第七話「灯りの下、三つの影」②
翌日の夕暮れ、深影たちは再び琴乃の家を訪れた。琴乃の様子に大きな変化がないことを確かめたあと、三人は祭り支度の進む通りへ出た。軒先には灯籠が並び、往来には露店の荷を運ぶ人々が行き交っている。
昼のあいだに影を追おうとしてみたが、手掛かりはほとんど得られなかった。深影の影蛇は、琴乃から外へ伸びる細い糸をたどることはできる。だが、糸は通りへ出たところで何本もの人影と重なり、すぐに見失ってしまう。
代わりに、昨夜「もう一人の琴乃」を見たという者たちから話を集めた。
「見たのは、だいたいこの辺だな」
景真は借りた幽京の簡単な地図を膝の上へ広げ、証言のあった場所へ印をつけた。
「団子屋の前。髪飾りの露店。川沿い。それから、子どもたちが遊んでいた広場……」
「ずいぶん歩いてるわね」
紅緒が地図を覗き込む。
「でも、昼間に同じ場所を調べても何もなかった」
「影だからね」
深影は道の端へしゃがみ込んだ。
「こうやって人から離れた影は、明るすぎるところだと痕跡が散っちゃうことがあるみたい。形が残りやすいのは、真っ暗なところじゃなくて――」
通りの灯籠に、ひとつずつ火が入り始める。
「光と暗がりの境目」
深影の黒い瞳が、灯籠の足元へ向いた。
橙色の光の中へ、人々の影が長く伸びている。大人の影、子どもの影、荷車の影。それらが行き交う中で、一つだけ奇妙な跡が浮かんだ。
小さな足跡だった。
泥でも水でもない。灯籠の明かりが地面へ落ちたところだけ、少女の足の形に黒ずんでいる。
「あった」
深影が指差す。
「これが琴乃の影?」
「たぶん。見て」
足跡は灯籠の光の中に一つだけ残り、次の灯籠の下にもう一つ現れていた。その間の暗がりには何もない。
「飛んでるみたいだな」
「影にとっては、明かりの下が足場なのかもしれないね」
深影は自分の影へ指先を触れた。細い蛇の形がするりと抜け出し、地面を這う。影蛇は最初の足跡を嗅ぐように頭を低くし、それから次の灯籠へ向かった。
「追える?」
「やってみる」
深影、景真、紅緒の三人は影蛇のあとを追った。
祭りを控えた町は、昨夜より賑やかだった。軒先には灯籠が並び、屋台の骨組みが組まれ、通りのあちこちから甘い匂いや炭の煙が漂ってくる。
影の足跡は、そんな人混みの中を迷うことなく進んでいた。
最初に止まったのは団子屋だった。
「昨日の夜、この辺で女の子を見ませんでしたか?」
景真が店主へ尋ねる。
「ああ。いたよ。妙な子だった」
店主は串を並べながら頷いた。
「買うでもなく、ずっと団子を見ててな。声をかけたら、こっちを見るんだけど何も言わない。少し目を離したら消えてた」
「何の団子を見ていたか覚えています?」
「胡桃味噌のやつだ。子どもには渋いと思ったんだが」
店先には味の目印らしく、殻付きの胡桃が小さな籠に盛られていた。
景真は地図の印の横へ「胡桃味噌」と書き足した。
次は髪飾りの露店だった。
「銀杏の葉を模した簪を、ずっと眺めていたよ」
簪の脇には、同じ銀杏の形を彫った小さな木の飾り札が立てられていた。
店の女が教えてくれた。
「あのくらいの子なら、もっと花の飾りを選びそうなのにねえ」
その次は広場。
子どもたちが蹴鞠の真似事をして遊んでいた場所で、影は端に立ち、長いこと眺めていたという。
「混ざりたかったのかな」
景真が呟く。
「それなら、もっと近くへ行くと思う」
深影は足跡を見た。
「この子、遊んでる子たちじゃなくて、地面に置いてあった手毬の方を見てたみたい」
足跡は、広場の隅に置かれた古い手毬の前で長く重なっていた。
もう一か所、影が長く立ち止まっていた場所があった。祭りの願い札を扱う小さな店だった。
「何か書いていったんですか?」
「いや。三枚並べて、ずっと眺めていただけだよ。声をかけたら、いつの間にかいなくなってた」
景真は地図の余白へ、「願い札・三枚」と書き添えた。
「団子、簪、手毬……」
紅緒が小さく眉を寄せる。
「琴乃の欲しいものなのかしら」
深影は答えなかった。
影蛇が、次の灯籠へ向かって頭を上げた。
*
川沿いへ着いたころには、すっかり夜になっていた。
水面には灯籠の光が細長く揺れ、橋の上を祭りの準備帰りの人々が行き交っている。
影蛇は橋の手前で止まった。
「ここで痕跡が切れてる」
「川へ入ったのか?」
