第六話「星降る砦」①
夜半を過ぎても、砦の中庭には木剣の打ち合う音が響いていた。
星明かりの下、十数人の兵が二列に並び、互いの肩口を狙って木剣を振るっている。誰もが目の下に濃い隈を作り、息を切らしていた。それでも、見張り台の下に立つ下比地弥助は、訓練を止めようとはしなかった。
「腕が鈍い! 夢ごときに惑わされるのは、日頃の鍛錬が足りぬからだ!」
叱声が飛ぶたび、兵たちは重い腕を持ち上げた。
列の端で木剣を構えていた梯五十鈴も、何度目か分からない素振りを繰り返していた。瞼が落ちそうになるたび、歯を食いしばって目を開く。
三日前から、砦の兵たちは同じような夢を見るようになっていた。
夜空から無数の星が降り、地へ突き刺さる。星は青白い火となり、その向こうから、もう会えない者の声がする。門を開けろ。武器庫へ来い。地下の封を解け。
目を覚ました者の多くは、夢の内容をほとんど覚えていない。ただ、眠ったまま立ち上がり、言われた通りの場所へ向かう。昨夜は見張りの兵が砦門の閂へ手をかけ、その前の晩には二人が武器庫の鍵を奪おうとした。
弥助は、それを怪異ではなく規律の乱れと断じた。眠るから夢を見るのだとして、夜間訓練を増やした結果、兵たちの疲労は限界に近づいていた。
奇妙なことに、弥助自身には眠り歩く様子も、死者の声を聞いたという訴えもなかった。むしろ日を追うごとに、自分の判断だけが正しいという確信を強めていた。
弱い部下が騒ぎを大きくしている。ここで判断を曲げれば、指揮官としての器を疑われる――そう考えるたび、胸の奥で誰かが同意するような感覚があった。だが弥助は、それを自分自身の声だと疑わなかった。
「交代!」
号令とともに、五十鈴の前へ大柄な兵が進み出た。その兵は今夜の武器庫番でもあり、腰には三つの錠を開ける鍵束が下がっていた。
「お願いします!」
五十鈴は元気よく礼をした。しかし相手は返事をしなかった。木剣を垂らしたまま、虚ろな目で夜空を見上げている。
「先輩?」
兵の唇が動いた。
「……星が、落ちる」
その手から木剣が滑り落ちた。
次の瞬間、兵は五十鈴を突き飛ばし、中庭の端にある武器庫へ走り出した。
「待ってください!」
五十鈴は尻餅をつきながらも、すぐに立ち上がった。周囲の兵たちは疲労で反応が遅れている。兵は武器庫の前まで駆け、腰の鍵束を外した。だが、眠りに沈んだ指は思うように動かない。鍵を取り落とし、拾い直しては、錠へ押し当てている。
その間に五十鈴は武器庫へ追いついた。足元に落ちていた訓練用の縄を拾い、兵の背後から腰へ回す。縄の両端を握り、地面へ踵を食い込ませた。
「ごめんなさい!」
兵が扉へ身体を押しつける。五十鈴は引きずられながらも縄を放さず、その腕ごと背後から抱え込んだ。
「離せ! 門を開けなければ、みんなが――」
「ここは武器庫です! 門は反対だべ!」
必死さのあまり訛りが漏れた。兵はなおも暴れたが、ようやく周囲が駆け寄り、数人がかりで取り押さえた。
弥助が遅れて歩み寄る。
「何を騒いでいる」
「先輩が、また夢に操られたようです。武器庫を開けようとして――」
「だから何だ」
弥助は倒れた兵を一瞥し、眉をひそめた。
「訓練中に気を失い、錯乱しただけだ。本人の鍛錬不足を怪異のせいにするな」
「ですが、昨夜も同じことが――」
「見習いが指揮官へ意見するのか?」
五十鈴は口を閉じた。
「その者を牢へ入れておけ。明朝までに正気へ戻らなければ、さらに締め上げる」
「……はい」
兵たちが仲間を運び始める。五十鈴は、地面へ転がった鍵束を拾った。
その傍らに、釘の頭ほどの小さな金具が落ちていた。それが一度だけ、青白く瞬いた気がした。
顔を上げたときには、夜空に流れ星すらなかった。
*
翌朝、御伽衆の受付に、一通の依頼書が届けられた。
差出人の欄には、ものの歩西砦。宛先には御伽衆総代。依頼内容には、兵の集団錯乱と夜間徘徊について、陰陽寮の見解を求めると記されていた。西砦の印は押されていたが、現場指揮官の署名はない。
深影は依頼書を読み終えると、向かいに座る景真へ紙を差し出した。
「ものの歩から陰陽寮への依頼だって。珍しいね」
「直接、陰陽寮に頼めばいいんじゃないのか?」
紅緒は依頼書へ目を落とした。
