第五話「狐火に映るもの」①
夜明け前の結界神社には、昨夜の雨が残っていた。
拝殿の屋根から落ちる雫が、一定の間を置いて石畳を打つ。大月紅緒は寝所を出ると、半ば開いた戸の前で足を止めた。
昨夜、戸は確かに閉めた。
風で開くほど軽い戸ではない。それでも今朝は、人ひとりが通れるほどの隙間ができていた。
紅緒は腰を落とし、戸口を確かめた。傷も、こじ開けた跡もない。外から術を使った気配も感じられなかった。
「……私が開けたの?」
口にした言葉が、朝の静けさへ頼りなく消えた。
眠りが浅かった覚えはない。夢も見ていない。夜中に目を覚ました記憶も、外へ出た記憶もなかった。
縁側へ出ると、湿った土の上に浅い足跡が残っていた。戸口から庭へ三歩。そこから先は石畳に重なり、鳥居の方角へ続いているのか判然としない。
足跡の大きさと形は、紅緒の草履跡によく似ていた。
戸の閉め忘れ。昨夜の雨。自分の記憶違い。説明なら、いくらでもつく。
そのはずだった。
「紅緒、起きてるか?」
鳥居の向こうから東春景真の声がした。紅緒は足跡から目を離し、いつもの顔で振り返った。
「朝から大声を出さないで。起きているわよ」
景真は片手に木桶を提げていた。御伽館から借りたものらしく、歩くたびに中の水が危なっかしく揺れている。
「昨日、水が足りないって言ってただろ」
「頼んではいないわ」
「足りないのは本当なんだな」
「……そこの瓶へ入れて」
返事だけは素直に、景真は社務所の方へ向かった。注連縄の前で立ち止まり、紅緒を見る。
「ここ、越えていいんだよな?」
「昨日も教えたでしょう」
「確認した方がいいと思って」
「その判断だけは間違っていないわ」
「今、褒めた?」
「いいえ」
景真が不満そうに木桶を抱え直したところで、紙の羽音が鳥居をくぐった。
一羽の紙鳥が紅緒の前を旋回し、差し出した手のひらへ降りる。折り目がほどけ、小神小夜の筆跡が現れた。
――紅緒さん、東春さん。至急、陰陽寮までお越しください。南の瑞市区で、人の失踪を伴う怪異が発生しています。
「また事件か」
「あなたも呼ばれているわ。すぐ支度をして」
「紅緒は?」
「私はこのままで行くわ」
紅緒は札袋を腰へ結び、白鞘の刀を差した。
紙の端には、もう一行だけ書き添えられていた。
――目撃されたのは、銀の髪をした巫女だそうです。
*
陰陽寮の東門をくぐった瞬間から、紅緒は周囲の空気が変わるのを感じた。
廊下の先で話していた陰陽生たちが声を落とす。書庫から出てきた若い男は、紅緒と目が合うと巻物を胸へ抱え、わざわざ壁際まで下がった。
袖が触れないほど離れている。それでも彼は、紅緒が通り過ぎるまで息を詰めていた。
いつものことだった。
「今の、知り合いか?」
「いいえ」
「じゃあ、何であんなに避けるんだ?」
「景真」
紅緒は名だけを呼び、先を促した。理由を説明したところで、陰陽寮の空気が変わるわけではない。
小夜の部屋へ続く渡り廊下へ差しかかったところで、三人の女子陰陽師が前から歩いてきた。
中央の女は腰まで届く明るい金髪を半ば結い上げ、左側の前髪だけを細く編み込んでいる。瑠璃色の吊り目が紅緒を認めると、整った唇に笑みが浮かんだ。
「ごきげんよう、大月さん」
上霞城瑠璃。結界術の名門、上霞城家の令嬢であり、紅緒より一つ上の階級にある陰陽師だった。
その後ろにいる二人は従者ではない。家柄と実力を慕い、勝手について歩いている女子陰陽師たちだ。紅緒を見るなり、一人は露骨に眉をひそめ、もう一人は瑠璃の背へ隠れるように半歩下がった。
「おはようございます、上霞城さま」
「今朝も結界神社からお越しになったのね。小神先生は、本当に大月さんを頼りになさっているようですわ」
「お呼び出しを受けましたので」
「銀髪の巫女が、人を連れ去ったという件でしょう?」
紙鳥には、銀髪の巫女が目撃されたとしか書かれていない。だが、寮内にはすでに詳しい噂が回っているらしい。
