第六話「星降る砦」③
眠らぬよう立ち続けていた兵たちが、一斉に目を閉じた。
倒れたのではない。木剣や槍を手にしたまま、糸で引かれるように顔を上げる。閉じた瞼の下で、眼球だけが激しく動いていた。
「門を開けろ……」
「武器を取れ……」
「地下へ……迎えに行かなければ……」
重なった呟きが、砦の各所から波のように広がった。
門前に並んでいた兵の半数が、閂へ向かって歩き出す。別の者たちは武器庫へ向きを変え、見張り台の兵は縄梯子へ手をかけた。誰も目を開けていない。それでも足取りに迷いはなかった。
「眠っているのに、動いてる……」
景真の声に、陽香が地面へ視線を落とす。青白い線は脈打つたびに輝きを増し、その光に合わせて兵たちの足が進んでいた。
「星が合図を送っているのね。全部の金具が、一つの術として動き始めた」
「陽香さま、金具を壊せば止められますか?」
「今はやめた方がいいわ。つながったまま無理に壊せば、術の力が兵たちへ逆流するかもしれない」
紅緒は弓を取り、霊力の矢をつがえた。狙いは兵ではない。兵の足元から地上の星へ伸びる、細い青白い糸だった。
「では、つながりだけを切ります」
放たれた矢が光の糸を射抜く。門へ進んでいた兵の一人が膝をついた。だが、別の兵がその脇を抜け、閂へ両手を伸ばす。
「数が多すぎるわ」
「一人ずつ止めていたら間に合わない」
景真は周囲を見回した。門、武器庫、見張り台。兵たちはばらばらに動いているようで、光の脈動に合わせて同時に一歩ずつ進んでいる。
「陽香さん。星の光をずらせないか?」
「ずらす?」
「全員を動かしてる合図が同じなら、一瞬だけでも合図を狂わせれば、紅緒が切る時間を作れる」
陽香は景真を見て、すぐに頷いた。
「やってみるわ。紅緒さん、三息だけお願い」
「十分です」
陽香が懐から細長い札を四枚取り出し、東西南北へ投げる。札は地へ触れる前に止まり、淡い金色の光を放った。
「天にある星は、地上の都合では動かないものよ」
陽香が指を滑らせると、金色の光が青白い星へ重なった。地上の星の形がわずかに歪む。
兵たちの足が、一斉に止まった。
「今です!」
紅緒が続けざまに矢を放つ。青白い糸が三本、四本と断たれ、兵たちがその場へ崩れ落ちた。
だが、門のすぐ前にいた五十鈴だけは止まらなかった。
*
五十鈴は両腕の籠手を下ろしたまま、門へ向かっていた。枕元へ置くはずだった紅緒の札は、帯へ挟まれている。札は淡く光っていたが、五十鈴の歩みを完全には止められない。
「五十鈴!」
景真が肩をつかむ。五十鈴は振り返らず、掠れた声で呟いた。
「離してけろ……。みんな、寒いところで待ってるんだ」
普段の明るい敬語は消えていた。門の向こうを見つめる横顔は、幼い子どものように頼りない。
「開ければ、父ちゃんも母ちゃんも入れる。今度は、おらが暖かいところさ連れてくるんだ」
五十鈴の籠手が唸り、絡繰りの関節から白い蒸気を噴いた。片腕だけで、太い閂が軋み始める。
「紅緒、糸は?」
「見えないわ。五十鈴の中へ深く入り込んでる」
景真は門の向こうを見た。そこに人影はない。青白い火だけが、隙間から揺れている。
「五十鈴。家族は、本当にそこにいるのか?」
「いる! 声がする!」
「じゃあ、どうして門を開けろって言うんだ」
五十鈴の手が止まらない。閂が少しずつ持ち上がっていく。
「お前の家族は、砦の中へ勝手に入るために、仲間を危険にさらせって言う人たちなのか?」
「違う!」
