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第七話「灯りの下、三つの影」③

 祭りの日が来た。

 日が傾くにつれ、幽京の通りには色とりどりの灯籠が灯り始めた。露店の呼び声、笛や太鼓の音、走り回る子どもたちの笑い声。琴乃が窓越しに眺めていた祭りは、今年も変わらず賑やかに始まろうとしている。

 だが、琴乃の家だけは、祭りから取り残されたように静かだった。

 深影、景真、紅緒の三人は、日が沈む前から琴乃の家に集まっていた。今夜、影が再び現れる可能性が高い。紅緒は玄関と庭へ札を置き、深影は琴乃と影をつなぐ気配を絶やさず追っている。

「昨日より、ずっと細い」

 深影は畳へ這わせた影蛇を見つめた。琴乃から外へ伸びる糸は、もはや糸というより、消えかけた髪の毛ほどに頼りない。

「切れたらどうなる?」

 景真が聞く。

「分からない。でも……いいことじゃないと思う」

 琴乃は窓辺に座っていた。薄桃色の着物も、結った髪も昨日と同じ。それなのに、灯籠の明かりが障子越しに差し込むたび、その輪郭だけが背景へ溶けていくように見えた。

「琴乃さん」

 紅緒が呼ぶ。

「はい」

 返事はある。

 だが、紅緒は一度廊下へ目を向け、再び琴乃を見た瞬間、わずかに息を呑んだ。

「……そこに、いたのね」

 琴乃の指が膝の上で強く重なった。

「私、います」

「ええ。分かっているわ」

 紅緒はすぐに答えた。けれど、その声には自分へ言い聞かせるような硬さがあった。

 そのとき、玄関の方から母親の声がした。

「琴乃、もうすぐ灯籠に火が入りますよ」

 襖が開く。

 母親は部屋へ入り、深影、景真、紅緒へ順に頭を下げた。

「今夜もよろしくお願いいたします」

「はい。できるだけ琴乃さんのそばを離れないでください」

 紅緒が答える。

「もちろんです。琴乃、寒くない?」

 母親はそう言って――部屋の中を見回した。

「……琴乃?」

 琴乃は、母親のすぐ目の前にいた。

「お母さま」

 声を上げる。

 母親は反応しない。

「お母さま、ここです」

 琴乃が立ち上がり、袖へ手を伸ばす。指先が母親の腕に触れた。

 それでも母親は、何か風が触れたように自分の袖を見るだけだった。

「琴乃?」

 声が震える。

 父親も廊下から駆け込んできた。

「どうした」

「琴乃が……琴乃がいないの」

「何を言ってる。部屋に――」

 父親の言葉も止まった。

 琴乃を探すように、部屋中へ視線を走らせる。

「お父さま!」

 琴乃は父親の前へ立った。

 だが、その目は娘の身体を通り抜ける。

「……そんな」

 景真も琴乃の方を見た。そこにいたはずだと知っている。それなのに、視線を向けても少女の姿を結べない。人が立っているはずの場所だけが、妙に意識から滑り落ちていく。

「紅緒、見えるか?」

「……見えない」

 紅緒の声が低くなる。

 琴乃のすすり泣く声だけが、遠くから聞こえたような気がした。

「深影」

 紅緒が振り返る。

 深影は床を見ていた。

 黒い瞳には何も映らない。それでも、足元を這う影蛇だけが、ある一点を避けるように身体を曲げている。

「……いるよ」

「どこに?」

「そこ」

 深影は母親のすぐ隣を指差した。

「琴乃は、そこにいる」

 母親が息を呑み、何もないように見える空間へ両手を伸ばした。

「琴乃……?」

 手は届いているはずだった。けれど、触れたことさえ母親の意識には残らないらしい。何度も宙を探り、泣きながら娘の名前を呼ぶ。

 そのとき、深影の影蛇が大きく頭を上げた。

 窓の外。

 通りの灯籠が、一斉に揺れた。

「来た」

 深影が立ち上がる。

 庭先を横切った灯籠の明かりの中に、一人の少女が立っていた。

 黒いだけだった影ではない。

 髪の長さも、着物の形も、顔立ちさえ――遠目には琴乃本人と見分けがつかない。

 影の琴乃は、家の中を一度だけ見た。

 そして、祭りの灯りへ向かって歩き出した。


   *


「追うわ」

 紅緒が弓を取る。

「少し待って」

 深影が止めた。

「捕まえるなって言うつもり?」

「違う。今は、どこへ行くのか見たい」

 紅緒は一瞬迷ったが、頷いた。

「……分かったわ。でも、琴乃さんの状態がこれ以上悪くなったら、私は止める」

「うん」

 父親が前へ出た。

「私たちも行きます」

「琴乃さん本人を一人にしてしまいます」

 紅緒が言うと、母親は振り返った。

 そこに娘がいると分かっている。けれど、もう見ることも、声を聞くこともできない。

 母親は唇を噛んだ。

「……でも、あの子が何を伝えようとしているのか、私たちが知らなければいけない気がします」

 深影は何もないように見える部屋の一角を見た。影蛇はそこへ尾を残したまま、もう一方の頭を窓の外へ伸ばしている。

「私の影を置いていく。琴乃が動いたら分かる」

「頼む」

 父親が深く頭を下げた。

 一行は家を出た。

 通りにはすでに祭りの人波ができていた。笛の音が重なり、屋台から白い湯気が上がり、色とりどりの灯籠が夜道を照らしている。

 その中を、琴乃の姿をした影は歩いていた。

 誰も振り返らない。

