表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/43

第五話「狐火に映るもの」①

 夜明け前の結界神社には、昨夜の雨が残っていた。

 拝殿の屋根から落ちる雫が、一定の間を置いて石畳を打つ。大月紅緒は寝所を出ると、半ば開いた戸の前で足を止めた。

 昨夜、戸は確かに閉めた。

 風で開くほど軽い戸ではない。それでも今朝は、人ひとりが通れるほどの隙間ができていた。

 紅緒は腰を落とし、戸口を確かめた。傷も、こじ開けた跡もない。外から術を使った気配も感じられなかった。

「……私が開けたの?」

 口にした言葉が、朝の静けさへ頼りなく消えた。

 眠りが浅かった覚えはない。夢も見ていない。夜中に目を覚ました記憶も、外へ出た記憶もなかった。

 縁側へ出ると、湿った土の上に浅い足跡が残っていた。戸口から庭へ三歩。そこから先は石畳に重なり、鳥居の方角へ続いているのか判然としない。

 足跡の大きさと形は、紅緒の草履跡によく似ていた。

 戸の閉め忘れ。昨夜の雨。自分の記憶違い。説明なら、いくらでもつく。

 そのはずだった。

「紅緒、起きてるか?」

 鳥居の向こうから東春景真の声がした。紅緒は足跡から目を離し、いつもの顔で振り返った。

「朝から大声を出さないで。起きているわよ」

 景真は片手に木桶を提げていた。御伽館から借りたものらしく、歩くたびに中の水が危なっかしく揺れている。

「昨日、水が足りないって言ってただろ」

「頼んではいないわ」

「足りないのは本当なんだな」

「……そこの瓶へ入れて」

 返事だけは素直に、景真は社務所の方へ向かった。注連縄の前で立ち止まり、紅緒を見る。

「ここ、越えていいんだよな?」

「昨日も教えたでしょう」

「確認した方がいいと思って」

「その判断だけは間違っていないわ」

「今、褒めた?」

「いいえ」

 景真が不満そうに木桶を抱え直したところで、紙の羽音が鳥居をくぐった。

 一羽の紙鳥が紅緒の前を旋回し、差し出した手のひらへ降りる。折り目がほどけ、小神小夜の筆跡が現れた。

 ――紅緒さん、東春さん。至急、陰陽寮までお越しください。南の瑞市ずいし区で、人の失踪を伴う怪異が発生しています。

「また事件か」

「あなたも呼ばれているわ。すぐ支度をして」

「紅緒は?」

「私はこのままで行くわ」

 紅緒は札袋を腰へ結び、白鞘の刀を差した。

 紙の端には、もう一行だけ書き添えられていた。

 ――目撃されたのは、銀の髪をした巫女だそうです。


   *


 陰陽寮の東門をくぐった瞬間から、紅緒は周囲の空気が変わるのを感じた。

 廊下の先で話していた陰陽生たちが声を落とす。書庫から出てきた若い男は、紅緒と目が合うと巻物を胸へ抱え、わざわざ壁際まで下がった。

 袖が触れないほど離れている。それでも彼は、紅緒が通り過ぎるまで息を詰めていた。

 いつものことだった。

「今の、知り合いか?」

「いいえ」

「じゃあ、何であんなに避けるんだ?」

「景真」

 紅緒は名だけを呼び、先を促した。理由を説明したところで、陰陽寮の空気が変わるわけではない。

 小夜の部屋へ続く渡り廊下へ差しかかったところで、三人の女子陰陽師が前から歩いてきた。

 中央の女は腰まで届く明るい金髪を半ば結い上げ、左側の前髪だけを細く編み込んでいる。瑠璃色の吊り目が紅緒を認めると、整った唇に笑みが浮かんだ。

「ごきげんよう、大月さん」

 上霞城かみかじょう瑠璃るり。結界術の名門、上霞城家の令嬢であり、紅緒より一つ上の階級にある陰陽師だった。

 その後ろにいる二人は従者ではない。家柄と実力を慕い、勝手について歩いている女子陰陽師たちだ。紅緒を見るなり、一人は露骨に眉をひそめ、もう一人は瑠璃の背へ隠れるように半歩下がった。

