第四話「蛇の居場所」④
翌朝、御伽館へ最初に届いたのは、昨日の騒ぎについての報告ではなかった。
「見つかったそうですよ」
高平が差し出した報告札を、景真は思わず覗き込んだ。前日に川へ洗濯に出たまま戻らなかった娘は、下流の浅瀬で足をくじき、岸辺の茂みに身を寄せていたという。草履に付いていた赤い土から裏の細道を通ったことが分かり、その道が出る川岸から下流を捜したことで、日が落ちる前に見つけられたらしい。命に別状はなく、家へ送り届けられていた。
「あの土を見つけたのは、この子だよ」
受付卓へ戻っていた八重が、隣に立つ深影を杖先で示した。こめかみには細い布が巻かれ、肩の動きにもまだわずかな硬さがある。それでも本人は、休めという高平の言葉を聞き流し、朝からいつもの席に座っていた。
「見ただけだよ」
「見ても気づかない者の方が多いんだ」
八重に褒められても、深影の表情は変わらない。ただ、真っ黒な瞳が報告札を一度追い、それから八重へ戻った。
広間の奥には、高平、八重、深影、景真がそろっていた。少し遅れて、結界神社から紅緒も戻ってくる。八重の傷を目にした瞬間だけ眉を寄せたが、すぐに深影へ鋭い視線を向けた。
「昨日の報告は聞きました」
「わたしは八重を倒してないよ」
「知ってる。あなたが止めたことも聞いたわ」
紅緒はそう答えたものの、警戒を解いた様子はなかった。
そのとき、開いた窓から一羽の紙鳥が舞い込んだ。卓の上へ降りると折り目をほどき、小夜の筆跡が現れる。
――御陵深影について、御伽衆での継続預かりに異論はありません。先に示した条件は今後も継続してください。正式な立場と監督者が決まり次第、陰陽寮へ報告を願います。
「陰陽博士からも、異論はないようですね」
高平は紙をたたみ直し、深影へ向き直った。
「では、御陵殿の当面の立場を決めます。御伽衆預かり。役目は、受付見習いです」
「受付?」
「八重さんの隣で、依頼人の話を聞く仕事を学んでいただきます。ただし、正式な衆員ではありません。勝手に依頼を引き受けたり、御伽衆の名で判断を下したりすることも認めません」
「八重に聞けばいいの?」
「まずは、そうしてください」
高平は一つずつ条件を挙げた。八重の指示に従うこと。館を離れるときは行き先を告げること。陰陽寮の問いには応じること。許可なく戦わないこと。そして、相手を拘束する必要があっても、骨や関節を損なわないこと。
「多いね」
「昨日より増えましたね」
高平が淡々と答えると、八重が鼻を鳴らした。
「まだあるよ。他人の部屋へ窓から入らない。他人の寝床へ勝手に入らない。危ない奴を止めるときは別だ。それ以外で他人へ触るなら、先に聞きな」
「寝床は、景真のところだけ?」
「全部よ!」
紅緒の声が広間へ響いた。景真は反射的に自分の客間の方角を見た。深影は何が問題なのか分からない顔で、紅緒と景真を交互に見る。
「分かった。聞いてから入る」
「許可されなければ入らない、よ」
「難しいね」
「難しくない」
紅緒は即答した。八重だけが、肩を押さえながら小さく笑っていた。
*
条件を聞き終えた深影は、しばらく高平を見つめていた。
「守ったら、ここにいていいの?」
「当面は」
「当面って、いつまで?」
「あなたが御伽衆の中で役目を果たせるか、そして周囲と暮らせるかを確かめるまでです。期限だけを先に決めることはしません」
「役に立てば、長くいてもいい?」
「役に立つことだけが条件ではありません」
高平は片眼鏡の位置を直した。
「御伽衆は、厄介事の駆け込み寺ではないのですが――困り事を持ち込む者が、安心して話せる場所でなければなりません。御陵殿にも、その場所を守る側へ回っていただきます」
深影は、昨日八重が立っていた場所へ目を向けた。人間と妖の間へ割って入り、倒れた場所だ。
「守る側になれば、追い出されない?」
高平はすぐには答えなかった。代わりに八重が口を開く。
「決まりを守って、仕事を覚えて、間違えたら直す。それを続ける奴を、理由もなく追い出したりはしないよ」
「絶対じゃないんだね」
「絶対なんて言葉を、軽々しく使うもんじゃない」
「でも、昨日よりはここにいていい?」
「ああ。昨日よりはね」
八重の返事に、深影は小さく頷いた。笑ったわけではない。それでも景真には、何かを確かめ終えたように見えた。
「私は、まだあなたを信用していないわ」
紅緒が静かに告げた。広間の空気が少しだけ張る。
「うん。知ってるよ」
「あなたの父親がしたことを、あなたの罪にするつもりはないわ。あなたが何を大切にし、何を傷つけても構わないと思うのか、私はまだ分からない」
「わたしも、紅緒が何を大切にしてるのか分からないよ」
