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第六話「星降る砦」②

 兵の足元に浮かんだ青白い光は、瞬きを一つする間に消えた。

 だが、見取り図に記された金具の位置では、なお微かな霊気が脈打っている。紅緒は兵の額へ貼った札を押さえたまま、周囲を見回した。

「陽香さま、今の光は、金具から出たものですか?」

「おそらくはね。ただ、金具そのものに妖気はほとんどないわ。どこか別の場所から力を送られているのかもしれない」

 陽香はしゃがみ込み、兵の影へ指を近づけた。触れる寸前、影の縁が逃げるように揺れる。

「影に残っているのは、夢の名残ね。この人が見ているものと、地上の星がつながっている」

 兵は周囲に抱えられたまま、閉じた瞼を震わせていた。

「開けろ……。あいつらを、置いていくな……」

「誰を置いてきたんですか?」

 景真が問いかけると、兵の唇が一度だけ止まった。

「谷で……俺だけ、戻った」

 そばにいた年嵩の兵が顔を伏せた。

「三年前の討伐です。崖崩れで隊が分断され、こいつだけが生還しました」

 景真は聞き書きへ目を落とした。先ほどまでに聞いた声も、死んだ兄、故郷の母、見捨てた仲間と、どれも本人が強く心に残している相手だった。

「声は、本人の記憶から選ばれてる。でも、命令はみんな似てる」

「門を開けろ。武器庫へ来い。地下の封を解け、だったわね」

 紅緒が指を折って確かめる。

「誰の声を借りても、砦の要所へ向かわせてる」

 陽香は見取り図の印を見つめた。

「この術は、ただ苦しい夢を見せたいわけではなさそうね。兵たちを使って、砦の何かを開かせようとしている」

 そのとき、廊下の奥から弥助の声が飛んだ。

「いつまで寝かせている! 正気に戻ったなら持ち場へ戻せ!」

 兵たちが一斉に背筋を伸ばした。兵は目を開けたものの、焦点はまだ定まっていなかった。

 紅緒は振り返り、眉を寄せる。

「この状態で任務へ戻すつもりですか?」

「札で止めたのだろう? ならば問題はない」

「身体を止めただけです。夢とのつながりは切れていません」

「陰陽寮の術が不完全だったという話を、私にされても困る」

 弥助は兵の苦しそうな顔を見ようともせず、胸を張った。

「兵が持ち場を離れれば、砦の防備が薄くなる。それこそ敵の思うつぼだ」

 敵。その言葉だけが、妙に重く響いた。弥助の目には恐れよりも、自分の判断を否定されることへの苛立ちが浮かんでいる。

 陽香はしばらく彼を見つめたあと、柔らかく言った。

「では、せめて今夜までは、症状の出た方を武器と門から離してください。これ以上、砦の中で味方同士が傷つくのは避けたいでしょう?」

 弥助は不満げに鼻を鳴らした。

「真砂博士がそこまでおっしゃるなら、隔離だけは認めましょう。ただし、残る兵の訓練は続けます」

 譲歩したつもりなのだろう。だが、景真には、弥助の言葉が誰かに背中を押されるように強くなっているように聞こえた。


   *


 症状の出た兵を休ませたあと、四人は砦の食堂へ移った。

 昼を過ぎているというのに、兵たちの食事はほとんど手つかずだった。椀を持ったまま眠りかけ、慌てて顔を上げる者もいる。眠ることを恐れながら、身体は眠りを求めている。

 五十鈴は湯を運びながら、何度も小さなあくびを噛み殺していた。