「違うと思う」
深影が橋の欄干へ近づいた。
そこには細い紐が引っかかっていた。紐の先には、小さな紙包みが結ばれている。
紅緒が札を一枚かざし、異常がないことを確かめてから包みを開いた。
中から出てきたのは、小さな胡桃だった。
「団子屋の……?」
「たぶん、団子屋の店先にあった胡桃ね」
さらに欄干の下から、銀杏の葉を模した木片が見つかった。簪そのものではない。露店の見本を置くための飾り板から落ちた、小さな欠片だった。
「盗んだわけじゃないのか」
「持って帰れるものだけ拾ったみたい」
深影は二つを手のひらに載せた。
景真が地図を見返す。
「でも、何のために?」
答えを探すため、一行は琴乃の家へ戻った。
父親は胡桃を見るなり、目を丸くした。
「これは……」
「お心当たりが?」
紅緒が尋ねると、父親は照れたように頭をかいた。
「胡桃味噌の団子が、昔から好きでして。琴乃が小さい頃は、祭りのたびに買っていたんです」
母親も、銀杏の木片を見て息を呑んだ。
「この形……私、若い頃に銀杏の簪が欲しいと言ったことがあります」
「琴乃さんの前で?」
「ええ。ずっと昔のことです。あの子がまだ、本当に小さかった頃に」
景真と紅緒が顔を見合わせる。
残る手毬について尋ねると、父親がしばらく黙ったあと、押し入れから古い箱を持ってきた。
中には、色褪せた手毬が一つ入っていた。広場にあったものとよく似た模様だった。
「琴乃が三つか四つの頃、三人でよく遊びました」
母親の声が少しだけ柔らかくなる。
「あの子、毬をまっすぐ投げられなくて。いつもお父さまの方じゃなくて、後ろへ飛ばしてしまって」
「それを拾いに行くのはいつも私でした」
父親も笑った。
ほんの一瞬だけ、今の家の重苦しさとは違う時間が戻ってきたようだった。
だが、その笑みはすぐ消える。
「その頃は、まだ外へも出られたんですね」
景真の問いに、両親は黙った。
代わりに、母親が琴乃の部屋の方を見た。
「……はい」
それ以上は話さなかった。
深影は手の中の胡桃と木片を見つめる。
「琴乃が欲しかったものじゃない」
紅緒がゆっくり頷いた。
「お父さまと、お母さまに関係するもの……」
「手毬も、三人の思い出だ」
景真は地図の印を線でつないだ。
「あの影、自分が遊びたいだけじゃないんじゃないか?」
深影の影蛇が、琴乃の部屋へ続く廊下を見た。
「うん。何かのために集めてるみたい」
「何のために?」
「……まだ分からない」
深影は手の中の胡桃と木片へ視線を落とした。
しかし、まだその先までは言わなかった。
*
翌朝、琴乃の状態は明らかに悪化していた。
身体が弱ったわけではない。熱もなく、脈も乱れていない。
それなのに、部屋へ入った景真は、一瞬そこに誰もいないと思った。
窓辺には琴乃が座っている。昨日と同じ薄桃色の着物を着て、こちらを見ている。
だが、景真は彼女へ視線を向けるまで、その存在に気づけなかった。
「……悪い」
「何がですか?」
「いや」
言えなかった。
紅緒も同じことを感じたらしい。琴乃から目を離すたび、部屋の中にいる人数を一人少なく数えそうになる。
深影は床へ影蛇を這わせた。
琴乃から外へ伸びる糸は、昨日より太くなっている。逆に、琴乃と影をつなぐ根元の気配は弱くなっていた。
「外の影が、もっと強くなってる」
「琴乃さんの方は?」
「反対。薄くなってる」
そこへ母親が盆を持って入ってきた。湯気の立つ薬湯と、小さな菓子が載っている。
「琴乃、お薬を――」
母親はそこで止まった。
部屋を見回す。
「……あら?」
琴乃が目の前にいる。
「お母さま?」
母親は返事をしなかった。
数歩進み、寝床を見て、窓辺を見て、それでも娘を探すように視線を彷徨わせる。
「琴乃?」
琴乃の顔から血の気が引いた。
「ここです。お母さま、私はここに――」
母親の目がようやく琴乃を捉えた。
「琴乃!」
盆を畳へ置き、娘を抱きしめる。
「ごめんなさい。どうして……目の前にいたのに……」
母親の肩が震える。琴乃は驚きながらも、その背中へそっと腕を回した。
「大丈夫です。私はここにいます」
その言葉が、かえって紅緒の表情を険しくした。
廊下へ出たあと、紅緒は深影へ向き直った。
「もう待てないわ」
「紅緒?」
「今夜、影を見つけたら捕らえる。琴乃へ戻すわ」