「おはようございます、上霞城さま」

「今朝も結界神社からお越しになったのね。小神先生は、本当に大月さんを頼りになさっているようですわ」

「お呼び出しを受けましたので」

「銀髪の巫女が、人を連れ去ったという件でしょう?」

 紙鳥には、銀髪の巫女が目撃されたとしか書かれていない。だが、寮内にはすでに詳しい噂が回っているらしい。

 瑠璃の後ろで、一人が口元を袖で隠した。

「青白い火をまとい、夜道から人を連れ去るそうです。まるで妖狐のようですわね」

「およしなさい」

 瑠璃はたしなめたが、声に咎める響きはなかった。

「大月さんのお母様が妖狐であることも、その血を受け継いでいらっしゃることも、隠された事実ではありませんもの。似ていると申し上げただけですわ」

 景真が紅緒を見る。

 人の父と、妖狐の母。その間に生まれた半妖。それが大月紅緒だった。

 紅緒は自分から話していない。幽世へ来て間もない景真が知るはずもなかった。

「半妖を結界守に据えるだけでも大胆ですのに、似た姿の怪異の調査まで任せるなんて。小神先生は寛大でいらっしゃいますわ」

「まだ、私が任を受けると決まったわけではありません」

「では、ご自身に心当たりがおありなの?」

「ありません」

 紅緒は迷わず答えた。

「昨夜はどちらにいらしたのかしら」

「結界神社です」

「お一人で?」

 ほんのわずかに、返事が遅れた。

「……そうです」

 瑠璃は微笑を深くした。

「それでは、何の証明にもなりませんわね」

「紅緒がやったって決まったわけじゃないでしょう」

 景真が口を挟むと、瑠璃の目が初めて彼へ向いた。

「あなたが例の異邦人、東春さんですの?」

「そうです」

「この世界の妖について何もご存じない方は、気楽でよろしいですわ。半妖の内に何が眠っているのか、ご本人にすら分からないかもしれませんのに」

「上霞城さんは、証拠がなくても血だけで疑うんですか?」

「血も立派な証左になり得ますわ」

「景真、行くわよ」

 紅緒は景真の言葉を遮り、歩き出した。

「でも――」

「小神先生をお待たせしているわ」

 背後から瑠璃の声が追ってくる。

「お気をつけて、大月さん。眠っていたのなら、その間のご自分まで否定はできませんでしょう?」

 取り巻きの小さな笑い声が重なった。

 紅緒は振り返らなかった。

 ただ、朝の戸口に残っていた足跡だけが、脳裏から離れなかった。


   *


 小夜の部屋には、瑞市区の地図と四枚の報告札が広げられていた。

「お呼び立てして、すみません」

 机の向こうで、小夜が穏やかに頭を下げる。黒髪をまとめた姿も、閉じたように細い目も普段と変わらない。ただ、左側の空の袖だけが、窓から入る風にわずかに揺れていた。

「お待たせしました、小夜さま」

「いいえ。紅緒さんも東春さんも、思ったより早かったですね」

 紅緒は机の前へ座り、景真も隣へ腰を下ろした。部屋の隅には記録役の陰陽生が二人控えている。二人とも紅緒と目を合わせようとはしなかった。

 小夜は地図の南側、瑞市区の外れにある古い社へ指を置いた。

「三日前から、この周辺で二人が行方不明になっています。昨夜は三人目が社の近くまで誘われましたが、途中で転び、何とか戻ることができました」

「何に誘われたんですか?」

 景真が尋ねる。

「本人は、銀髪の巫女だったと話しています。巫女の周囲には青白い火が浮かび、声をかけられていないのに、ついていかなければならないと思ったそうです」

 小夜が一枚目の報告札を紅緒の前へ滑らせた。

 ――銀の髪。赤い目。白と緋の装束。

 ――火の向こうに、獣の耳が見えた。

 ――腰に白い鞘の刀を差していた。

 紅緒は無言で文字を追った。どれも、町で紅緒を一度でも見た者なら思いつける特徴だった。

「寮内では、すでに私の仕業だという噂が広がっているようですね」

「噂は事実ではありません」

 小夜の声は穏やかだったが、はっきりしていた。

「ですが、確認は必要です。昨夜、銀髪の巫女が目撃されたのは丑の刻頃です。紅緒さんは、その時間どちらにいましたか?」

「結界神社で休んでいました」

「それを確認できる方はいますか?」

「……いません」

 部屋の隅で、筆が一度止まった。