瑠璃の後ろで、一人が口元を袖で隠した。
「青白い火をまとい、夜道から人を連れ去るそうです。まるで妖狐のようですわね」
「およしなさい」
瑠璃はたしなめたが、声に咎める響きはなかった。
「大月さんのお母様が妖狐であることも、その血を受け継いでいらっしゃることも、隠された事実ではありませんもの。似ていると申し上げただけですわ」
景真が紅緒を見る。
人の父と、妖狐の母。その間に生まれた半妖。それが大月紅緒だった。
紅緒は自分から話していない。幽世へ来て間もない景真が知るはずもなかった。
「半妖を結界守に据えるだけでも大胆ですのに、似た姿の怪異の調査まで任せるなんて。小神先生は寛大でいらっしゃいますわ」
「まだ、私が任を受けると決まったわけではありません」
「では、ご自身に心当たりがおありなの?」
「ありません」
紅緒は迷わず答えた。
「昨夜はどちらにいらしたのかしら」
「結界神社です」
「お一人で?」
ほんのわずかに、返事が遅れた。
「……そうです」
瑠璃は微笑を深くした。
「それでは、何の証明にもなりませんわね」
「紅緒がやったって決まったわけじゃないでしょう」
景真が口を挟むと、瑠璃の目が初めて彼へ向いた。
「あなたが例の異邦人、東春さんですの?」
「そうです」
「この世界の妖について何もご存じない方は、気楽でよろしいですわ。半妖の内に何が眠っているのか、ご本人にすら分からないかもしれませんのに」
「上霞城さんは、証拠がなくても血だけで疑うんですか?」
「血も立派な証左になり得ますわ」
「景真、行くわよ」
紅緒は景真の言葉を遮り、歩き出した。
「でも――」
「小神先生をお待たせしているわ」
背後から瑠璃の声が追ってくる。
「お気をつけて、大月さん。眠っていたのなら、その間のご自分まで否定はできませんでしょう?」
取り巻きの小さな笑い声が重なった。
紅緒は振り返らなかった。
ただ、朝の戸口に残っていた足跡だけが、脳裏から離れなかった。
*
小夜の部屋には、瑞市区の地図と四枚の報告札が広げられていた。
「お呼び立てして、すみません」
机の向こうで、小夜が穏やかに頭を下げる。黒髪をまとめた姿も、閉じたように細い目も普段と変わらない。ただ、左側の空の袖だけが、窓から入る風にわずかに揺れていた。
「お待たせしました、小夜さま」
「いいえ。紅緒さんも東春さんも、思ったより早かったですね」
紅緒は机の前へ座り、景真も隣へ腰を下ろした。部屋の隅には記録役の陰陽生が二人控えている。二人とも紅緒と目を合わせようとはしなかった。
小夜は地図の南側、瑞市区の外れにある古い社へ指を置いた。
「三日前から、この周辺で二人が行方不明になっています。昨夜は三人目が社の近くまで誘われましたが、途中で転び、何とか戻ることができました」
「何に誘われたんですか?」
景真が尋ねる。
「本人は、銀髪の巫女だったと話しています。巫女の周囲には青白い火が浮かび、声をかけられていないのに、ついていかなければならないと思ったそうです」
小夜が一枚目の報告札を紅緒の前へ滑らせた。
――銀の髪。赤い目。白と緋の装束。
――火の向こうに、獣の耳が見えた。
――腰に白い鞘の刀を差していた。
紅緒は無言で文字を追った。どれも、町で紅緒を一度でも見た者なら思いつける特徴だった。
「寮内では、すでに私の仕業だという噂が広がっているようですね」
「噂は事実ではありません」
小夜の声は穏やかだったが、はっきりしていた。
「ですが、確認は必要です。昨夜、銀髪の巫女が目撃されたのは丑の刻頃です。紅緒さんは、その時間どちらにいましたか?」
「結界神社で休んでいました」
「それを確認できる方はいますか?」
「……いません」
部屋の隅で、筆が一度止まった。
「小夜さま。私は外へ出ていません」
「紅緒さんを疑っているわけではありません」