「五十鈴ちゃんも、夢を見たの?」

 陽香に尋ねられ、五十鈴の手が一瞬止まった。

「はい。ですが、私はまだ歩き出しておりません! ですから任務には支障ありません!」

「支障があるかどうかではなく、何を見たかを聞いているの」

 責める声ではなかった。五十鈴は湯呑みを並べ終えると、自分の分だけ持ったまま立っていた。

「座れば?」

 景真が隣の場所を空ける。

「ですが、私は案内役ですので」

「立ってる方が眠りにくい、ってことか?」

 図星だったらしい。五十鈴は困ったように笑い、ようやく腰を下ろした。

「夢では、故郷の家族の声がしました」

 先ほどまでの明るさが、少しだけ薄くなる。

「帰ってきてほしい、と。お前だけ暖かい場所にいるのか、と」

 紅緒は何も言わなかった。景真も、家族について問い返さなかった。

「それから、どこへ行けと言われた?」

「門です。門を開ければ、みんなが砦へ入れると言われました」

「家族が、この砦にいるように見えたのか?」

「姿は見えませんでした。声だけです。青白い火の向こうから聞こえました」

 五十鈴が、湯呑みを両手で包み込むように持つ。その手が少し震えているように、景真には見えた。

「変ですよね。故郷はここから遠いのに、砦の門を開けろなんて」

「夢の中では、変だと思わなかった?」

「思えませんでした。声を聞いたら、開けることが正しいような気がして」

 その言葉に、景真は弥助を思い出した。

「下比地さんも、似てるのかもしれない」

「下比地隊長が?」

「声は聞いてなくても、自分の判断が正しいって気持ちを強くされてる」

 五十鈴は反射的に何か言いかけ、口を閉じた。上官を悪く言うことを避けたのだろう。

「下比地隊長は、砦を守ろうとなさっているのだと思います」

「ええ。その気持ち自体は嘘ではないのでしょうね」

 陽香が静かに答えた。

「もし下比地隊長も同じ影響を受けているなら、もともと持っている思いを強くされているのかもしれないわ。人は、自分の中にないものを急に信じ込まされるより、その方が気づきにくいものだから」

 五十鈴は俯き、湯呑みに映る自分を見た。

「では、私が家族の声を聞いたのも……」

「会いたいと思うことも、気にかけることも悪くないわ。その思いを、誰かが勝手に利用しているだけ」

 陽香の声は柔らかかった。五十鈴はしばらく黙ったあと、大きく頷く。

「……次に聞こえても、今度は変だと気づけるようにします」

「気合いだけでどうにかしようとするなよ」

「では、どうすればよいでしょうか!」

「俺に聞くな。そういうのは紅緒の方が詳しい」

 景真が紅緒へ視線を向けると、紅緒は小さく息をつき、札を一枚差し出した。

「眠る前に枕元へ置いて。夢を完全には防げないけれど、自分の意識を保ちやすくなるわ」

「ありがとうございます! お代は――」

「いらないわ」

「無料ですか!」

 五十鈴の顔が一気に明るくなった。

「そこを一番喜ぶのね」

 紅緒の呆れた声に、食堂の張りつめた空気が少しだけ緩んだ。


   *


 午後、陽香たちは見つかった金具をさらに調べた。

 五十鈴が備品台帳を持ち出し、過去ひと月の補修記録と照らし合わせる。屋根の縁、井戸の石組み、兵舎の柱、見張り台の階段。金具が見つかった場所はいずれも、最近修繕が行われた箇所に紛れていた。

