第七話「灯りの下、三つの影」①
幽京では、数日後に控えた灯籠祭の準備が始まっていた。
瑞市区から御伽館へ続く通りには、まだ火の入っていない灯籠が軒先ごとに吊られている。朱、藍、薄黄。昼の光の下ではただの色紙に見えるそれも、夜になれば町を柔らかな明かりで満たすのだという。
御伽館の受付卓でも、いつもより人の出入りが多かった。祭り前は人も物も動く。そのぶん、落とし物や揉め事、妙な噂まで増えるらしい。
深影は八重の隣で依頼帳へ筆を走らせていた。
「西通りの屋台が、夜になると勝手に場所を移す、と。……これは昨日もあったね」
「同じ屋台?」
「同じ店主。酔って片づける場所を間違えてるだけさ。三度目なら怪異より先に酒を疑いな」
「なるほど」
深影が真面目に頷くと、八重は鼻を鳴らした。
「感心してる暇があったら、次」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
そんなやり取りをしているところへ、御伽館の戸が勢いよく開いた。
入ってきたのは三十代半ばほどの夫婦だった。男は息を切らし、女は羽織の胸元を握りしめている。二人とも顔色が悪い。
「お願いします! 娘を、娘を助けてください!」
男が受付へ身を乗り出した。隣で女も声を重ねる。
「朝からおかしいんです。いえ、昨日の夜からで――あの子はずっと家にいたはずなのに、でも外で見た人がいるって、それで影が、影がないんです!」
「待ちな」
八重が片手を上げた。声を荒らげたわけではない。それでも二人は、ぴたりと口を閉じた。
「一人ずつ話しな。怒鳴っても娘さんの具合は良くならないよ」
男が唇を噛み、頭を下げる。
「……失礼しました」
「娘さん本人は家にいる?」
「はい」
「意識は?」
「あります。話もできます。熱も……今朝はありませんでした」
「なら、いなくなったのは娘さんじゃない」
八重は女を見る。
「影がないっていうのは、どういう意味だい?」
女は震える声で答えた。
「そのままです。朝、障子を開けたら、光が差したのに……あの子の足元だけ、何もなくて」
深影の筆が止まった。
「影が、ない?」
女が初めて深影を見る。真っ黒な瞳に一瞬だけ驚いた様子を見せたが、すぐに縋るような顔になった。
「昨日まではあったんです。たしかに」
八重は深影を横目で見た。
「興味ありそうだね」
「うん。影が勝手に消えるって、あまり普通じゃないから」
「普通じゃないから、ここへ来てるんだよ」
八重は依頼帳を閉じると、深影の前へ押した。
「深影。行ってきな」
「私?」
「影の話なら、あんたの方が詳しいだろ」
少し間を置き、八重は続けた。
「それに、怯えてる相手を急かさず話させるのは、少しは覚えたみたいだからね」
深影は目を瞬いたあと、口元を緩めた。
「褒められた?」
「調子に乗るんじゃないよ。まだ見習いだ」
「はーい」
「返事」
「はい」
夫婦は不安そうに二人を見比べている。八重はそんな二人へ向き直った。
「この子がまず様子を見る。必要なら陰陽寮にも話を回す。娘さん本人の話も聞くから、先に決めつけないこと。いいね?」
男は深く頭を下げた。
「お願いします」
*
深影が夫婦の家へ向かうことを知ると、景真と紅緒も同行することになった。
御伽館を出るころには、通りの灯籠に夕方の風が通り始めている。まだ火は入っていないのに、紙の飾りが揺れるたび、町全体が祭りを待っているようだった。
夫婦の家は瑞市区の外れにあった。大きくはないが、庭の手入れがよく行き届いている。縁側には鉢植えが並び、窓辺には外からでも見えるよう、小さな手毬が飾られていた。
「娘は、琴乃と申します」
父親が戸を開けながら言った。
「今年で十二になります。身体が弱く、あまり外へ出たことがありません」