「では、なぜ私の所在をお尋ねになるのですか」
「紅緒さんの潔白を、私の信頼だけで済ませれば、かえってあなたを苦しめるからです」
正しい言葉だった。
小夜が紅緒をかばえば、寮内ではまた情による特別扱いだと言われる。だからこそ、事実として調べなければならない。
それでも紅緒の胸には、冷たいものが沈んだ。
「失踪者の捜索と、目撃者への聞き取りを紅緒さんにお願いします」
「私に、ですか?」
「あなたと似た姿が使われている以上、ほかの者では見落とす違いがあるかもしれません。それに――このまま疑いだけが広がることを、私は望みません」
小夜は景真へ顔を向けた。
「東春さんにも同行していただけますか」
「分かりました」
「小夜さま。景真は退魔師ではありません」
「承知しています。戦わせるつもりはありません。ただ、東春さんは、皆が同じだと思っているものの違いを見つけることがあります。今回も、その目をお借りしたいのです」
「危険になったら、ちゃんと退きます」
「これまで一度でも、素直に退いたことがあった?」
「必要なら退く」
「その必要を自分で決めるから問題なのよ」
二人のやり取りに、小夜の口元がかすかに緩んだ。だが、すぐに紅緒へ向き直る。
「紅緒さん」
「はい」
「この件では、いつも以上に無理をしないでください」
「……何かご存じなのですか」
小夜は一瞬、答えを選ぶように黙った。
「いいえ。今のところは何も」
小夜の細い目は、いつもと変わらなかった。
*
陰陽寮を出ると、朝の雨雲は薄れ、大路に淡い日が差していた。
紅緒は瑞市区へ向かって歩く。景真はしばらく黙って隣を進んでいたが、二つ目の辻を曲がったところで口を開いた。
「さっきの半妖って、紅緒のことなんだな」
「聞いていたでしょう」
「紅緒の口からは聞いてない」
紅緒は前を向いたまま答えた。
「父は人間、母は妖狐よ。私はその間に生まれた半妖。これで満足?」
「そうか」
返ってきたのは、それだけだった。
紅緒は思わず横を見る。景真は驚いてはいたが、銀の髪や赤い瞳を気味悪そうに眺めてはいない。
「……ほかに何かないの?」
「だから陰陽寮で避けられてたのか、とは思った」
「半妖だと知って、それだけ?」
「何を言えばいいんだ?」
本気で分かっていない顔だった。
「何も知らないだけね」
「知らないことは多い。でも、紅緒が何をしてきたかは少し知ってる」
「数日一緒にいただけでしょう」
「それでも、“半妖”って言葉を聞いたのは今が初めてだ。俺が知ってる紅緒は、その前から紅緒だ」
紅緒の歩調が、ほんの一瞬だけ乱れた。
「……余計なことを言うのね」
「怒るところか?」
「知らないわ」
紅緒は歩みを速めた。
景真は何も知らない。妖が人を害してきた歴史も、半妖がどのように見られるかも。だから恐れないだけだ。
そう結論づければよいはずだった。
だが、瑠璃から真実を聞かされたあとも、景真の声も歩幅も変わらなかった。
そのことが、胸の奥へ小さく残った。
瑞市区へ入ると道幅が狭まり、低い家々の軒が近づいた。聞き取りを頼まれた家の前では、年嵩の女が水を撒いている。
女は紅緒を見るなり、桶を取り落とした。
「銀の髪……」
顔から血の気が引いていく。
「あの夜の巫女……」
「お待ちください。お話を――」
紅緒が一歩踏み出すより早く、女は家へ逃げ込み、戸を閉めた。
景真が閉ざされた戸と紅緒を見比べる。
「あの人、本気で紅緒だと思ってるのか」
「そう見えたのでしょうね」
「でも、紅緒は寝てたんだろ」
「ええ」
答えた声は、思っていたより小さかった。
昨夜、紅緒は眠っていた。
少なくとも、そう思っている。
けれど、戸が開いていた。庭には自分と同じほどの足跡が残っていた。
眠っていた間の紅緒を、証明できる者はいない。
そして、その時間の自分を見ていないのは――紅緒自身も同じだった。