「ものの歩は、幽京の防衛や妖怪の討伐を武力で担う組織なの。陰陽寮とは役目が重なるところもあるけれど、怪異への向き合い方が違うから、昔から折り合いがよくないのよ」
「仲がよくない相手へ直接頭を下げられるなら、最初から御伽衆を通さないんじゃない?」
深影は楽しそうに笑った。黒い瞳はいつも通り何も映さないが、口元だけは明らかに面白がっている。
隣で依頼書を読んだ紅緒が、眉を寄せた。
「兵が同じ夢を見て、眠ったまま門や武器庫へ向かう……。ものの歩の手には余るでしょうね」
「剣で夢は斬れないもんな」
「だからといって、あなたが嬉しそうに言うことではないわ」
「嬉しそうに見えたか?」
「少し」
深影が二人を見比べる。
「最近、息が合ってきたね」
「合ってないわ」
紅緒は即答し、依頼書を畳んだ。
依頼はその日のうちに陰陽寮へ回された。
小夜は執務机の前で文面を読み、しばらく動かなかった。いつもの柔らかな微笑みは崩れていない。だが、紙を押さえる右手の指だけが止まっている。
「……陽香にお願いしましょう」
「小夜さまは同行されないのですか?」
紅緒が尋ねると、小夜は依頼書を机へ置いた。
「夢と星に関わる現象であれば、天文博士の領分です。私より適任でしょう」
「それだけですか?」
紅緒が聞くと、小夜の笑みがわずかに深くなった。
「私は、ものの歩の皆さんとは少々相性が悪いのです」
「少々?」
「……かなり、です」
紅緒はそれ以上聞かなかった。景真も、理由を尋ねかけてやめた。
小夜は折り紙の鳥へ短い文を書き、息を吹きかけた。紙鳥は羽ばたきながら窓の外へ飛び出していく。
「陽香さんってどなたですか?」
景真が小夜に尋ねる。初めて耳にする名前だ。
「真砂陽香。陰陽寮の部署の一つ、天文部門の長である天文博士です。私とは長い付き合いです」
答えながら、小夜は右手で空の左袖を撫でた。表情はいつもと変わらない。
「陽香が引き受けてくれれば、紅緒さんと東春さんも同行してください。砦の中では、ものの歩側の指示に従うように」
「分かりました」
「ただし、危険な命令まで従う必要はありません」
小夜の言い方には、経験から来る確信のようなものがあった。
しばらくして、廊下の向こうから足音が近づいた。
「小夜、呼んだ?」
障子が開き、穏やかな声とともに一人の女が入ってきた。
茶色の長い髪は編み込みを交えた一つ結びにされ、胸元を越えて流れている。目元は柔らかく、初対面の相手を緊張させない微笑みを浮かべていた。濃紺を基調とした陰陽装束はゆったりした仕立てのはずなのに、豊かな身体の線を隠しきれていない。
景真の視線が、ほんの一瞬だけ止まった。
隣から、刺すような気配がした。
振り向くと、紅緒が無言でこちらを見ていた。
「……何だよ」
「別に」
「絶対何かあるだろ」
「ありません」
声だけが妙に冷たかった。
女は二人を見比べ、くすりと笑った。
「仲がよいのね」
「違います」
「そこまで強く否定しなくてもよくないか?」
「初めまして。真砂陽香よ。小夜から、あなたたちのことは聞いているわ」
陽香は紅緒へ優しく微笑み、続いて景真へ視線を向けた。
「現世から来た景真くんね。大変だったでしょう」
「まあ……はい」
景真が曖昧に答えると、陽香はそれ以上踏み込まなかった。
依頼書へ目を通すと、彼女の表情からわずかに笑みが薄れる。
「夢を見た兵たちが、同じ場所へ向かう……。少し気になるわね」
「引き受けてくれますか?」
小夜が尋ねる。
「ええ。他でもない、小夜からの頼み事だもの」
「助かります」
「今度、埋め合わせはしてもらうからね」
「善処します」
「それ、しない人の言い方よ」
陽香は困ったように笑った。二人の会話からは、長い付き合いが自然に伝わってきた。
*
昼過ぎ、陽香、紅緒、景真の三人は、幽京西方の砦へ到着した。
高い土塁と厚い木戸に囲まれた砦は、陰陽寮や御伽衆とはまるで空気が違った。門をくぐれば、槍を担いだ兵が列を作って走り、別の一団が木盾を並べて打ち込みを続けている。掛け声と足音が絶えず響き、土と汗と油の匂いが混じっていた。
「ずいぶん、にぎやかなところね」
陽香は穏やかに言った。
「寝不足の人間にさせる訓練には見えません」
紅緒の声には棘があった。
