第五話「狐火に映るもの」③
目を覚ましたとき、障子の向こうにはまだ人の気配があった。
紅緒は床の中でしばらく動かず、昨夜の記憶をたどった。丑の刻を告げる鐘が鳴るまでは、障子の向こうから景真の衣擦れの音が続いていた。夜半、一度だけ目を覚ましたときには、小さなくしゃみも聞こえた。戸が開く音も、自分が立ち上がった覚えもない。
身を起こして障子を開けると、景真は廊下の柱にもたれ、借りた毛布へくるまっていた。頭が傾き、口がわずかに開いている。見張ると言った本人が眠っていては意味がない、と呆れかけたところで、その目が開いた。
「起きたか」
「……眠っていたでしょう」
「少しだけだ。紅緒が動けば分かるくらいには浅く寝てた」
「ずいぶん都合のよい言い訳ね」
景真は肩を回しながら立ち上がった。
「でも、戸は一度も開いてない。紅緒も外へ出てない」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に張りついていた冷たいものが、ほんの少しだけ緩んだ。
紅緒はそれを悟られないよう、縁側へ視線を移した。昨夜何度も確かめた戸は、閉じたままだった。庭の足跡も、乾き始めた土の上に三つだけ残っている。
「朝話した足跡、見せてくれ」
紅緒は黙って庭を指した。景真は草履を履き、跡の前へしゃがみ込む。指で触れようとして、途中で手を止めた。
「触らない方がいいんだろ?」
「ええ。ようやく学んだのね」
景真は横から覗き込み、何度か自分の足を置くように動かした。
「これ、歩いた跡じゃない」
「なぜそう思うの?」
「三つとも向きが同じで、深さも同じだ。歩くなら、踏み出す足と残る足で力のかかり方が違う。それに、一歩目から三歩目まで間隔がぴったりすぎる」
紅緒も昨夜、似た違和感を覚えていた。しかし、自分に都合よく見ているだけだと退けたものだった。
景真は戸口を見上げる。
「戸も、外から開けられた可能性がある」
「外から術を使った気配はなかったわ」
「術じゃなくても、少し開けるだけなら道具でできる。中に入る必要もない」
「……誰かが、私にそう思わせるために?」
景真はすぐには答えなかった。足跡と戸を見比べ、ゆっくり頷く。
「たぶん。紅緒が犯人なら、自分の家に自分の足跡を三つだけ残す理由がない」
紅緒は足跡を見つめた。自分が疑いを抱いたのは、証拠が確かだったからではない。自分の中に妖の血があるという、ずっと押し込めてきた恐れに触れられたからだ。
そのとき、一羽の紙鳥が鳥居をくぐった。紅緒の手のひらで折り目をほどき、小夜の筆跡を見せる。
――昨夜、丑の刻頃にも銀髪の巫女が目撃されました。場所は瑞市区の西端。新たな失踪者は確認されていません。
景真が紙を覗き込んだ。
「丑の刻なら、俺はまだ起きてた。その時間、紅緒はここにいた」
「ええ」
今度は迷わず答えられた。
ただし、それを知るのは二人だけだった。小夜へ連絡をしていない以上、陰陽寮に紅緒のアリバイを証明するものはない。
「このことは、まだ誰にも言わないで」
「何でだ?」
「あなたがここにいたと公にすれば、勝手に結界神社へ泊まり込んだことまで説明しなければならないわ。それに、今の段階で私だけを信じて行動したと知られれば、あなたまで疑われる」
「別に、疑われても――」
「私は困るの」
強く言うと、景真は口を閉じた。
紅緒自身にも、別の理由をうまく説明できなかった。景真まで余計な疑いを受けることを避けたかった。ただ、それだけのはずだった。
*
昼前、二人は再び瑞市区へ入った。
紅緒は陰陽寮へ、目撃者ごとに銀髪の巫女の姿や所持品が大きく食い違っているため、自身とは別の怪異である可能性があると報告した。景真が見張っていたことには触れなかった。小夜からは、引き続き調査を進めるよう返事が届いた。