「ですが、この金具は台帳にありません」

 五十鈴は帳面を指で追いながら言った。

「支給された釘の数と、使った数は合っています。余分なものが持ち込まれたことになります」

「誰が補修を担当したかは分かる?」

「班ごとに違います。ですが、材料を受け取った倉は同じです」

「補修した班が全部違うなら、一人で直接置いたとは考えにくいな」

 景真は見取り図へ目を落とした。

「普通の釘に混ぜて配れば、それぞれの班が知らないうちに打ち込む」

「そうなります」

 五十鈴の顔から笑みが消えた。自分たちの手で術式を作らされた可能性に気づいたのだ。

 陽香は見取り図へ新たな線を引いた。金具を置かれた順ではなく、青白く光った順につないでいく。

「星座ではないんですよね?」

「天にある星座ではないわ。でも、星を使った術には違いない」

 線は砦を囲うように巡りながら、いくつかの場所へ集中していた。門、武器庫、見張り台。そして、地図の中央よりわずかに北へ寄った空白。

「ここには何があるの?」

 陽香が指した場所を見て、五十鈴は首を傾げた。

「古い地下倉庫です。今は使っておりません」

「地下の封を解け、か」

 景真が呟く。

「夢の命令に出てきた場所と一致するわね」

 紅緒は見取り図へ札をかざした。紙面の上で霊力が細く揺れ、空白の地点へ吸い寄せられる。

「ここが術の中心ですか?」

「中心というより、行き先かもしれないわ」

 陽香は線の一本を指でなぞった。

「地上の星が兵の夢を拾い、心に残る声へ形を変える。門を開き、武器庫を乱し、見張りを止める。砦全体を内側から崩すための術なのかもしれないわ」

「そのうえで、地下倉庫の何かを使うつもりか」

 景真の言葉に、誰もすぐには答えなかった。

「地下倉庫を確認しましょう」

 紅緒が言う。

 だが、五十鈴は顔を曇らせた。

「あそこは下比地隊長の許可がなければ開けられません。以前、備品台帳を整理した際に、古い軍旗や戦没者の名札が納められていると聞きました」

「名札?」

「ものの歩で亡くなった方々のものです。砦を建て替えた際、まとめて移されたそうです」

 陽香の表情がわずかに引き締まる。

「人の記憶を呼び起こす場所としては、あまりに条件がそろいすぎているわね」

 一行は弥助のいる指揮所へ向かった。

 説明を聞き終えた弥助は、見取り図を一瞥しただけで鼻を鳴らした。

「古い倉庫を開ける必要はない」

「兵たちが、夢の中で地下の封を解けと命じられています」

「だからこそ開けぬのだ。敵の望むままに封を解く者があるか」

 理屈だけなら間違っていない。しかし、弥助の声には調べることそのものを拒む硬さがあった。

「中へ入らず、入口だけでも調べられます」

 陽香が穏やかに提案する。

「必要ない。地下倉庫には私の命令なしに近づくな。これは砦の規則だ」

 その瞬間、弥助の背後に落ちた影が、ほんのわずかに青白く揺れた。

 景真が目を凝らしたときには、もう普通の影へ戻っている。

「今、何か見えた?」

 紅緒が小声で尋ねた。

「……いや。たぶん」

 確信はなかった。だが、弥助だけが怪異と無関係だとは、もう思えなかった。


   *


 夕刻が近づくにつれ、砦の空気はさらに重くなった。

 陽香は、症状の出ていない兵も含めて一度休ませ、札と結界で守った状態で夢の発生を観察するよう提案した。疲労を減らさなければ、怪異への抵抗が弱まる一方だからだ。

 弥助は聞き終える前に首を振った。

「全員を眠らせるなど論外だ」

「全員を一度に眠らせるとは言っていないわ。交代で休ませるの」

「敵が動くと分かっている夜に、兵を寝かせる指揮官がどこにいる」

「今の敵は、眠りだけではなく疲労にもつけ込んでいる可能性があります」

 紅緒が言っても、弥助は聞かなかった。

「疲労に負ける者は、いざという時にも役に立たぬ。今夜は全員武装し、門、武器庫、地下倉庫を三重に守らせる」

「兵を武器の近くへ集めれば、操られたときに危険です」

「操られぬよう目を覚まさせておけばよい」

 弥助の言葉に迷いはなかった。だがそれは、自信というより、何かに考えを固定されているように見えた。

 症状が悪化するほど、弥助の命令だけが強くなっていく。景真には、そのこと自体が怪異の影響を示しているように思えた。

「これは命令だ。夜半まで訓練を続け、そのまま配置につけ!」

 兵たちは疲れ切った顔で、それでも一斉に返事をした。

