第五話「狐火に映るもの」②
閉ざされた戸の向こうで、女の荒い息遣いが続いていた。
紅緒は無理に戸を叩かなかった。軒下から一歩下がり、家の中へ届く程度に声を落とす。
「陰陽寮から調査に参りました。あなたを疑うためではありません。昨夜見たものを、覚えている範囲で教えてください」
返事はない。代わりに、戸板が内側から軋んだ。女が背を押しつけているのだろう。
「顔を合わせるのが怖いのでしたら、このままで構いません」
しばらくして、戸の向こうから掠れた声がした。
「……あんた、本当に、あれじゃないのかい」
「違います」
「けれど、同じ顔だった。銀の髪で、赤い目で……笑っていた」
紅緒の眉がわずかに動いた。
「どのように?」
「口が、耳まで裂けるみたいに。頭には獣の耳があった。尾も……たくさん揺れていたよ」
「何本でしたか?」
「分からない。五本か、九本か……火の中で増えていた」
報告札に記されていたのは、耳が見えたという証言だけだった。尾についての記載はない。
「武器は持っていましたか?」
「弓を持っていた。あんたの背丈よりも大きな、真っ白な弓を」
紅緒は景真と目を合わせた。報告札には白鞘の刀とあった。
「その巫女は、何か話しましたか?」
「何も。けれど、呼ばれた気がしたんだ。ついていかなければ、家族に災いがあるような……」
声が震え、そこで途切れた。
「ありがとうございます。もう結構です」
紅緒が頭を下げると、景真も戸へ向かって軽く礼をした。二人が離れかけたとき、戸の向こうから女が呼び止めた。
「あの巫女は……本当に、あんたじゃないのかい」
紅緒は一拍だけ黙った。
「ええ。私ではありません」
今度も、言葉は迷わず出た。だが、朝より少しだけ強く言わなければならなかった。
次に話を聞いたのは、昨夜逃げ帰った若い商人だった。彼は紅緒を見るなり青ざめたものの、景真が間に座ることで、どうにか話を続けた。
「顔はよく見えませんでした。髪は銀色でしたが、ずっと俯いていて」
「笑ってはいなかったの?」
「はい。泣いていたようにも見えました。獣の耳などありません。尾も見ていません」
「武器は?」
「刀です。白い鞘の……いえ、抜いた刃が白かったのかもしれません」
先ほどの女とは、あまりに違う。
共通しているのは、銀髪の巫女だったということ。赤い目と白緋の装束。そして、青白い火に囲まれていたことだけだった。
景真は二人分の聞き書きを見比べ、首を傾げた。
「同じものを見た話には聞こえないな」
「夜の恐怖で、記憶が曖昧になったのでしょう」
「二人とも、紅緒に似てたことだけははっきりしてる」
「……そうね」
紅緒は短く答え、次の聞き取り先へ歩き出した。
*
瑞市区を回る間にも、噂は形を変えて広がっていた。
銀髪の巫女は、妖狐の耳と九本の尾を持つ。人の名を呼び、魂を抜く。結界神社から夜ごと現れ、朝には何食わぬ顔で戻る。
紅緒が聞いたこともない話まで、町の者たちは昨日から知っていた事実のように語った。
通りを歩けば、戸が閉まる。母親が子どもの肩を抱き寄せる。露店の男は、紅緒が近づく前に品物へ布をかけた。
陰陽寮では慣れている。そう思っていた。
けれど、町の者に向けられる恐れは、職場で受ける冷たい視線とは違った。紅緒が守るべき相手が、紅緒から守られようとしている。
「少し休まないか」
景真が声をかけた。
「必要ないわ」
「朝から何も食べてないだろ」
「調査が先よ」
「さっきから同じ記録を三回読んでる」
紅緒の指が止まった。手にした聞き書きには、確かに先ほどの女の証言が記されている。次の家へ向かうつもりで、無意識に同じ札を開いていた。
「……確認していただけよ」
「そういうことにしておく」
景真はそれ以上追及せず、道端の店で包みを二つ買った。紅緒へ一つ差し出す。
「何?」
「握り飯。毒は入ってない」
「疑っていないわ」
「今の紅緒なら、食べなくていい理由を五つくらい並べそうだから」
「失礼ね」
そう言いながら受け取った。まだ温かい。
二人は人通りの少ない水路脇に腰を下ろした。景真は食べながら聞き書きを並べる。
「笑ってた。泣いてた。耳があった。なかった。尾が九本。尾は見てない。弓を持ってた。刀を持ってた」
「見間違いでしょう」