「ずっと?」
景真が聞く。
「幼い頃、一度大きく体調を崩しまして。それからは、無理をさせないようにしています」
母親が先に琴乃の部屋へ入り、声をかけた。
「琴乃。御伽衆の方が来てくださったわよ」
窓辺に少女が座っていた。
薄い茶色の髪を肩口で揃え、膝へ毛布を掛けている。顔色は白いが、病人というほど弱々しくは見えない。こちらを見ると、少し緊張しながらも丁寧に頭を下げた。
「琴乃です。よろしくお願いいたします」
「御陵深影。こっちは景真と紅緒」
「よろしく」
「よろしくお願いします」
紅緒は挨拶を返しながら、すぐに琴乃の足元へ目を落とした。
西日が障子越しに差し込み、母親の影を畳へ長く伸ばしている。景真の影も、紅緒の影もある。
琴乃の足元だけが、明るいままだった。
「本当に、ない……」
景真が思わず呟く。
琴乃は困ったように笑った。
「私も、朝になって母に言われるまで気づきませんでした」
「昨日は?」
紅緒が尋ねる。
「たぶん、ありました。夜、灯りを消す前には……」
「何か変わったことはなかった?」
「ありません」
答えは早かった。
深影は琴乃の前へしゃがみ込んだ。
「ちょっとだけ、足元見てもいい?」
琴乃が頷く。
深影の影から、小さな蛇の形が二つ滑り出した。黒い影蛇は畳を這い、琴乃の左右へ回る。父親が息を呑んだが、母親は娘の肩へ手を置いただけで何も言わなかった。
影蛇は琴乃の足元を一周したあと、窓際で動きを止めた。
その先へ、髪の毛ほど細い黒い筋が伸びている。畳を横切り、敷居を越え、外へ続いていた。
深影が指先でその筋をなぞる。
「……切れてない」
「何が?」
景真が聞く。
「琴乃と影。まだ、つながってる」
紅緒が眉を寄せる。
「誰かに奪われたわけではない?」
「たぶんね」
深影は窓の外へ続く細い筋を見つめた。
「盗られたっていうより……自分から離れた感じがする」
「影が、自分で?」
父親の声が硬くなる。
「怪異に操られているのではないのですか」
「まだ分からないよ」
深影は穏やかに答えた。
「でも、無理やり引きちぎられた跡はない」
そのとき、琴乃が小さく咳をした。
母親がすぐに振り向く。
「琴乃、お水を――」
言いかけて、母親の目が一瞬だけ宙をさまよった。
「……琴乃?」
目の前にいる娘を、探すような声だった。
「お母さま?」
琴乃が答える。
母親ははっとして、娘の肩へ触れた。
「ごめんなさい。ぼんやりしてしまって」
笑って取り繕ったが、その指は震えていた。
紅緒だけは笑わなかった。
「今、琴乃が見えなかったんですか?」
「ほんの、一瞬だけです。そこにいるのに、どうしてか……」
紅緒は琴乃の顔を見つめる。景真にも一瞬、少女の輪郭が背後の障子へ溶け込んだように見えた。瞬きをすると、そこにはいつも通り琴乃が座っていた。
「影がなくなっただけではないのかもしれないわ」
「どういうこと?」
景真が尋ねる。
「存在そのものが、少しずつ薄くなっている可能性がある」
父親の顔色が変わった。
「では、影を戻してください。今すぐに」
「見つければ、戻す方法は考えます」
紅緒が答える。
だが深影は、窓の外を見たままだった。
「戻すだけじゃ、たぶん駄目だよ」
紅緒が振り返る。
「どうして?」
「理由があって出ていったなら、その理由が残ったままだから」
「それでも、琴乃が消える方が先なら――」
「うん。だから急ぐ」
深影は琴乃へ向き直った。
「でも、影を捕まえるだけじゃなくて、なんで出ていったのかも調べたい」
琴乃は一瞬だけ目を伏せた。
*
日が暮れるころ、三人はいったん家の周囲を調べることにした。
深影の影蛇が追う細い筋は、門を出て通りへ続いている。しかし途中で何度も薄くなり、人の足跡のように簡単には追えない。
