ってることは、妹を見つけること?」
「……え?」
「泣いてる理由じゃなくて、してほしいことを話して」
女の顔が強張った。景真も、さすがに言い方が冷たすぎると思った。
八重は深影を叱る代わりに、女へ向き直った。
「この子は言葉が足りないんだ。妹さんを捜すため、分かることを聞きたいと言ってる」
女は戸惑いながらも頷いた。八重は、妹の衣服、持ち物、井戸までの道、最近変わった様子がなかったかを一つずつ尋ねる。
途中、深影が女の草履へ目を向けた。
「妹も、同じ土が付く道を通るの?」
「同じ道です。でも今朝は、裏の細道を使ったかもしれません。あの子、近道が好きで……」
八重は裏道の位置を書き加えた。
女が帰ったあと、八重は深影へ言う。
「必要なことを聞くだけじゃ足りない。相手が話せる状態にするのも受付の仕事だよ」
「待ってる間に、妹は遠くへ行くかもしれないよ」
「だから待ちすぎもしない。急がせて口を閉ざさせても駄目だ。相手を止めず、話を進める。その加減を見るんだ」
「難しいね」
「難しいから、私がここにいるのさ」
次に現れたのは、口ひげを生やした小柄な商人だった。街道で競い合っている別の商人が、旅人を脅して荷を奪っていると訴える。
「ほかにも被害を見た者がいる。あんな男を街道へ出入りさせてはならん」
八重は場所と時刻、目撃した距離を聞いた。商人が帰ったあと、すぐに相手を処罰の対象にせず、近くにいた衆員へ事実確認を頼む。
「今の話を信じないの?」
深影が尋ねる。
「信じていないわけじゃない。聞いた話と、確かめた事実は分けるんだよ」
四半刻ほどして、頭巾を深くかぶった旅人が受付へ来た。背を丸め、先ほどの商人とは違う低い声を出す。
「街道で商人に襲われました。私の他にも旅人が襲われているようです。どうにかしてください」
深影の真っ黒な瞳が、旅人の足元へ向いた。
「さっきも来たね」
男の肩が跳ねた。
「な、何を言うんですか。私は今来たばかりです」
「右足を少し引いて歩く。左の胸だけ熱が強い。声は変えてるけど、息を吸う間も同じだよ」
深影の言葉を聞いた八重が、男の頭巾へ手を伸ばす。男は身を翻し、戸口へ逃げようとした。
「止める?」
深影の足元から影が伸びる。
「ああ、頼む」
「逃げないように、足を折っておく?」
「無傷で頼むよ!」
深影の影蛇が男の足首へ絡み、床へ転ばせた。ほとんど同時に、八重が短杖で男の手元を押さえる。
外れた頭巾の下から、先ほどの商人と同じ顔が現れた。
「別人の証言を装って、競争相手を街道から締め出させるつもりだったね」
「ち、違う!」
「違わないよ」
深影が商人の懐を指した。
「さっき出した店の印が、まだ入ってる。着替えても匂いは同じだよ」
商人は御伽衆の衆員へ引き渡された。
八重は何も言わず、しばらく深影を見ていた。
「何?」
「いや。あんたは、言葉より先に別のものを見るんだね」
「言葉も聞いてるよ」
「そういう意味じゃないんだが……まあいい」
八重は受付卓へ戻り、新しい依頼札を手元へ寄せた。
「見抜くところまでは上出来だ。そのあと何をするかは、これから覚えな」
「折らない方法?」
「まず、その考えから離れな」
景真は思わず笑いそうになった。しかし八重の目は、先ほどまでとは少し変わっていた。
深影へ教えられる仕事を探しているのではない。深影の目を、どこで使えるのか考え始めているように見えた。
*
昼下がり、受付の列がようやく短くなり始めた頃だった。
御伽館の戸が乱暴に開き、土と木屑にまみれた男たちが入ってきた。先頭に立つのは人間の大工で、その後ろには腕へ布を巻いた若い職人がいる。
ほとんど同時に、反対側の戸から、獣の耳や角を持つ妖たちが押し入ってきた。荷運びを生業とする者たちらしく、太い縄や革の手袋を腰へ下げている。
「御伽衆に話がある!」
「こっちの台詞だ! 人間どもが俺たちへ罪を押しつけようとしている!」
広間にいた依頼人たちが壁際へ退いた。八重は立ち上がり、受付卓の脇に置いていた短杖で床を一度打った。
「怒鳴れば先に聞いてもらえると思うんじゃないよ。話をしたけりゃ、きちんと並んで待つんだね」
八重に一喝され、入ってきた者たちは苦虫を噛み潰したような顔をしながら後ずさる。受付が回ってくるのを待っている間も、お互いに睨み合っている。
その様子を、深影は闇色の瞳でじっと見つめていた。
ようやく受付の順番になり人間側の棟梁が卓へ進み出た。
「御伽衆から紹介された倉の修繕仕事です。今朝、梁を上げていたら、妖の荷運びが合図も待たずに縄を引いた。梁が落ちて、うちの若いのが怪我をしたんです!」
腕へ布を巻いた職人が、苦々しい顔で頷く。
妖側から、牛の角を持つ大男が前へ出た。
「嘘をつくな。俺たちは、あの梁は腐っていると何度も言った。なのに、この人間どもは期日に間に合わないから使えと命じたんだ!」
「引くなと言ったのに引いたのは事実だろう!」
「崩れる前に下ろそうとしたんだ!」
双方の声が重なり、何が起きたのか分からなくなる。
八重は一方を庇うことも、すぐに責任を決めることもしなかった。人間側から現場にいた者の名を聞き、妖側から縄を引いた者の位置を聞く。使った梁を誰が選び、誰が安全を確認したのかも確かめていく。
話が進むほど、双方の説明には食い違いが増えた。
人間側は、梁が古かったことを曖昧にする。妖側は、合図より先に縄を引いた者がいたかどうかを答えようとしない。
深影は八重の隣で、両方の集団を黙って見ていた。熱を帯びた顔。握り締めた手。言葉を発する直前に、隣の者へ向く視線。
牛角の妖が深影へ気づいた。
「お前も妖だろう。こいつら人間の言い分を信じるのか」
今度は人間の棟梁が八重へ詰め寄る。
「御伽衆は人の都の組織だ。人間と妖怪、どちらの味方なんです」
八重の眉が、わずかに上がった。
「先に来た方でも、声の大きい方でもないよ」
「では、どちらを信じる!」
「信じる前に、話を分ける。誰が何を見て、誰が何をしたのか、一人ずつ聞くんだ」
深影の真っ黒な瞳が、人間から妖へ、妖から人間へゆっくりと動いた。
八重が分けているのは、人間と妖怪ではない。声の大きさでも、先に訴えた順でもない。言葉の中から、一人ずつの行動だけを拾い出そうとしている。
そのとき、人間の大工の一人が、小さく吐き捨てた。
「化け物の言い分なんか、最初から聞く必要はない」
妖たちの空気が変わった。爪の長い妖が肩を前へ出し、人間側の男は腰に差した木槌へ指を掛ける。
八重の短杖が、もう一度強く床を打った。
「今の言葉を取り消しな。ここで武器を抜くんじゃないよ!」
誰も答えなかった。
深影が見ていたのは、差別の言葉を吐いた男の顔ではない。木槌を握ろうとする右手と、爪を伸ばした妖の重心だった。
深影は腰掛けから立ち上がった。




