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第六話「星降る砦」④

「帰ってこい」

 その声は、地下倉庫にいる全員が、最も忘れられない相手の声をしていた。

 景真の耳には、母の声が届いた。幼い頃、熱を出した夜に何度も呼びかけてくれた、穏やかな声だった。こちらへおいで。もう頑張らなくていい。帰っておいで。

 一歩、足が前へ出かけた。

「景真!」

 紅緒の声が、夢のような囁きを切り裂いた。景真は息を呑み、踏み出しかけた足を止める。

 隣では五十鈴が籠手を胸元へ引き寄せ、歯を食いしばっていた。陽香も表情を曇らせている。誰にでも、呼ばれれば振り向いてしまう声があるらしい。

「声を聞かないで。あれは、あなたたちが覚えている声を借りているだけよ」

 陽香は両手を広げ、床へ四枚の札を放った。札は東西南北へ滑り、金色の線で結ばれる。柔らかな光の結界が四人を包むと、押し寄せていた声が水の底へ沈んだように遠ざかった。

「長くは持たないわ。術の中心を見つけましょう」

 軍旗の上で形を得た影が、無数の腕を伸ばした。木箱から名札が次々と浮かび、青白い文字となって影の身体へ吸い込まれていく。

 名を取り込まれるたび、倉庫の外から兵たちの苦しむ声が響いた。

「名札と本人の記憶が、つながっているのね」

「だったら、名札を燃やせば終わる!」

 背後から弥助が叫んだ。刀を落とした彼は、壁際に置かれた灯明へ手を伸ばす。

「やめて!」

 陽香の声が鋭くなる。

「名札は兵たちの記憶を集める器にされているの。今燃やせば、つながった兵たちへ火が返るかもしれないわ」

「では、どうしろというのだ! 陰陽寮は何もできぬのか!」

「できることを探しているのよ。だから、少し黙っていてちょうだい」

 声音は穏やかなままだった。だが弥助は、陽香の言葉に押されて口を閉じた。

 紅緒が軍旗へ霊矢を向ける。

「軍旗を射抜けば?」

「それも危険ね。軍旗は力を溜め込んでいる。壊せば一気に噴き出すわ」

「なら、壊すべきは器じゃない」

 景真は壁を見た。逆さの星形に打ち込まれた金具。その中央に貼られた真新しい札。

「あの札が、全部をつないでる」

 陽香が頷いた。

「ええ。地上の星と、軍旗と、名札。それを一つの術にしている継ぎ目ね」

「札だけを剥がせばいいのね」

 紅緒が弓を引く。だが陽香は首を振った。

「今は術の力が札へ集中しているわ。射抜けば、術者の痕跡ごと消えてしまうかもしれない」

 景真は焼け焦げた札の端を見つめた。誰かが自分の印だけを隠し、術そのものは残した跡だ。

「じゃあ、先に力を逃がす」

「どうやって?」

「地上の星を、空へ返すんだ」


   *


 景真の言葉に、陽香がわずかに目を見開いた。

「空へ返す……」

「あの金具は、空の星を地上へ写すために置かれたんだろ。だったら、地上の形を崩すんじゃなくて、本物の星の並びに重ね直せないか?」

 陽香は一瞬だけ考え、すぐに見取り図を広げた。

「できるかもしれないわ。偽物の星の並びを、本来の星図へ重ね直して、術の流れを空へ逃がすのね。ただし、地上の星を一つずつ正しい位置へ導く必要がある」

「外の金具は私が射抜きます」

 紅緒が言う。

「壊すのではなく、霊矢を目印にするのね?」

「はい。陽香さまの術へ、私の矢をつなげてください」

「分かったわ」

 陽香は袖から星図を取り出し、床へ広げた。指先が星の位置をなぞるたび、金色の光が図の上へ灯る。

「五十鈴ちゃん。倉庫の入口を守ってもらえる?」

「はい!」

 五十鈴は籠手を打ち合わせ、扉の前へ立った。影からこぼれた黒い腕が床を這い、四人へ伸びてくる。五十鈴は近くに倒れていた木箱を持ち上げ、腕の群れへ叩きつけた。箱が砕け、影の進路が一瞬止まる。