一行を迎えたのは、鎧の上から立派な陣羽織を羽織った男だった。四十代ほどで、細い目はまず陽香の装束を見て、それから紅緒と景真を順に値踏みした。
「ものの歩西砦、現場指揮官の下比地弥助です。真砂博士には、ご足労をおかけしました」
陽香へは深く頭を下げる。
「兵の不調について、念のため専門家の意見も聞いておこうと考えましてな。もっとも、我々だけでも対処は可能ですが」
「真砂陽香よ。こちらは大月紅緒さんと、東春景真くん。二人とも調査に必要だと判断して連れてきたわ」
「下比地さまご自身は、夢をご覧になっていないの?」
「当然です。夢に惑わされるのは、心身の鍛え方が足りぬ者だけでしょう」
「……そう」
陽香はそれ以上追及しなかった。ただ、弥助の顔を静かに見つめる時間が、ほんのわずかに長かった。
弥助の視線が紅緒の銀髪で止まった。
「陰陽寮は、半妖まで砦へ入れるのですか」
紅緒の表情は変わらなかった。
「私は陰陽得業生で、退魔方兼結界守です。今回の調査に必要な技術は持っています」
「肩書きの話ではない。兵の中には妖に身内を奪われた者もいる。余計な混乱を招かれては困る」
陽香が柔らかな声で割って入った。
「紅緒さんは、私が必要だと判断して連れてきたの。何か問題があるかしら」
笑顔のままだったが、弥助は一瞬言葉を詰まらせた。
「……真砂博士がお決めになったのであれば」
続いて景真へ顎を向ける。
「その少年は? 武具すら持っていないようですが」
「私たちが見落としたことを拾ってくれる人よ」
「軍師ということですか?」
「そこまで立派なものじゃないです」
景真が答えると、弥助は露骨に興味を失った。
「案内役をつけます。梯!」
呼ばれて駆けてきたのは、年若い少女だった。深緑の髪を高い位置で結び、短い着物風の上衣と黒い脚衣を身につけている。両腕には、細い身体に似合わないほど大きく角張った絡繰り籠手が装着されていた。走ってきた勢いのまま一行の前で止まり、背筋を伸ばした。
「はい! 梯五十鈴です! まだ見習いですが、ご案内を務めます!」
声は明るく、寝不足の砦には不釣り合いなほど元気だった。ただし、目元には薄い隈がある。
弥助は五十鈴を見ずに言った。
「余計なことは話すな。博士の指示だけ聞いていろ」
「承知しました!」
弥助が去ると、五十鈴は一度だけその背を見送り、すぐ三人へ向き直った。
陽香は遠ざかる背を見ながら、小さく息をついた。
「眠って歩くことだけが、惑わされている証拠とは限らないわね」
「下比地さんも、何か影響を受けているということですか?」
「まだ分からないわ。ただ、自分だけが正しいという思いも、恐れから生まれることがあるもの」
紅緒は弥助が消えた方角を見た。景真も何も言わなかったが、先ほどの男の断定的な口調を思い返していた。
「まずは兵舎と、異常が起きた場所をご案内します。こちらです!」
歩きながら、五十鈴は紅緒の背にある和弓へ何度も視線を向けた。
「大月さまは、弓をお使いになるんですね! ものの歩にも弓兵はおりますが、その弓はずいぶん大きいです」
「紅緒でいいわ。これは普通の和弓よ。矢だけを霊力で作るの」
「矢を持ち歩かなくてよいのですか? それは便利ですね! 矢代も浮きます!」
紅緒が返事に困り、景真が吹き出した。
「そこに食いつくのか」
「大切なことです! 矢は一本でも積み重なると高いのです!」
五十鈴は真剣だった。
「東春さまは、武器を持っておられないのですね。軍師の方ですか?」
「さっきも聞かれたけど、違う」
「ですが、何か考えている顔をしています!」
「それだけで軍師にするな」
陽香が楽しそうに笑った。
「五十鈴ちゃんは、この砦に長いの?」
「五年ほどです。ここで育てていただきましたので、早く一人前になりたいと思っています!」
五十鈴は胸を張った。声には、ものの歩へのまっすぐな恩義がにじんでいた。
「ところで、今回の依頼料はものの歩持ちでしょうか。それとも御伽衆持ちでしょうか」
「今、気にすることか?」
「大事です! お金の流れが曖昧な組織は、いつか困るべ――困ります!」
最後だけ漏れた訛りを、五十鈴は咳払いでごまかした。
景真は笑いをこらえ、紅緒は少しだけ口元を緩めた。