「そうでしょうね」
二人はしばらく見つめ合った。紅緒の赤い瞳にも、深影の真っ黒な瞳にも、親しみはない。
だが、紅緒は刀へ手を掛けなかった。深影も、紅緒へ近づこうとはしなかった。
「決まりを守る限り、私はあなたを敵として扱わない」
「それは、信用?」
「いいえ。約束よ」
深影は少し考え、それから頷いた。
「じゃあ、わたしも守る」
信用ではない。理解し合ったわけでもない。けれど、相手が何をするか分からないまま睨み合っていた昨日とは違う。
景真には、その細い約束も、深影がここへ留まるための一本の境界に思えた。
*
「話が決まったなら、いつまでも立たせておくんじゃないよ」
八重が受付卓の脇を杖で示した。昨日、深影が借りていた小さな腰掛けは片づけられている。代わりに、職員が倉から運んできた小ぶりな椅子と、細い書き物台が置かれた。
受付卓よりも狭く、椅子も一回り小さい。古い館の道具を組み合わせただけで、特別に立派なものではなかった。
それでも、昨日までそこには何もなかった。
「ここに座るの?」
「受付見習いの席だよ。私の書類へ勝手に手を出されちゃ困るから、自分の台を使いな」
八重は白木の小さな札を取り出した。墨を含ませた筆を動かし、迷いなく四文字を書く。
――御陵深影。
乾くのを待ってから、書き物台の前へ立てかけた。
「名前を書くの?」
「誰が座ってる席か、分からないと困るだろう」
「匂いで分かるよ」
「皆が蛇じゃないことを、そろそろ覚えな」
深影は木札へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「触っていい?」
「自分のものならね」
「わたしの?」
「名前まで書いてあるだろう」
深影の指先が、木札の端へ触れた。文字をなぞるでもなく、温度を確かめるように、しばらくそのまま置かれる。
景真は、昨日の朝、深影が客間の寝床へ入り込んでいた光景を思い出した。深影は、空いているからという理由で他人の寝床へ入り込んだ。そこが誰の場所か、自分がいてよい場所かを確かめることもなかった。
けれど今、八重の隣には、誰かが深影のために置いた椅子がある。借りた席でも、奪った席でもない。
「座らないのか?」
景真が尋ねると、深影は木札から手を離した。
「座っていいって言われたから、座る」
椅子を引き、深影が腰を下ろす。身体の大きさには合っているはずなのに、最初はどこか落ち着かない様子だった。両手を膝へ置き、八重と同じように正面を向く。
「それで、何をするの?」
「まずは昨日の依頼札を写しな。筆の使い方も覚えてもらうよ」
「見るだけじゃないの?」
「見習いになったんだから、仕事が増えるのは当たり前だろう」
八重が紙と筆を置く。深影は筆を持ち、最初の一文字を書いた。形は読めたが、力が入りすぎて紙が破れてしまった。
「破れちゃった」
「まずは持ち方からだね」
八重は深影の指へ自分の指を添え、筆の立て方を直した。深影は嫌がらず、その動きをじっと見ている。
紅緒は二人の様子をしばらく見届けてから、結界神社へ戻ると言った。戸口を出る前に一度だけ、新しく置かれた木札へ目を向ける。
「御陵深影」
「何?」
「約束を忘れないで」
「紅緒もね」
紅緒は眉をひそめたが、言い返さずに館を出た。景真には、それが今の二人にできる、最も穏やかな別れ方に思えた。
*
昼を過ぎる頃には、御伽館の受付もいつもの忙しさを取り戻していた。昨日の騒ぎで傷ついた床板には応急の板が当てられ、倒れた椅子も元の場所へ戻されている。
変わったものは、八重の隣に増えた小さな席だけだった。
深影は依頼札を書き写しながら、八重が応対する声へ耳を傾けている。相手の呼吸が変われば顔を上げ、戸が開けば足音の主を確かめる。仕事へ集中しているのか、ただ周囲を見ているだけなのか、景真にはまだ区別がつかなかった。
「次、あんたが聞いてみな」
八重が突然言った。
「わたしが?」
「見習いが一日中、札を写してるだけじゃ仕方ないだろう」
ちょうど戸口から、人間の老女と、額に小さな角を持つ若い妖がほとんど同時に入ってきた。老女は抱えた籠を受付卓へ置き、妖は濡れた外套を払う。
「うちの孫が、朝から――」
「街道の橋が壊れて、荷が――」
二人の声が重なった。互いに相手を見て、今度はどちらが先かと言い争いかける。
深影の足元で影がわずかに揺れた。景真は身構えたが、影蛇が伸びることはなかった。
深影は八重を見た。八重は何も言わず、顎で依頼人たちを示す。
深影は新しい席へ座り直した。木札に記された自分の名前を一度見てから、二人へ真っ黒な瞳を向ける。
「名前は? それから、困ってることを話して。一人ずつ聞くから」