叫びとともに、籠手が閂へ食い込んだ。木が悲鳴を上げる。
「なら、その声は家族じゃない」
景真は手を離さなかった。
「会いたいって思う気持ちを使って、お前にやらせようとしてるだけだ」
門の向こうから声が重なる。帰ってこい。お前だけが幸せになるのか。家族を捨てるのか。
五十鈴の目尻に涙が浮かんだ。
「おらは……捨てられてねえ」
籠手の動きが止まる。
「父ちゃんも母ちゃんも、おらを嫌いで置いてったんでねえ。みんなが生きるためだった。だから――」
五十鈴は歯を食いしばり、門の向こうへ向かって怒鳴った。
「おらの家族は、仲間を傷つけろなんて言わねえ!」
帯の札が強く輝いた。五十鈴の足元から青白い影が引き剥がされ、門の隙間へ逃げようとする。
「紅緒!」
紅緒の矢が影を貫いた。甲高い音が響き、青白い影は火花となって散る。
五十鈴の身体から力が抜けた。景真は咄嗟に肩と腰へ腕を回したが、籠手の重さまで受け止めきれず、二人そろって地面へ座り込んだ。
「重っ……!」
五十鈴を抱えるような格好になり、景真の動きが止まった。大きな籠手と元気な振る舞いに隠れていたが、腕の中の身体は思っていたより華奢で、少女らしい柔らかな丸みがあった。
「東春さま? どうかなさいましたか?」
「いや、別に……」
慌てて目をそらす。そこへ紅緒の冷たい視線が刺さった。
「ずいぶん余裕があるのね」
「違う。今のは不可抗力だ」
「私は何も聞いていないわ」
「す、すみません! それより籠手は高価なので、落とさないでください!」
「今、先に心配するのは俺じゃないのか?」
五十鈴は涙を袖で拭いながら、申し訳なさそうに笑った。
「東春さまも、たぶん丈夫そうですので!」
「たぶんで済ませるな」
紅緒が二人の前へ立ち、門を見上げる。
「安心するのはまだ早いわ」
門の閂は半分ほど持ち上がっていた。さらに、砦の中央から重い鐘のような音が響く。
地下倉庫の方角だった。
*
「地下倉庫へ!」
陽香の声で、四人は走り出した。中庭へ出たところで、指揮所の方から弥助が一人、地下倉庫へ向かっているのが見えた。右手には、倉庫の鍵束が握られている。
「下比地隊長!」
五十鈴が呼びかけても、弥助は振り返らない。眠り歩く兵たちとは違い、目は開いている。それでも、地下倉庫だけを見据える足取りには不自然な迷いのなさがあった。
追おうとした一行の前へ、目を閉じた兵たちが互いに押し合いながら集まってくる。紅緒が矢でつながりを切るが、その脇を別の兵たちがすり抜けていった。
「五十鈴ちゃん、あれを使える?」
陽香が指したのは、修繕のため壁際へ積まれていた太い柱と厚板だった。
「はい! 重いものを動かすのは得意です!」
五十鈴は籠手の指を開き、霊力を流し込んだ。絡繰りの関節が噛み合う音を立てる。太い柱を両腕で持ち上げると、兵たちの前へ横たえ、その上へ厚板を重ねた。急ごしらえの柵に行く手を塞がれ、眠り歩く兵たちの足が止まる。
「押し倒さないように支えて!」
「はい! お任せください!」
五十鈴は柵の裏へ回り込み、籠手で柱を押さえた。兵たちが押し寄せても、霊力で重さを支えた両腕は揺るがない。紅緒がその間に、一人ずつ光の糸を射抜いていった。
最後の兵が崩れ落ちると、五十鈴は柱を壁際の石材へ噛ませ、厚板が倒れないよう固定した。
「急ぎましょう!」
四人が地下倉庫へ駆けつけたとき、弥助は石扉の前で鍵を錠へ差し込もうとしていた。開いた目の奥に青白い光が揺れ、その影は他の兵よりも濃い青に染まっている。
