第五話「狐火に映るもの」④
放たれた霊矢は、青白い炎をまっすぐに貫いた。
写し火の胸元に貼りついた札へ光の矢先が触れた瞬間、乾いた破裂音が響く。札の表面を走った墨線が赤黒く明滅し、周囲の炎が一斉に膨れ上がった。
紅緒は弓を握ったまま、一歩も退かなかった。
札だけを壊すつもりだった。だが、術式は写し火の内側へ深く食い込み、妖の力と無理に結びつけられている。札が裂ければ、その反動が写し火にも返る。
「耐えて」
呼びかけが届いたのかは分からない。
炎の中で、銀髪の巫女の姿が激しく崩れた。九本の尾が絡み合い、白鞘の刀と和弓が交互に現れては消える。紅緒の顔、獣の顔、泣く女の顔が幾重にも重なった。
やがて胸元の札が中央から裂けた。
黒い文字が火の粉となって舞い、札の半分が燃え落ちる。写し火は細い悲鳴を上げ、辻堂の壁へ身を叩きつけた。青白い炎が路地いっぱいに散った。
札はまだ完全には外れていない。裂けた半分が妖の胸へ焼きつき、残った術式が写し火を立たせようとしていた。
紅緒は弓を背へ戻し、両手で新たな札を構えた。
「縛」
地面へ落ちた札から光の縄が伸び、揺らぐ人影を包み込む。写し火は紅緒の姿を取ろうとしたが、もう輪郭を保てなかった。銀髪は炎へ溶け、巫女装束も崩れ、最後に残ったのは掌ほどの小さな黒い獣影だった。
それは怯えたように身を丸め、胸に残る札の欠片を振り落とそうとしている。
紅緒はゆっくり近づいた。
「あなたが望んで人を連れ去ったのではないのでしょう」
写し火の黒い顔に、二つの小さな光が灯った。
「今、戻してあげるわ」
紅緒は指先へ巫力を集め、札の欠片へ触れた。熱が皮膚を刺す。構わず術式の継ぎ目を探り、糸をほどくように一画ずつ切り離していく。
最後の墨線が消えた瞬間、欠片は灰へ変わった。
写し火を覆っていた光の縄も解ける。小さな妖はその場へ伏し、青白い火を一つだけ吐いた。火は頼りなく揺れたあと、紅緒の袖口へ寄り添うように浮かんだ。
「終わったのか?」
景真が慎重に近づいてくる。
「写し火を縛っていた術は解けたわ。でも、失踪した人たちはまだ見つかっていない」
小さな火が、辻堂の裏手へ流れた。二人を振り返るように一度止まり、再び進む。
「案内しているのか?」
「おそらく」
紅緒は和弓を背負い直し、火を追った。
*
写し火が向かったのは、古社へ続く雑木林だった。
昼間に調べた獣道を外れ、木々の間を縫うように進む。夜露に濡れた枝が袖を打ち、足元では落ち葉が音を立てた。
やがて青白い火が、崩れかけた石垣の前で止まった。
紅緒が草を払うと、石垣の一部に人が通れる隙間がある。その奥から、かすかな息遣いが聞こえた。
「誰かいる!」
景真が身をかがめて中を覗き込む。
隙間の先は、古社の下へ続く狭い空洞になっていた。二人の男が折り重なるように倒れ、その近くには、逃げ帰る途中で失ったと商人が話していた荷が散らばっている。
紅緒は先に入り、男たちの首元へ指を当てた。
「息はあるわ」
一人は衰弱していたが、目立った傷はない。もう一人も眠っているだけのようだった。写し火の青い火に包まれ、深い眠りへ落とされていたらしい。
「ここに閉じ込めてたのか」
「写し火自身に、そのつもりがあったとは思えないわ。札に与えられた力で人を誘い、ここへ留めていたのでしょう」
紅緒は男たちへ気つけの札を使った。ほどなく一人が咳き込み、薄く目を開く。
「銀の……巫女……」
男は紅緒の顔を見るなり怯えた。
紅緒の手が一瞬止まる。
だが、すぐに札を握り直した。
「私は陰陽寮の大月紅緒です。あなた方を助けに来ました」
声は震えなかった。
男はまだ怯えていたが、景真が横から水筒を差し出すと、ようやく身体の力を抜いた。
二人を空洞から運び出し、辻堂近くまで戻ると、逃げた町人が呼んだらしい陰陽寮の者たちが駆けつけていた。
紅緒は写し火を自分の袖の近くへ留め、失踪者を引き渡す。ほどなく、写し火は保護用の小さな灯籠へ移され、陰陽寮の者へ預けられた。
「怪異は鎮静しました。行方不明者二名も発見しています」
若い陰陽師たちは、紅緒と小さな青白い火を交互に見た。そこにあったのは朝までの露骨な恐怖ではなく、戸惑いだった。
「銀髪の巫女は……」
一人が問う。
「写し火が、人々の恐れから作った姿です。私ではありません」
紅緒は言い切った。
景真が何を見抜いたのかは話さなかった。町人の証言と自分の知識を整理し、写し火へ到達したという報告に留めた。仕掛けた者がいるなら、景真の目を知られるわけにはいかない。