祭り前の町では、軒先の灯籠へ一つずつ火が入り始めていた。
最初の証言が見つかったのは、琴乃の家から二筋ほど離れた団子屋だった。
「ああ、その子なら昨夜見たよ」
店主の女はそう言って、家から持ってきた琴乃の特徴を確かめた。
「十二くらいの女の子で、肩までの茶色い髪。白っぽい着物だったろ?」
「話はしました?」
景真が尋ねる。
「いいや。団子をじっと見てたから声をかけたんだけどね。何にも言わずに、灯籠の下をすっと歩いていったよ」
「何時ごろ?」
「戌の刻を少し過ぎた頃かな」
父親が首を振る。
「その時間、琴乃は家にいました」
さらに近くの露店でも、同じ少女を見たという者がいた。
その次は川辺。
そして小さな祠の前。
誰も声を聞いていない。
誰も足音を聞いていない。
ただ、灯籠の明かりの下へ入った時だけ、少女の輪郭がはっきり見えたという。
「妙だな」
景真は証言を書きつけながら言った。
「琴乃が歩いてるなら、琴乃自身の影がないのはおかしい。でも、見た人はその子の影も見てない」
紅緒が腕を組む。
「本人ではないということ?」
「たぶん」
景真は深影を見る。
「影そのものが、琴乃の形になって歩いてるんじゃないか?」
深影は少し黙ってから頷いた。
「ありえると思う」
「影が、人の形になるなんてことがあるの?」
紅緒が聞く。
「こういうふうに人から離れた影はね。長く離れていると、だんだん元の持ち主との境目が曖昧になることがある」
「それって、危ないのか?」
「影が琴乃に近づいていくほど」
深影は灯籠の明かりを見る。
「たぶん、琴乃の方がもっと薄くなっていく」
三人の間に沈黙が落ちた。
遠くで祭囃子の稽古が聞こえる。明るい笛の音が、今は妙に遠かった。
*
その夜、三人はもう一度琴乃の部屋へ戻った。
琴乃は変わらず窓辺にいた。だが、昼より輪郭が淡く見えるのは、灯りのせいだけではないように景真には思えた。
「何か、外へ出たい理由に心当たりはない?」
深影が尋ねる。
琴乃は首を振った。
「ありません」
「祭り、好き?」
一瞬だけ、返事が遅れた。
「……あまり、知りません。小さい頃に一度見ただけですから」
「今年は?」
「行きません」
今度は早かった。
「身体に良くありませんし、お父さまとお母さまが心配しますから」
深影は何も言わなかった。
景真が部屋を見回したとき、窓枠の隙間に白い紙が挟まっていることに気づいた。風で入り込んだものには見えない。
「これ、何だ?」
指を伸ばすと、琴乃が慌てて立ち上がった。
「あっ――」
紅緒が先に紙を拾う。細長い願い札だった。上の端が少し破れている。
そこには、幼い筆跡で途中まで文字が書かれていた。
「お父さまとお母さまと、お祭りへ――」
紅緒がそこで読むのを止めた。
琴乃は俯いている。
「……ただ、書いただけです」
「続きは?」
景真が聞く。
「ありません」
「でも」
「本当に、行きたいわけではありません」
琴乃の声が少しだけ強くなった。
「外へ出たら、お父さまとお母さまが心配します。もう、あんなふうに心配させたくないんです。だから、私は家にいる方がいいんです」
言い切った直後、窓際で小さな音がした。
深影の影蛇が顔を上げる。
琴乃から外へ続く細い影の糸が、ぴんと張っていた。
まるで、その言葉を否定するように。
深影は琴乃ではなく、その糸を見つめた。
「……そっか」
「何ですか?」
「ううん。まだ分からない」
深影は立ち上がり、窓の外を見た。
通りでは、祭りのための灯籠が夜風に揺れている。
そのうちの一つの下を、少女の形をした黒い影が横切った。
ほんの一瞬。
誰かに見つかる前に、その姿は次の明かりへ溶けるように消えた。




