第四話「蛇の居場所」③
深影は腰掛けから立ち上がった。
だが、すぐには動かなかった。
八重から「勝手に動くな」と言われたばかりだった。景真には、深影がその言葉を守ろうとしているように見えた。真っ黒な瞳だけが、木槌へ掛かった人間の指と、爪を伸ばした妖の足元を追っている。
「その手を離しな」
八重が短杖を構えた。
木槌を握った大工は、怒りに顔を赤くしたまま動かない。爪を伸ばした妖も、腰を落とした姿勢で人間たちを睨んでいる。
「聞こえなかったのかい。ここは困り事を話す場所だ。殴り合いをする場所じゃないよ」
「先に化け物どもが――」
「今は、あんたの言葉を聞いてるんじゃない。その手を離せと言ってるんだ」
八重の声に、大工の指がわずかに緩んだ。
その瞬間、爪を伸ばしていた妖が一歩踏み込んだ。人間側の誰かが身を引き、別の男が妖を押し返そうと腕を突き出す。
人と妖の間にあったわずかな隙間が、一息で消えた。
「止まりな!」
八重が受付卓の前へ出る。
木槌が振り上げられた。八重の短杖が、その手首を横から打って軌道を外す。ほとんど同時に、爪の妖が人間へ飛びかかろうとした。八重は身体をひねり、杖の反対側でその胸を押し返す。
どちらも止めた。
だが、後ろから押された大工の身体が八重へぶつかった。外れた木槌の柄がこめかみをかすめ、八重は受付卓の角へ肩を打ちつけた。
「八重さん!」
景真が駆け寄ろうとする。
八重は床へ膝をつきながら、それでも短杖を手放さなかった。こめかみには薄く血がにじみ、片方の肩を押さえている。
人間側も妖側も、一瞬だけ動きを止めた。
「深影」
八重が呼んだ。
深影の真っ黒な瞳が、八重へ向く。
「止めな。――壊すんじゃないよ」
「分かった」
今度の深影は、迷わなかった。
*
深影が床を蹴った。
景真の目がその動きを追えたときには、すでに木槌を持つ大工の懐へ入り込んでいた。深影は男の手首をつかみ、身体をひねる。木槌が床へ落ち、男の身体が勢いを失ったまま板敷きへ伏せられた。
「ぐっ……!」
関節は外れていない。骨も折れていない。ただ、起き上がろうとすれば腕が背中へ回り、それ以上動けない角度で押さえられている。
爪の妖が深影へ向き直る。
床へ落ちた影が細長く伸び、二匹の蛇となって妖の両腕へ絡みついた。伸びた爪が人へ届く前に、両腕ごと身体の脇へ縛りつける。
「放せ! 先に武器を持ったのは人間だろう!」
「うん」
深影はあっさり頷いた。
「だったら、そいつだけ止めればいい!」
「その次に襲おうとしたのは、あなたでしょう?」
妖が言葉を失う。
人間側から別の男が叫んだ。
「俺たちは仲間を守ろうとしただけだ!」
「あなたも木槌へ手を伸ばしたよ」
「こいつらが爪を出したからだ!」
「爪を出した妖も止めたよ」
深影の影が、広間の床をさらに走った。細い蛇の群れが人間と妖の間へ並び、動こうとする足首へ次々と巻きつく。傷つけるほど強くはない。それでも、一歩踏み出せば転ぶと分かる力で押さえている。
「八重は、ここで武器を抜くなと言った」
深影は人間側を見た。
「人間は木槌を持った」
次に、妖側を見る。
「妖怪は爪を出して襲おうとした」
「言葉で侮辱されたんだぞ!」
牛角の妖が怒鳴った。
「その言葉は、取り消せって八重が言った」
深影は木槌を持っていた大工へ、真っ黒な瞳を向けた。
「あなたが侮辱したことと、木槌を持ったことも別だよ。どちらも、あなたがしたことでしょう?」
次に、爪を伸ばした妖を見る。
「あなたが爪を出したことも別。言葉を理由にして、襲っていいことにはならないよ」
深影が床へ視線を落とす。倒れた八重のそばには木槌があり、妖の爪が床板へ浅い筋を残していた。
「八重を倒したのは、止まらなかった両方だよ」
広間が静かになった。
深影は八重が受付で使っていた言葉を思い出すように、少し間を置いた。
「一人ずつ話すんでしょう?」
影蛇に押さえられた者たちを、真っ黒な瞳が順に見ていく。
「動いたら、話せないよ」
その言葉に逆らって動く者は、もういなかった。
*
騒ぎを聞いた御伽館の職員たちが、広間へ駆け込んできた。ある者は壁際の依頼人を外へ誘導し、景真は一人に高平と治療係を呼ぶよう頼んでから、八重のそばへ膝をつく。
「八重さん、大丈夫ですか」
「大声を出すんじゃないよ。頭へ響く」
返事ができるなら、意識ははっきりしている。景真が胸をなで下ろした直後、深影が隣へしゃがみ込んだ。
影蛇は人間と妖を拘束したままだ。それでも深影は、そちらを見ずに八重の顔へ手を近づける。
「息は普通。熱も上がってない」
「触る前に一言くらい聞きな」
「触っていい?」
「もう触ってるだろう」
深影は八重のこめかみを見た。近くに落ちていた清潔な布を拾い、薄く血のにじむ場所へ当てる。
「痛っ」
八重が眉を寄せると、深影の指の力がわずかに緩んだ。
「痛い?」
「押さえりゃ痛いに決まってるよ。だが、離すんじゃない」
「分かった」
言われたとおりに押さえながら、今度は八重の表情を見て力を調整する。
景真は、その手元を見つめた。
「八重さんを助けようとしたのか?」
「八重が倒れたら、誰も話を分けられないでしょう?」
深影の答えは、思いやりというより仕事上の不都合を述べているように聞こえた。