昨日よりも噂は広がっていた。銀髪の巫女は九本の尾で人を絡め取る。いや、尾などなく、人の影へ溶ける。泣きながら助けを求め、近づいた者を連れ去る。笑いながら名を呼び、魂だけを抜き取る。
同じ怪異について語っているはずなのに、話す者が変わるたび姿も振る舞いも変わった。
景真は聞き書きの束を道端へ広げた。
「最初の女は、妖狐が怖いって言ってた」
「ええ。幼い頃、近隣の村を妖狐に荒らされたそうよ」
「だから、耳と九本の尾を見た」
次の札を指す。
「商人は、陰陽寮の巫女は冷たくて怖いって思ってた。そいつが見たのは、白い刀を持って俯いた巫女だ」
「それだけで、見たものが変わるとは限らないわ」
「でも、噂を知らなかった人の話は、ずっと曖昧なんだ」
景真は新たに聞き取った老爺の記録を差し出した。老爺が見たのは、青白い火の中に立つ人影だけだった。髪の色も顔も分からず、巫女だと知ったのは翌朝、周囲の者から聞いてからだという。
「銀髪の巫女を先に知っていた人ほど、紅緒を詳しく見てる。しかも、その人が怖いと思ってる紅緒になってる」
紅緒は聞き書きを順に見た。
笑っていた自分。泣いていた自分。獣の耳と尾を持つ自分。刀を持つ自分。弓を持つ自分。
どれも紅緒ではない。だが、人々が紅緒の中に見ようとしてきたものではあった。
「姿を写す妖怪……」
紅緒の記憶に、古い講義の一節が浮かぶ。
「知ってるのか?」
「写し火という妖がいるわ。本来は、旅人の記憶や恐れにある姿を炎の中へ映すだけの、小さな妖怪よ。人を連れ去るほどの力はないし、同じ姿を長く保つこともできない」
「でも、あの社には札の跡があった」
「ええ。何者かが写し火の性質を歪め、人を誘う力を与えたと考えれば……」
誰かが先に銀髪の巫女の噂を流した。噂を聞いた人々が紅緒を思い浮かべ、恐れた。その思いを写し火が取り込み、紅緒の姿として現れたのかもしれない。
さらに、紅緒が眠っている時刻を選んで写し火を動かし、戸と足跡へ細工した者がいるのだとすれば、すべてがつながる。
そして紅緒が眠っている時刻を選び、戸と足跡へ細工した。
「最初から、私を疑わせるために仕組まれた可能性が高いのね」
紅緒の声は静かだった。胸の内では、恐怖の代わりに別の熱が生まれていた。
自分を陥れた者への怒りだけではない。自分の血を恐れ、相手の望むまま自分まで疑ってしまったことへの悔しさだった。
「まだ証拠はない」
景真が言った。
「分かっているわ。でも、もう自分を疑う理由もない」
紅緒は聞き書きを束ねた。指先の震えは止まっていた。
*
次に必要なのは、写し火が現れる場所を見つけることだった。
これまでの目撃地点を地図へ落とすと、古社を中心に広がっているように見える。だが、景真は地点ではなく、噂が広まった順番に印を付けた。
最初は瑞市区南端の酒場。その翌日に市場。次いで水路沿いの長屋。そして昨夜は西端の共同井戸。
「場所じゃなくて、噂を聞いた人が集まるところを移ってる」
「写し火が人の恐れへ引き寄せられているか、何者かが噂の広がった場所へ誘導しているのなら、あり得るわね」
「次に可能性が高いのは、ここだ」
景真が指したのは、瑞市区北側の小さな辻堂だった。夕刻になると、仕事を終えた者たちが立ち寄り、噂話を交わす場所だという。銀髪の巫女の話も、その日の昼から急に広まり始めていた。
日が沈む前、和弓を背負った紅緒と景真は、辻堂近くの路地へ身を隠した。紅緒は気配を抑える札を貼り、景真には決して一人で動かないよう念を押した。
「聞いたな。ここから出ないで」
「分かってる」
「返事が軽いわ」
「ちゃんと分かってる」