「全員が同じ見間違いをするなら分かる。でも、違いすぎないか?」
「だからといって、何が分かるの?」
「まだ分からない」
景真はあっさり認めた。
「ただ、銀髪の巫女って噂を先に知っていた人ほど、紅緒に似た話をしている気がする」
紅緒は握り飯を持つ手を止めた。
「最初の失踪者は、まだ見つかっていないわ。噂が広がる前に何を見たのか、確かめようがない」
「だから、まだ気がするだけだ」
景真は聞き書きを畳んだ。核心をつかんだ顔ではない。それでも、周囲と同じように紅緒へ答えを求めず、証言そのものを見ていた。
そのことに安堵した自分を、紅緒は認めたくなかった。
*
午後、二人は失踪者が消えた古社へ入った。
瑞市区の南端、家並みが途切れた先にある小さな社だった。長く祀る者を失ったらしく、鳥居は傾き、石段の隙間から草が伸びている。
境内には昨夜の雨が残っていた。だが、人が二人も連れ込まれたにしては足跡が少ない。
紅緒は札を一枚取り出し、指先で印を結んだ。
「散」
札が淡く発光し、境内を撫でるように霊気が広がる。拝殿の脇で、青白い火の粉のようなものが一瞬だけ浮かび、消えた。
「妖気か?」
「ええ。ただし、かなり薄いわ。妖怪が長く留まった跡には見えない」
「じゃあ、人を連れてきたあと、すぐ消えた?」
「それなら、失踪者の気配が残るはずよ」
紅緒は拝殿の裏へ回った。そこには人一人が通れる獣道があり、さらに奥へ雑木林が続いている。道の入口近くで、地面が黒く焼けていた。
火を焚いた跡ではない。輪郭が細く、紙片ほどの長方形をしている。
「札の跡?」
景真がしゃがみ込む。
「触らないで」
紅緒は黒い跡へ手をかざした。術式の残響はほとんどない。雨に流されたのではなく、初めから痕跡を残さないよう消えたようだった。
「何かの術が使われた可能性はあるわ。でも、これだけでは断定できない」
「紅緒の術じゃないんだな」
「少なくとも、普段私が使う札の跡ではないわ」
景真は小さく息を吐いた。安堵したように見え、紅緒は目を細める。
「私が使ったかもしれないと思っていたの?」
「違う。紅緒自身がそう思わなくて済む証拠が、一つ見つかったと思った」
「私は最初から、自分ではないと言っているわ」
「ああ」
景真は否定しなかった。
その優しさが、かえって胸に刺さった。自分の声が朝より弱くなっていることを、彼には気づかれているのかもしれない。
林の奥を探したが、失踪者は見つからなかった。代わりに、木の根元から片方だけの草履が見つかった。最初に消えた男のものだと、近隣の者が確認した。
夕刻、陰陽寮から新たな紙鳥が飛んできた。
――昨夜の目撃者がもう一人判明。銀髪の巫女を見たのは、子の刻を過ぎた頃。場所は結界神社から瑞市区へ向かう大路。
紅緒は紙片を握りしめた。
子の刻。昨夜、自分が床へ入ったあとの時間だった。
しかも、目撃場所は結界神社から瑞市区へ向かう道。朝、庭の足跡が途切れた先にある鳥居と、同じ方角だった。
「紅緒」
「戻りましょう。日が落ちるわ」
景真の顔を見ずに、紅緒は歩き出した。
*
結界神社へ戻る頃には、空は濃い藍に染まっていた。
景真を御伽館へ帰したあと、紅緒は朝の足跡を調べ直した。雨上がりの陽気で土は乾き始め、輪郭は崩れている。
足跡の大きさと形は、紅緒の草履跡によく似ていた。だが、三つの跡は妙に整いすぎているようにも見えた。
そう考えた直後、紅緒は首を振った。
自分に都合のよい見方を選んでいるだけかもしれない。実際に歩いた記憶がないから、偽物だと思いたいだけかもしれない。
戸を閉め、今度は何度も確かめた。
夜が深まっても、紅緒は床へ入らなかった。社務所に灯りをともし、机に向かって札を書き続ける。
一枚目は、墨がわずかに滲んだ。
二枚目は、最後の一画が足りなかった。
三枚目は、途中まで同じ過ちを繰り返していた。
紅緒は筆を置き、震える指をもう一方の手で握った。
「……何をしているの、私は」
眠らなければいい。
今夜、銀髪の巫女が現れなければ、自分への疑いは深まる。それでも、誰かが消えるよりはましだった。
だが、眠らずにいることで怪異が現れなければ、それは何を意味するのか。
考えないようにするほど、瑠璃の言葉が蘇る。
――眠っていたのなら、その間のご自分まで否定はできませんでしょう?