 五十鈴も反射的に姿勢を正す。

「梯。お前は門の増援へ回れ」

「承知しました!」

 返事をした直後、五十鈴の表情がわずかに曇った。夢で家族の声に門を開けるよう命じられたことを思い出したのだろう。

「五十鈴を門から外してください」

 景真が口を挟んだ。

 弥助がゆっくり振り向く。

「戦えぬ者が、私の配置に意見するのか?」

「五十鈴は夢で門へ呼ばれてる。そこに置くのは危ない」

「夢を見た者をすべて外していては、砦の半分が使えなくなる。そんな報告を上へ出せるか」

「……いや。だからこそ、自分の弱さを克服させるのだ」

「そんなの、訓練じゃない」

 空気が張りつめた。紅緒が景真の前へ半歩出る。

「東春の指摘は正しいです。少なくとも、今夜だけは別の場所へ」

「半妖と素人の意見で、ものの歩の配置を変えるつもりはない」

 陽香は笑みを消さないまま、弥助を見つめた。

「分かったわ。では私たちは、門の近くで五十鈴ちゃんを見守ります。調査に必要な場所を選ぶ権限くらいは、依頼を受けた側にもあるでしょう?」

 弥助は拒もうとしたが、天文博士へ真正面から命令することはできなかった。

「……勝手になさればよい。ただし、砦の指揮を乱さぬように」

 日が沈み始めた。

 兵たちは眠気を追い払うため、声を張り上げて木剣を振るう。門には二重の閂がかけられ、その前へ武装した兵が並んだ。

 五十鈴は門脇の武器掛けから、左右一組の籠手を持ち上げた。角張った鉄板を重ねた造りで、大きさは拳より二回りほど大きい。景真には、少し大ぶりなボクシンググローブを金属で作ったように見えた。無骨な歯車や継ぎ目まで見える造りが、妙に格好いい。

「それ、五十鈴の武器なのか?」

 景真が思わず身を乗り出す。五十鈴は得意げに頷き、籠手へ腕を通した。手首の留め具を締めると、内部で歯車の噛み合う細かな音が鳴る。

「はい! 私専用の絡繰り籠手です!」

 五十鈴が霊力を流すと、鈍い光が鉄板の継ぎ目を走った。重そうだった両腕がふっと持ち上がり、金属の指が一本ずつ開いていく。

「そのままでは重いのですが、霊力で腕にかかる重さを減らしています。指の中にも細い絡繰りが入っておりますので、握る、開く、つかむくらいなら、自分の手と同じように動かせます!」

「指まで動くのか。すごいな、それ」

 景真の目が素直に輝いた。五十鈴が拳を握るたび、鉄の指が小気味よい音を立てる。

「東春、ずいぶん楽しそうね」

「こういう仕掛けは気になるだろ。男なら」

「そういうものかしら」

 紅緒にはいまひとつ理解できないらしく、冷めた目を向けている。景真が籠手の関節をのぞき込むと、五十鈴はますます胸を張った。

「格好いいでしょう! 私、この籠手だけは上手く扱えるのです!」

「だけ?」

「刀は振ると自分の足を斬りそうになります。槍は穂先がどこへ行くか分かりません。弓は、矢が後ろへ飛びました!」

「どうやったら後ろへ飛ぶんだ」

「私にも分かりません!」

 元気よく答えたあと、五十鈴は両の籠手を見つめた。その表情には、少しの照れと、それ以上の誇らしさが浮かんでいる。

「ほかの武器には、どうにも適性がないみたいです。でも、この子たちは私の霊力に応えてくれます。ですから、もっと上手く使えるようになって、いつか立派なものの歩になります!」

 五十鈴は籠手を構え、何度も瞬きをした。

「眠いなら、少し目を閉じてもいいのよ」

 陽香が言う。

「大丈夫です! 札もいただきましたし、今度こそ負けません!」

「勝ち負けにしない方がいいと思うけどな」

 景真が答えた、そのときだった。

 西の空に、一番星が浮かんだ。

 同時に、砦の地面で青白い光が一つ灯る。

 続いて二つ、三つ。金具を結ぶように光が走り、土塁の内側へ巨大な星の形が浮かび上がった。

 兵の一人が木剣を落とした。

 また一人、膝をつく。

 五十鈴の顔から血の気が引いた。

「……聞こえます」

「何が?」

 景真が問う。

 五十鈴は門の向こうを見つめた。

「家族の声が。今度は、すぐそこから」

 砦門の閂が、誰も触れていないのに音を立てた。

 兵舎、武器庫、見張り台。各所から同時に叫び声が上がる。

 陽香が空を仰いだ。天の星よりも、地上の光の方が強く輝いている。

「始まったわ」

 その声と同時に、眠らぬよう立ち続けていた兵たちが、一斉に目を閉じた。

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