案内された兵舎では、数人の兵が昼間から横になっていた。眠れば夢に引き込まれるため、目を閉じることすら恐れている者もいる。
陽香は一人ずつ傍らへ座り、夢の内容を聞いた。質問を急がず、相手が言葉を探す時間を待つ。その穏やかな声に促され、兵たちは弥助の前では話さなかったことまで口にした。
死んだ兄の声を聞いた者。故郷の母の声を聞いた者。かつて見捨てた仲間の声を聞いた者。
夢の景色は同じでも、呼ぶ声は一人ずつ違っていた。
景真は聞き書きの端へ、小さく印をつけていく。
「同じ夢じゃない」
「どういうこと?」
紅緒が尋ねる。
「星と青い火は共通してる。でも、声はその人が一番気にしてる相手になってる。全員に同じものを見せてるんじゃなくて、同じ仕組みで違う記憶を引っ張り出してるんだ」
陽香は静かに頷いた。
「私も、そう思うわ。星は入口で、声はそれぞれの心から借りているのかもしれない」
「星が入口?」
「まだ仮説よ。もう少し、砦を見せてもらいましょう」
*
次に五十鈴が案内したのは、前夜に兵が開けようとした武器庫だった。
厚い扉には三つの錠がかかり、周囲には見張りが立っている。地面には昨夜の争いでついた靴跡と、縄の擦れた跡が残っていた。
「ここで、兵を止めたのね」
陽香が尋ねる。
「はい。先輩が急に走り出して……。私一人では押さえられなかったので、縄を腰へ回して引き止めました」
「よく止めたわね」
「いえ! 必死だったとはいえ、先輩を縄で締めつけてしまいました。あとで謝らないと」
「止めなければ、もっと悪いことになっていたわ」
陽香に褒められ、五十鈴は照れたように頭をかいた。
紅緒は扉の前へしゃがみ込み、札を一枚取り出した。指先で地面近くをなぞるが、札は反応しない。
「妖気は感じません。少なくとも、ここに妖が潜んでいるわけではなさそうです」
景真は地面に落ちた小さな金具を拾おうとし、紅緒に手首をつかまれた。
「触らない」
「まだ触ってないだろ」
「触ろうとしたでしょう」
「見ただけだ」
「指が伸びていたわ」
五十鈴が不思議そうに二人を見た。
陽香は金具の前へ屈み、袖越しに拾い上げた。釘の頭ほどの大きさで、補修材に紛れれば誰も気に留めない。
「これ、砦で使っているもの?」
五十鈴は一目見るなり首を振った。
「違います。うちの支給品は鉄がもっと黒くて、頭に小さな刻印があります。これはありません。それに、昨夜も鍵束のそばに同じものが落ちていました」
「よく分かるな」
「備品はお金ですから!」
五十鈴は胸を張った。
陽香は金具を掌に置き、空を見上げた。昼の空には星など見えない。
「同じものを探してもらえる?」
「はい!」
四人は武器庫の周囲を調べた。柱の根元、屋根の縁、井戸の石組み、見張り台へ続く階段。目立たない場所から、同じ金具が一つずつ見つかっていく。
陽香は砦の見取り図を借り、見つかった位置へ印をつけた。
五つ目の印を置いたところで、彼女の指が止まる。
「星の並びに似ていますか?」
紅緒が聞いた。
「似ているわ。でも、天にある形とは少し違う」
「間違えて置いた?」
景真の問いに、陽香は首を振った。
「いいえ。星を読むための並びではないのだと思う」
陽香は見取り図を回し、砦の門を下にして置いた。
「天の形を、地上へ写すための並びね」
そのとき、兵舎の方から叫び声が上がった。
四人が駆け戻ると、一人の兵が目を閉じたまま廊下を歩いていた。周囲の兵が腕をつかんでも、振りほどいて進み続ける。
「星が落ちる」
兵は呟いた。
「門を開けなければ。あいつらが、帰ってこられない」
紅緒が札を抜き、兵の額へ滑らせた。
「鎮まりなさい」
札が淡く光る。兵の身体から力が抜け、周囲の者に支えられた。だが、閉じた瞼の奥で眼球だけが激しく動き、唇はなおも「開けろ」と繰り返している。
その足元で、影が青白く瞬いた。
光は一つではない。廊下の柱の根元、庭石の陰、遠くの見張り台。そのすべてが、見取り図に印をつけた位置と重なっている。
陽香は表情を引き締めた。
「星空ではなく、地上に星があるみたいね」
五十鈴が息を呑む。
砦のあちこちで、兵たちのざわめきが広がり始めた。
まだ日は高い。
それでも、地上の星は夜を待たずに光り始めていた。