紅緒は両手で顔を覆った。
「本当に……私ではないの?」
声にした瞬間、胸の奥で張りつめていたものが軋んだ。
「もし、覚えていないだけなら……」
人を守るために学んだ術が、眠っている間に人を害しているのなら。母から受け継いだ血の中に、自分の知らない何かが潜んでいるのなら。
答える者はいない。信じていたはずの自分の記憶さえ、今は頼りなく思えた。
廊下で、板が小さく鳴った。
紅緒は弾かれたように顔を上げ、刀へ手を伸ばす。
「誰!」
「俺だ」
障子の向こうから、景真の声がした。
紅緒は息を止めた。
「……帰ったのではなかったの?」
「帰る途中で、朝から紅緒が妙に無理してたのを思い出した。戻ってきたら、まだ灯りがついてた」
「勝手に入らないで」
「入ってない。ここで止まってる」
障子一枚を挟んで、沈黙が落ちた。どこから聞かれていたのか、紅緒には尋ねられなかった。
「今のは忘れて」
「無理だ」
「景真」
「紅緒が怖がってることを、なかったことにはできない」
紅緒は唇を噛んだ。慰められたくなかった。まして、憐れまれたくなどない。
「……もし、私だったらどうするの?」
言ってから後悔した。こんな問いを景真へ向けるつもりはなかった。
障子の向こうで、景真はすぐには答えなかった。
「止める」
予想していたのに、その言葉で胸が沈んだ。
「そう」
「でも、本当に紅緒がやったのかは、ちゃんと調べる」
「私がやったと言っているのに?」
「覚えてないなら、紅緒にも分からないだろ」
紅緒は顔を上げた。
「だから、紅緒の言葉だけで犯人にもしないし、違うとも決めない。見つけたことを一つずつ確かめる」
「……簡単に言うのね」
「簡単じゃない。だから今日、聞いて回ったんだ」
景真の声は、いつもと同じだった。半妖だと知る前と、何も変わらない。
「今夜はここにいる」
「必要ないわ」
「紅緒が眠ってる間、戸の前にいる。それなら少なくとも、ここから出ていないことは俺が見てる」
「小夜さまの許可もなく――」
「明日の朝に怒られる」
「そういう問題ではないわ」
「じゃあ、今から小夜さんに連絡するか?」
「連絡は必要ないわ。夜明け前には戻りなさい」
許すべきではない。景真を巻き込む理由もない。それでも、一人で朝を待つことを思うと、拒む言葉が喉につかえた。
紅緒はしばらく迷った末、朝、寝所の戸が開いていたことと、庭に自分のものによく似た足跡が残っていたことを話した。
「それを、今まで黙っていたのか」
「確かな証拠ではないもの。けれど……私には、無関係だと言い切れなかった」
障子の向こうで、景真が短く息を吐いた。
「分かった。朝になったら、その足跡も見せてくれ」
「……廊下は冷えるわよ」
「毛布を借りる」
「勝手にしなさい」
ようやくそれだけ言って、紅緒は筆を置いた。
眠ることへの恐怖は消えていない。自分への疑いも晴れてはいない。
それでも今夜、自分が戸を出るかどうかを見ている者がいる。
その事実だけを頼りに、紅緒は灯りを落とした。