小さな火が灯籠の中で揺れた。まるで、その言葉を肯定するように。
*
その夜更け、古社には誰もいなかった。
失踪者の救出を終えた陰陽師たちは引き上げ、境内には湿った土と虫の声だけが残っている。
拝殿の裏へ、一つの影が静かに入った。
小神小夜は空の左袖を揺らしながら、昼間に見つかった焼け跡の前へ膝をついた。
小夜は焼け跡へ右手をかざし、目を閉じた。ごく微かな霊気の筋が、焼け跡から土の下へ続いている。印を結ぶと、湿った土がわずかに盛り上がり、小さな焦げた紙片が浮かび上がった。紅緒の霊矢で裂かれた札とは別のものだった。写し火を遠くから支えていたのか、出現する場所を縛っていたのか。役割までは、残った術式だけでは読み取れない。
小夜は紙片へ目を落とした。
墨線の大半は焼け落ち、残っているのは術式のほんの一部だけだった。
それでも小夜は、長いあいだ紙片から目を離さなかった。
やがて、右手の指先で焦げた縁をなぞる。
「……これで、つながりましたね」
その声に、驚きはなかった。
まるで、ここに残るものを確かめるために訪れたかのようだった。
小夜は紙片を懐へ収めた。
紅緒に見せるつもりはない。
景真にも、まだ知られてはならない。
小夜は焼け跡へ掌をかざした。残っていた微かな霊気が揺らぎ、土の中へ吸い込まれるように消えていく。
証拠が残っていたことさえ、これでもう誰にも分からない。
小夜は一度だけ古社を振り返ると、誰にも見られないまま闇の中へ消えた。
*
翌朝、紅緒と景真は陰陽寮へ報告に訪れた。
小夜の部屋には、事件記録を取る陰陽生が二人控えている。机の上には、回収した写し火を保護する小さな灯籠が置かれていた。青白い火が中で静かに揺れている。
紅緒は、目撃証言の食い違い、写し火の性質、古社で見つけた焼け跡、胸へ貼られていた札について順に説明した。
ただし、景真が夜通し見張っていたことも、彼の前で写し火の姿が崩れたことも伏せた。
記録上、写し火の特性を見抜き、札を破壊して失踪者を救ったのは紅緒だった。
「札の欠片は?」
小夜が尋ねた。
「霊矢が当たった際に大半が焼けました。残った部分も、写し火から外した直後に灰へ変わっています」
小夜は灯籠の火へ目を向けた。
「やはり、残りませんでしたか」
紅緒は顔を上げた。
「小夜さま?」
「いいえ。術式を隠す者なら、その程度の細工はしているだろうと思っただけです」
説明は自然だった。
それでも紅緒の胸には、事件の始めに小夜が見せた、あの一瞬の間が引っかかった。
「この件について、これ以上独自に調べることは許可できません」
「なぜですか」
「写し火を利用した術者がいるとしても、正体も目的も分かっていません。今は失踪者の回復と、同様の怪異が起きないかを見守るべきです」
「ですが――」
「紅緒さん」
小夜の声は穏やかなままだった。
「これは命令です」
紅緒は小夜の細い目を見つめた。そこから感情を読むことはできない。
「……承知しました」
報告を終え、部屋を出ると、渡り廊下の先に上霞城瑠璃が立っていた。今日も二人の女子陰陽師を連れている。
「ごきげんよう、大月さん」
「おはようございます、上霞城さま」
「事件を解決なさったそうですわね。銀髪の巫女は、あなたではなかったと」
「ええ」
瑠璃はわずかに目を細めた。
「その点については、認めますわ」
取り巻きの一人が驚いたように瑠璃を見る。
だが、次の言葉には迷いがなかった。
「もっとも、あなたが半妖である事実まで変わったわけではありませんけれど」
「そうですね」
紅緒は静かに答えた。
昨日までなら、その言葉が胸の奥へ刺さっていたかもしれない。今は違った。
「ですが、それも私です」
瑠璃の瞳が、ほんの少し見開かれた。
紅緒は一礼し、景真とともに横を通り過ぎる。
陰陽寮の門を出てから、景真が隣で笑った。
「言い返したな」
「事実を答えただけよ」
「昨日より、いつもの紅緒だ」
「また余計なことを」
そう言いながらも、紅緒は歩調を速めなかった。
大路には朝の光が差していた。行き交う人々の中には、まだ紅緒を避ける者もいる。事件が一つ解決しただけで、積み重なった偏見が消えるわけではない。
それでも、もう自分まで彼らと同じ目で自分を見ることはなかった。
写し火は、人の恐れにある貌を映した。
そこに映らなかった紅緒を、景真だけは最初から見ていた。
そのことを口にするつもりはない。
ただ、隣を歩く足音が昨日までより少し近く感じられた。