「ああっ、箱代が! でも今は仕方ありません!」

「十分頼もしいわ」

 紅緒は倉庫を飛び出した。

 外では、眠り歩く兵たちが即席の柵へ押し寄せている。陽香の結界が弱まったことで、止まっていた者たちも再び動き始めていた。

 紅緒は見取り図の位置を思い出しながら、門、武器庫、見張り台、井戸へ向けて矢を放つ。

 霊矢は金具そのものを砕かず、そのすぐ傍らへ突き立った。赤い光が星の印となって、砦の各所に浮かぶ。

「陽香さま!」

 倉庫の中で、陽香が両手を組んだ。

「見えているわ」

 星図の金色と、紅緒の赤い矢がつながっていく。地上に描かれていた歪な星が、少しずつ天の並びへ引き直される。

 青白い線が軋み、砦全体が低く震えた。

「そんなことをすれば、砦の結界まで壊れるぞ!」

 弥助が叫ぶ。

「壊しません。借り物の星空を返すだけよ」

 陽香の髪が、吹き込むはずのない風に揺れた。

「天にある星は、人の後悔を食べるために輝いているのではないもの」

 金色の光が一気に広がった。

 地上の青白い星が、紅緒の矢を伝って空へ昇る。夜空へ吸い込まれた光は本物の星々の間へ溶け、砦を覆っていた重苦しい気配が薄れていった。

 軍旗の影が大きく揺らぐ。名札をなぞっていた光が途切れ、人型を形作っていた腕が崩れ始めた。

「今よ、紅緒さん!」


   *


 紅緒が地下倉庫へ戻り、弓を構えた。

 狙うのは軍旗でも名札でもない。壁の中央に貼られた一枚の札だった。

 しかし、影は最後の力を振り絞るように膨れ上がり、紅緒の前へ立ちはだかった。無数の顔と声が重なって叫ぶ。

「見捨てるのか」

「また置いていくのか」

「お前だけが帰るのか」

 紅緒の指が、わずかに震えた。

 影の中から、父の声が聞こえたのかもしれない。景真には分からない。ただ、紅緒が一瞬だけ弓を下げかけたことだけは見えた。

「紅緒」

 景真は呼んだ。

「それは、紅緒が覚えてる声だ。あいつの声じゃない」

 紅緒は目を閉じ、一度だけ息を吐いた。

「……分かっているわ」

 再び開いた赤い瞳には、迷いがなかった。

「その人の名も、声も、あなたのものではない」

 弓弦が鳴った。

 霊矢は影の胸を貫いたが、傷つけるための矢ではなかった。深影の父と操り札のつながりだけを射抜いた時と同じように、紅緒は影と名札を結ぶ青白い糸だけを狙っていた。糸が次々と断たれ、影に取り込まれていた名前が光の粒となって名札へ戻っていく。