「小夜さま。私は外へ出ていません」

「紅緒さんを疑っているわけではありません」

「では、なぜ私の所在をお尋ねになるのですか」

「紅緒さんの潔白を、私の信頼だけで済ませれば、かえってあなたを苦しめるからです」

 正しい言葉だった。

 小夜が紅緒をかばえば、寮内ではまた情による特別扱いだと言われる。だからこそ、事実として調べなければならない。

 それでも紅緒の胸には、冷たいものが沈んだ。

「失踪者の捜索と、目撃者への聞き取りを紅緒さんにお願いします」

「私に、ですか?」

「あなたと似た姿が使われている以上、ほかの者では見落とす違いがあるかもしれません。それに――このまま疑いだけが広がることを、私は望みません」

 小夜は景真へ顔を向けた。

「東春さんにも同行していただけますか」

「分かりました」

「小夜さま。景真は退魔師ではありません」

「承知しています。戦わせるつもりはありません。ただ、東春さんは、皆が同じだと思っているものの違いを見つけることがあります。今回も、その目をお借りしたいのです」

「危険になったら、ちゃんと退きます」

「これまで一度でも、素直に退いたことがあった?」

「必要なら退く」

「その必要を自分で決めるから問題なのよ」

 二人のやり取りに、小夜の口元がかすかに緩んだ。だが、すぐに紅緒へ向き直る。

「紅緒さん」

「はい」

「この件では、いつも以上に無理をしないでください」

「……何かご存じなのですか」

 小夜は一瞬、答えを選ぶように黙った。

「いいえ。今のところは何も」

 小夜の細い目は、いつもと変わらなかった。


   *


 陰陽寮を出ると、朝の雨雲は薄れ、大路に淡い日が差していた。

 紅緒は瑞市区へ向かって歩く。景真はしばらく黙って隣を進んでいたが、二つ目の辻を曲がったところで口を開いた。

「さっきの半妖って、紅緒のことなんだな」

「聞いていたでしょう」

「紅緒の口からは聞いてない」

 紅緒は前を向いたまま答えた。

「父は人間、母は妖狐よ。私はその間に生まれた半妖。これで満足?」

「そうか」

 返ってきたのは、それだけだった。

 紅緒は思わず横を見る。景真は驚いてはいたが、銀の髪や赤い瞳を気味悪そうに眺めてはいない。

「……ほかに何かないの?」

「だから陰陽寮で避けられてたのか、とは思った」

「半妖だと知って、それだけ?」

「何を言えばいいんだ?」

 本気で分かっていない顔だった。

「何も知らないだけね」

「知らないことは多い。でも、紅緒が何をしてきたかは少し知ってる」

「数日一緒にいただけでしょう」

「それでも、“半妖”って言葉を聞いたのは今が初めてだ。俺が知ってる紅緒は、その前から紅緒だ」

 紅緒の歩調が、ほんの一瞬だけ乱れた。

「……余計なことを言うのね」

「怒るところか?」

「知らないわ」

 紅緒は歩みを速めた。

 景真は何も知らない。妖が人を害してきた歴史も、半妖がどのように見られるかも。だから恐れないだけだ。

 そう結論づければよいはずだった。

 だが、瑠璃から真実を聞かされたあとも、景真の声も歩幅も変わらなかった。

 そのことが、胸の奥へ小さく残った。

 瑞市区へ入ると道幅が狭まり、低い家々の軒が近づいた。聞き取りを頼まれた家の前では、年嵩の女が水を撒いている。

 女は紅緒を見るなり、桶を取り落とした。

「銀の髪……」

 顔から血の気が引いていく。

「あの夜の巫女……」

「お待ちください。お話を――」

 紅緒が一歩踏み出すより早く、女は家へ逃げ込み、戸を閉めた。

 景真が閉ざされた戸と紅緒を見比べる。

「あの人、本気で紅緒だと思ってるのか」

「そう見えたのでしょうね」

「でも、紅緒は寝てたんだろ」

「ええ」

 答えた声は、思っていたより小さかった。

 昨夜、紅緒は眠っていた。

 少なくとも、そう思っている。

 けれど、戸が開いていた。庭には自分と同じほどの足跡が残っていた。

 眠っていた間の紅緒を、証明できる者はいない。

 そして、その時間の自分を見ていないのは――紅緒自身も同じだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