「先ほどは、近づく必要はないとおっしゃっていたでしょう」
紅緒の問いに、弥助の肩がわずかに揺れた。
「状況が変わった。これは私の判断だ」
声に導かれているのではない。自分の判断だと信じたまま、術の望む行動を選ばされているように見えた。
「それ以上、鍵を回さないで」
陽香の声から、いつもの柔らかさが一段だけ消えた。
「あなたが守ろうとしているのは砦ではなく、自分の判断が間違っていないという形よ」
「黙れ!」
弥助が刀を振り上げた。紅緒が前へ出ようとするより早く、五十鈴が二人の間へ割って入る。籠手が刃を受け止め、火花が散った。
「下比地隊長、目を覚ましてください!」
「見習いが私へ逆らうか!」
「逆らっているんでねえ! 止めてるんです!」
弥助が刀を押し込む。五十鈴は力では負けていない。それでも人へ向けて籠手を振るうことをためらい、押し返せずにいた。
「五十鈴、そのまま押さえて!」
紅緒が弓を引いた。狙いは弥助ではなく、鍵束を握る手元だった。
「下比地隊長、動かないでください!」
霊矢が放たれる。淡い光は弥助の指先すれすれを通り、鍵束の輪だけを正確に射抜いた。
鍵束が手から弾け、石段を跳ねる。
「景真!」
紅緒の声より先に、景真は駆け出していた。弥助が刀を押し返そうと五十鈴へ意識を向けた隙に石段へ滑り込み、転がる鍵束をつかむ。
「取った!」
「返せ!」
弥助が手を伸ばす。景真は身をひねってかわし、鍵束を紅緒へ投げた。
紅緒が片手で受け取り、そのまま後ろへ下がる。
「これで扉は開けられません」
だが、地下倉庫の扉から、低い音がした。
弥助が鍵を差し込む前から、錠の内側で何かが動いていた。
*
三つの錠が、内側から一つずつ外れた。
重い石扉が、細い隙間を作る。そこから流れ出した冷気に、砦中の青白い光が吸い寄せられた。
「下がって!」
陽香が結界を張る。直後、扉が勢いよく開き、無数の声が四人へ押し寄せた。
父の声。母の声。戦友の声。幼い子どもの声。誰かが最も会いたい相手の声を借りながら、すべてが同じ言葉を繰り返している。
「こちらへ来い」
地下倉庫の中には、古びた軍旗が天井から垂れていた。その下に、数え切れないほどの名札が木箱へ納められている。
青白い光は名札の文字を一つずつなぞり、軍旗へ集まっていた。染みだした影が旗の上で絡み合い、人の形を作っていく。
顔はない。代わりに、呼ばれた者たちの名前が浮かんでは消えていた。
「あれが、兵たちの記憶を拾っているの?」
「いいえ」
陽香は軍旗ではなく、その背後の壁を見ていた。
壁には、砦の外で見つかったものと同じ金具が、星を逆さにした形で打ち込まれている。その中央にだけ、真新しい札が一枚貼られていた。
「軍旗と名札は、力を溜める器にされているだけ。術を動かしているものは、別にあるわ」
景真は目を凝らした。札には見覚えのない術式が描かれている。だが、その紙の端だけが、不自然に焼け焦げていた。誰かが印を消そうとした跡のように見えた。
影の人型が、名札の山へ手を伸ばす。
一枚の名札が宙へ浮き、その文字が青白く燃え上がった。
砦の外から、兵たちの絶叫が重なる。
「名札を使って、兵たちの記憶を一つにまとめるつもりだわ」
「まとめたら、どうなる?」
陽香は答えなかった。
代わりに、人型の影が初めて顔を上げた。
顔のないはずの場所に、無数の目が開く。
「帰ってこい」
その声は、地下倉庫にいる全員が、最も忘れられない相手の声をしていた。