酉の刻を過ぎ、人通りが途絶え始めた頃。辻堂の裏から、青白い火が一つ浮かんだ。
続いて二つ、三つ。宙を漂う火の間に、細い人影が立ち上がる。
銀色の長い髪。白と緋の巫女装束。腰には白鞘の刀。額の上には尖った獣の耳が見え、背後では幾本もの尾が揺れていた。
紅緒自身の目にも、それは紅緒に似ていた。
だが、似ているだけだった。笑みは大きすぎ、目は赤すぎる。半妖を恐れる者が思い描いた、妖狐の本性を現した紅緒の姿。
人影が路地の前を通り過ぎようとしたとき、遠くから男の声がした。
「銀髪の巫女だ!」
見張っていた町人らしい。恐怖を含んだ声が響くと、人影の尾が一気に九本へ増え、口元が裂けるように広がった。直後、駆け去る足音が遠ざかっていく。
「恐れを受けて、姿が固まっている……」
紅緒が小声で言った、その瞬間だった。
隣にいたはずの景真が路地の外へ一歩出た。
「景真!」
「確かめたいことがある」
「戻りなさい!」
写し火が景真へ顔を向ける。青白い炎が揺れ、紅緒の形を取っていた輪郭がぶれた。
九本あった尾が三本になり、一本になり、消える。獣の耳は片方だけ残り、白鞘の刀は弓へ変わったかと思うと、次の瞬間には何も握っていなかった。
顔も定まらない。紅緒に似た目元が現れては崩れ、知らない女の顔へ変わる。
写し火は景真を恐れさせるための紅緒を、作ることができずにいた。
「やっぱりだ」
景真は目の前の怪異を見据えた。
「こいつは紅緒を真似てるんじゃない。見てるやつが思ってる紅緒になってる」
写し火の炎が激しく乱れた。人影の内側に、一瞬だけ小さな獣のような黒い影が見える。
その胸元には、焦げた札が貼りついていた。
紅緒は息を呑んだ。
古社で見つけた焼け跡と、同じ大きさだった。
偶然ではない。やはり、何者かが写し火を使って紅緒を陥れようとしていたのだ。そして、その仕掛けを崩したのは景真だった。
このことを、術者に知られてはならない。朝には形のなかった不安が、ようやく理由を持った。
*
写し火が甲高い声を上げた。
青白い炎が膨らみ、景真へ伸びる。紅緒は路地から飛び出し、景真の襟をつかんで引き倒した。炎が二人の頭上を薙ぎ、壁へ触れた部分だけが黒く変色する。
「一人で動かないでと言ったでしょう!」
「ごめん。でも、見えた」
「次に勝手なことをしたら、私が先にあなたを止めるわ」
紅緒は景真を背へかばい、左手を前へ出した。
写し火は再び紅緒の姿を作ろうとする。しかし、景真の視線がある限り、輪郭は定まらない。紅緒の顔と、獣の顔と、名も知らぬ女の顔が炎の中で入れ替わる。
「紅緒、胸の札だ」
「見えてるわ」
紅緒は背から、身の丈ほどある和弓を抜き取った。左手で弓を構え、右手の指を弦へ掛ける。指先へ集まった淡い光が引き伸ばされ、一本の霊矢として編み上がった。
昨日までなら、目の前の姿を見て一瞬ためらっていたかもしれない。自分の知らない自分ではないかと、疑っていたかもしれない。
もう迷いはなかった。
あれは紅緒ではない。人々の恐れが作った貌を、何者かが利用しているだけだ。
「景真。ここから先は下がって」
「今度は退く」
「いつもそうして」
景真が路地へ戻ったのを確かめ、紅緒は弓を構えた。
狙うのは写し火そのものではない。胸元に打ち込まれた札だけだ。札を壊せば、本来の弱い妖へ戻せる可能性がある。
写し火が腕を広げる。周囲の炎が数を増し、辻堂全体を包もうと渦巻いた。
紅緒は息を吐き、弦を引き絞る。
背後から景真の声がした。
「紅緒」
「何?」
「今の顔の方が、いつもの紅緒だ」
「……戦いの最中に余計なことを言わないで」
そう返した自分の声が、昨夜よりずっと確かなものだと分かった。
光の矢先が、写し火の胸にある札を捉える。
紅緒は迷いなく、指を放した。