それでも八重が肩を動かして顔をしかめると、深影はすぐに気づいた。
「肩も痛い?」
「少し打っただけさ」
「折れてないよ」
「それは見れば分かる」
ほどなく駆けつけた館の治療係が、八重の目の動きと傷を確かめた。意識に乱れはなく、こめかみの傷も深くはない。肩も打撲らしいが、今日は安静にするよう告げる。
八重はため息をつき、深影の手を布の上へ戻した。
「それより、あんた。待ちすぎだよ」
「勝手に動くなって言ったでしょう?」
「言ったね」
「だから、八重が止めろと言うまで待った」
「言われたことを覚えてたのは上出来だ」
八重は一度目を閉じ、痛みをやり過ごしてから続けた。
「けど、決まりは言葉どおりに守るだけじゃ足りない。何を守るための決まりかまで考えな」
「何を守るため?」
「人の話と、ここにいる奴らの身体だよ。殴り合いが始まる前なら、あんたは止められただろう」
深影は、拘束された人間と妖を見る。それから、八重のこめかみに当てた布を見た。
「次は、言われる前に止めてもいいの?」
「危ないと分かったときはね。ただし、壊すんじゃないよ」
「難しいね」
「難しいから、私が教えるんだ」
朝と同じ言葉だった。
けれど今度は、深影も「どうして」とは尋ねなかった。
*
ほどなくして、高平が数人の衆員を連れて広間へ現れた。
床へ押さえられた人間。影蛇に拘束された妖。受付卓のそばで手当てを受ける八重。
片眼鏡の奥の目が、広間をゆっくりと見渡す。
「少し席を外した間に、ずいぶん賑やかになりましたね」
「嫌味を言う前に、こいつらを分けておくれ」
「承知しました」
高平は人間側と妖側を別の部屋へ移し、一人ずつ話を聞くよう衆員へ命じた。深影へは拘束を解くよう求める。
「逃げるよ」
「出口には衆員を置きます。これ以上、御陵殿へ床で押さえられていたくないでしょうから、皆さんも従ってくださるはずです」
深影が影を戻すと、人間も妖も不満そうな顔をしながら、それぞれ別の部屋へ連れていかれた。
人間側と妖側から一人ずつ話を聞き、現場に残っていた職人や目撃者へも衆員を走らせた。
戻った報告と双方の証言を照らし合わせると、人間側は、梁が古く一部が腐っていると知りながら、期日に間に合わせるため使用を続けていた。一方、妖側には、梁が軋んだことへ焦り、合図を待たずに縄を引いた者がいた。
どちらか一方だけが、事故を起こしたわけではなかった。最終的な責任の割合は、現場を詳しく調べてから決める必要がある。
「修繕作業は、現場の安全を確認するまで中止します」
高平は双方へ告げた。
「治療費と資材の損失については、現場を確認したうえで負担を決めます。御伽衆が紹介した仕事でもありますから、こちらからも調査する者を出しましょう」
「俺たちだけが悪いんじゃないんだな」
牛角の妖が確かめる。
「妖の側に過失がないとは申しません。人間の側だけに過失があるとも申しません。確認できた行動に応じて判断します」
高平の言葉に、八重が小さく頷いた。
武器を持ち出した者たちは、事故とは別に御伽館で騒ぎを起こした責任を問われることになった。深影に押さえられた大工も、爪を伸ばした妖も、それには反論できなかった。
一通りの処理を終えると、高平は八重の前へ膝をついた。こめかみには布が巻かれ、肩にも冷やした布が当てられている。
「今日はもう、お休みになってください」
「この程度で受付を空けられるかい」
「空ける必要はありません。代わりの者を置きます」
「そういう問題じゃないよ」
八重は短く答え、隣に立つ深影を見上げた。
「総代。この子を、しばらく私の隣へ置いておくれ」
「御陵殿を、受付へ?」
「まだ受付じゃない。見習いにするかどうかも、これからだよ」
八重は深影を頭から足元まで眺める。
「愛想はない。口の利き方もなってない。放っておけば、逃げる奴の足首を外そうとする」
「向いてない?」
「最後まで聞きな」
八重は深影を杖先で軽く指した。
「人間だからって庇わなかった。妖だからって甘やかしもしなかった。誰が先に怒鳴ったかじゃなく、誰が武器を持って、誰が襲おうとしたかを見ていた」
「八重がそうしてたから」
「見て覚えたなら、それでいい」
八重の視線が、深影の真っ黒な瞳をまっすぐ捉える。
「受付は、笑って札を受け取るだけの仕事じゃない。来た奴が安心して話せるようにして、嘘と事実を分けて、話し合う場所を守る仕事だ」
「守る?」
「そうさ。今日みたいなことが起きる前にな」
高平はしばらく考えたあと、深影へ尋ねた。
「八重さんの指示に従い、ここで学ぶ意思はありますか」
「八重の隣にいればいいの?」
「座っているだけじゃ駄目だよ」
八重が即座に返す。
「話を聞く。勝手に決めない。止めるべきときは止める。それから、誰も壊さない」
「多いね」
「これからもっと増えるよ」
深影は少し考えた。
「分かった。やってみる」
高平は小さく頷いた。正式な立場を決めたわけではない。けれど、朝にはどこへ置くべきかさえ分からなかった深影に、初めて試すべき役目が見つかった。
八重の代わりになる場所ではない。
八重の隣でなければ、まだ務まらない場所だった。
そして景真には、それこそが深影にとって最初の居場所になり始めているように見えた。