 一つ、また一つ。浮かんでいた名札が木箱へ落ちる。

 影は声を失い、形を保てなくなった。

「五十鈴!」

「はい!」

 最後に残った黒い塊が壁の札へ戻ろうとする。五十鈴は床から外れかけていた太い棚板を持ち上げ、影の進路へ叩きつけた。

 影が板へまとわりついた一瞬、景真は壁際へ走った。

「景真、触らないで!」

「分かってる!」

 直接つかむ代わりに、転がっていた火箸を拾う。札の焼け焦げた端へ差し込み、壁から浮かせた。

 その隙間へ、紅緒の二本目の矢が滑り込む。矢は札を壁へ留める釘だけを弾き飛ばした。

 札が宙へ舞う。

 陽香が袖を翻し、白い布で札を包み込んだ。

「捕まえたわ」

 影が音もなく崩れた。

 軍旗は古びた布へ戻り、名札の文字から青白い光が消える。砦の外では、兵たちが一斉に地面へ倒れ込んだ。

 しばらくの間、誰も動かなかった。

 やがて、五十鈴の籠手から小さな歯車の音がした。

「……終わったのでしょうか」

「ええ」

 陽香は包んだ札を見つめた。

「少なくとも、この砦を縛っていた術はね」

「誰が仕掛けたんだ?」

 景真が尋ねる。

 陽香は布を少し開き、札の端を確かめた。術者を示すはずの印は、やはり焼き消されている。

「すぐには分からないわ。でも、偶然生まれた怪異ではない。誰かが兵たちの手を使って金具を打たせ、ここへ術を仕込んだ」

 弥助が顔をしかめる。

「砦の中に裏切り者がいるというのか」

「そうとは限らないわ。普通の釘だと思って配られたのなら、打った人たちも被害者よ」

 陽香は布を閉じた。

「疑う相手を増やす前に、まず全員を休ませましょう」


   *


 夜が明ける頃、砦の兵たちはようやく静かな眠りについた。

 今度は誰も歩き出さない。門も武器庫も閉じられたまま、地上の星も消えていた。

 陽香は一人ずつ様子を確かめ、紅緒は砦の要所へ新しい札を置いた。景真と五十鈴は、散乱した名札を木箱へ戻す作業を手伝った。

 五十鈴は一枚ずつ埃を払い、文字が上を向くよう丁寧に重ねていく。

「知らない方々ですが、砦を守ってくださった先輩方なんですよね」

「そうだな」

「今度は、ちゃんと静かに休んでいただきたいです」

 景真が頷くと、五十鈴は少しだけ笑った。

 指揮所では、弥助が腕を組み、陽香の報告を聞いていた。怪異の影響が薄れたためか、昨夜ほど目つきは険しくない。それでも、自分の判断が誤っていたとは認めなかった。

「結果として、砦は守られた。ものの歩が最後まで持ち場を離れなかったからだ」

「皆さんが耐えてくださったことは、報告に記しておくわ」

 陽香は微笑んだ。

「同時に、休息を認めなかったことで被害が拡大したこともね」

「あの状況では、誰でも同じ判断をしたはずだ」

「ええ。その点も含めて陰陽寮へ報告し、陰陽寮名義で糾察司へ上げてもらいます」

 弥助の眉が動く。

「糾察司?」

 景真が小声で尋ねると、紅緒が隣で答えた。

「朝廷の役人や各組織が、規則に従って務めを果たしているか調べる役所よ。必要があれば、処分を求めることもできるわ」

「糾察司まで持ち出すつもりか」

 弥助の声から、初めて余裕が消えた。

「判断するのは私ではなく、糾察司よ。私は、ここで起きたことをそのまま報告するだけ」

 陽香は柔らかく言い切った。弥助は何か反論しようとしたが、結局口を閉じた。

 砦を出る頃には、朝日が土塁の上へ差し込んでいた。

「皆さま!」

 背後から五十鈴が駆けてくる。両腕の籠手は外され、二つまとめて布で背負われていた。

「今回は、本当にありがとうございました!」

 勢いよく頭を下げたあと、五十鈴は顔を上げる。

「私、陰陽寮の方々は、もっと怖い方ばかりだと思っておりました」

「誰にそう教わったの?」

 陽香が尋ねると、五十鈴は困ったように笑った。

「いろいろな先輩方です! ですが、もう信じません!」

「人の話を全部信じるのも、全部信じないのも危ないぞ」

 景真が言う。

「では、自分で確かめます!」

 五十鈴は胸を張った。

「今度、依頼がなくても会いに行ってよいでしょうか?」

「御伽衆へ来れば、たぶん俺はいる」

「本当ですか!」

「ただし、勝手に砦を抜けて怒られても知らないぞ」

「お休みの日に行きます! お茶代は東春さま持ちで!」

「なんで俺なんだ」

「先ほど支えていただいたお礼に、私がお茶を飲んで差し上げます!」

「それは礼なのか?」

 紅緒が小さく笑った。

「来るなら事前に知らせて。景真一人では、あなたが危険だから」

「どういう意味だよ」

「昨夜、五十鈴をずいぶん近くで抱き留めていたでしょう?」

「あれは倒れそうだったから支えただけだ!」

 陽香が二人を見比べ、楽しそうに目を細める。

「五十鈴ちゃん、新しいお友達ができてよかったわね」

「はい!」

 五十鈴は迷わず答えた。

「私は、もう皆さまを友達だと思っております!」

「決めるのが早いな」

「遅いより得です!」

 金銭の話ではないはずなのに、五十鈴はきっぱりと言った。

 そのとき、砦の中から怒鳴り声が飛んだ。

「梯! いつまで話している! 片づけが残っているぞ!」

「はい、ただいま!」

 五十鈴は振り返りかけ、もう一度景真たちへ頭を下げた。

「では、また必ず!」

 砦へ駆け戻りながら、途中で何かを思い出したように足を止める。

「下比地隊長! 夜通し働いた分の手当は出ますか!」

「出るわけがあるか!」

「そこは規則を確認してけろ!」

 朝の砦に、五十鈴の訛った声が響いた。

 景真は思わず笑い、紅緒も肩の力を抜いた。

 土塁の上には、もう地上の星はない。

 代わりに夜明けの空で、一つだけ遅い星が淡く瞬き、やがて朝の光へ溶けていった。

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