深影はすぐには答えなかった。
「戻すだけじゃ、たぶん駄目」
「でも、このままでは琴乃が消える」
「分かってる」
「だったら――」
「分かってるって言ってる」
深影の声が、珍しく強くなった。
紅緒が言葉を止める。
「あの影は、琴乃の嫌なものを持って逃げてるんじゃない。琴乃が言えなかったものを持って歩いてる」
「だからといって、琴乃の存在を削っていい理由にはならないわ」
「そんなこと言ってない」
「なら、どうするの?」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
深影は唇を噛んだ。
「……まだ、分からない」
紅緒も黙った。
景真は二人を見ていた。
紅緒は琴乃を消したくない。だから、一刻も早く影を戻したい。
深影は琴乃の心を置き去りにしたくない。だから、理由を知らないまま戻したくない。
どちらかが間違っているようには思えなかった。
「今夜までだ」
景真が言った。
「影を追って、何をしようとしてるのか確かめる。それでも戻す方法が見つからなかったら、その時は琴乃を守る方を優先する」
紅緒が景真を見る。
「悠長すぎるか?」
紅緒はしばらく考えたあと、小さく息を吐いた。
「……今夜までよ」
深影も頷いた。
「うん」
それでも、互いが何を守ろうとしているのかだけは、少し見えたようだった。
*
その日の夜、深影は一人で琴乃の部屋に残った。
景真と紅緒は影の目撃場所をもう一度確認しに出ている。両親も、祭りの夜に影が現れたときのため、家の周囲を見てもらっていた。
部屋には琴乃と深影だけ。
窓の外では、灯籠が風に揺れている。
「深影さん」
「なに?」
「あの影は……私なんでしょうか」
深影は窓辺に腰を下ろした。
「全部が琴乃ってわけじゃないと思う」
「では、私ではない?」
「それも違うかな」
琴乃が困ったように笑う。
「難しいです」
「私もよく分かってないからね」
深影も笑った。
少し間が空く。
「……深影さんにも、会いたい人がいるんですか?」
唐突な問いだった。
深影の笑みが、ほんの少し止まる。
「どうして?」
「昨日、願い札を見たとき、そんな顔をしていた気がしたので」
深影は窓の外へ目を向けた。
黒い瞳には灯籠の光さえ映らない。
「いるよ」
しばらくして、そう答えた。
「もう会えないけどね」
琴乃は、それ以上誰なのか聞かなかった。
ただ、自分の膝へ視線を落とす。
「私、会いたいとか、行きたいとか言ったら、いけない気がするんです」
「どうして?」
「お父さまとお母さまが困るから」
琴乃は小さく笑った。
「私は、小さい頃に何度も二人を泣かせました。熱が出るたび、お母さまは眠らずに看病してくださって。お父さまも、仕事を休んでずっとそばにいてくれて」
「だから、もう心配させたくない?」
「はい」
琴乃の指が、着物の裾をつまむ。
「本当は、お祭りに行ってみたいです。でも、それを言ったら、きっと二人は私を連れていこうとします。そうしたら、ずっと心配しながら歩くでしょう」
「それが嫌なの?」
「……二人が苦しそうな顔をするのが、嫌なんです」
深影は黙った。
父の顔が、記憶の奥に浮かんだ。
最後に見た姿ではない。もっと前。まだ何も壊れていなかった頃の、穏やかな横顔。
会いたい。
そう思う気持ちを、深影はいつからか口にしなくなっていた。
深影は膝を抱えた。
「困らせても、いいんじゃない?」
琴乃が顔を上げる。
「え?」
「家族なんだから」
深影は、自分でも少し意外なくらい静かな声で言った。
「心配されるのも、困らせるのも、きっと家族のうちだよ。琴乃が勝手に全部我慢したら、お父さんもお母さんも、何を心配したらいいのか分からない」
「でも……」
「言ったら駄目って決めるのは、言ってからでも遅くないよ」
琴乃は答えなかった。
ただ、窓の外の灯籠を見た。
その横顔は昨日より少し透けて見えた。
やがて、外の通りで子どもたちの笑い声が上がる。
琴乃の唇が、ほんの少し動いた。
「……お祭り、行ってみたかったんです」
消えそうな声だった。
深影は聞き返さなかった。
その言葉を、ただ覚えておこうと思った。
床の上で、琴乃から外へ続く影の糸がゆっくり震える。
まるで、遠くにいるもう一人の琴乃も、その言葉を聞いていたかのように。