 人と肩が触れそうになっても、影の方が薄く揺れてすり抜ける。けれど灯籠の真下へ入るたび、輪郭だけは生きた少女のようにはっきりした。

「前より、ずっと琴乃さんに近い」

 紅緒が言う。

「その分、本物の琴乃が見えなくなってる」

 深影の声は静かだった。

「あれが完全に琴乃になったら……」

 景真は先を言わなかった。

 影は祭りの中心へは向かわなかった。

 賑やかな大通りから外れ、以前足跡を見つけた団子屋の前で一度立ち止まる。

 店先には胡桃味噌の団子が並んでいた。

 影はそれを見つめたあと、自分の袖へ手を入れた。

 取り出したのは、橋で見つけたものと同じ小さな胡桃だった。

「持ってたのか」

 景真が呟く。

 次に簪屋の前を通る。影は銀杏の形をした小さな木片を確かめるように握った。

 広場では、子どもたちの手毬遊びを遠くから眺める。やがて転がってきた古い手毬を拾い上げた。

「あれも持っていくつもりね」

 紅緒が言った。

 影は手毬を抱え、さらに歩く。

 最後に願い札を扱う店へ寄った。

 店番の老人がよそ見をした一瞬、机の上に並べられていた札が三枚、ふわりと浮いた。

「少し待って」

 動こうとする紅緒を、深影が止めた。

 深影が影を見る。

 影は袖から小さな銭入れを取り出し、そこから銭を三枚、机へ置いた。

「……ちゃんと払うんだな」

「琴乃らしいね」

 深影の口元がほんの少し緩んだ。

 だが、すぐに表情を戻す。

 影は三枚の札を胸へ抱き、再び歩き始めた。

 祭りの明かりが少しずつ遠ざかっていく。

「どこへ行くんだ?」

 景真が地図を見る。

 父親が前方の細い坂道に気づき、足を止めた。

「……あの道は」

 母親も顔を上げる。

「知っているんですか?」

 紅緒が尋ねた。

 父親はすぐには答えなかった。

「昔、琴乃を連れて……祭りを見に行った場所があります」

 坂の先には、町を見下ろす小さな丘があった。

 影は迷うことなく、その道を上っていった。


   *


 丘の上には、小さな一本の木と古びた石の腰掛けがあるだけだった。

 眼下には幽京の灯籠が広がっている。通りを流れる無数の明かりは、ここから見ると地上へ降りた星のようだった。

「ここ……」

 母親が口元を押さえた。

「琴乃がまだ小さかった頃、一度だけ三人で来たんです」

 影は石の腰掛けの前へしゃがみ込んだ。

 まず、胡桃を置く。

 父親が息を止めた。

 次に、銀杏の木片。

 母親の目から涙がこぼれる。

 そして、古い手毬。母親が小さく「あの毬……」と呟いた。

 三つを、まるで誰かの席を決めるように並べていく。

「自分のために集めてたんじゃなかった」

 景真がようやく言った。

 影は答えない。

 胸へ抱えていた三枚の願い札を取り出した。

 一本の細い枝を拾い、地面へ座り込む。

 影の指先は黒いままなのに、紙の上には墨のような文字が浮かんでいった。

 一枚目を書き終える。

 父親の前へ置く。

「……私に?」

 札には、幼い字でこう書かれていた。

「お父さまが、ずっと元気でいますように」

 父親の喉が鳴った。

 二枚目。

 母親の前へ置く。

「お母さまが、ずっと笑っていますように」

 母親は両手で口を覆い、声を殺した。

 最後の一枚を、影は自分の前へ置いた。

 書こうとして、何度か指が止まる。

 それでも、ゆっくりと文字が浮かんでいく。

「また三人で、お祭りに行けますように」

 誰も言葉を発しなかった。

 丘の下から、祭りの笛の音が届く。

 父親は願い札を見たまま、動かなかった。

「……三人で」

 母親が掠れた声で繰り返す。

 その言葉で、景真はすべてがつながった。

 団子は琴乃の父が好きだったもの。

 簪は母が欲しがっていたもの。

 手毬は三人で遊んだ記憶。

 影は琴乃の代わりに一人で祭りを楽しんでいたのではない。

 三人分を集めていた。

 もう一度、家族でここへ来るために。

「逃げたかったんじゃないんだ」

 景真が言う。

「家を出たかったわけでもない」

 紅緒は影から両親へ目を向けた。

「ずっと、一緒に来たかったのね」

 影が、ほんの少しだけ顔を上げた。

 言葉はない。

 けれど、その仕草は肯定しているように見えた。

 深影は影を見つめていた。

 昨日、琴乃から聞いた「お祭りに行ってみたかった」という言葉。

 深影は、三枚目の札から目を離せなかった。

「琴乃……」

 母親は、そこにいない娘へ呼びかけるように名前を呼んだ。

 返事はない。

 父親が、ゆっくりと影の前へ膝をついた。


   *


「琴乃が小さい頃、一度だけ大きな病をしました」

 父親は願い札から目を離さずに言った。

「熱が何日も下がらなくて……医者にも、夜を越せるか分からないと言われました」

 母親が目を閉じる。

「あの夜のことは、今でも覚えています」

 父親の声が震えた。

「腕の中にいる琴乃の身体が、どんどん冷たくなっていった」

 紅緒は何も言わず聞いていた。

「私は、何度も言いました。もうどこにも行かなくていい。父さんがずっと守るから、と」

「私も……」

 母親が続ける。

「元気になったら、また三人でお祭りへ行こうねって、何度も」

 琴乃は生き延びた。

 少しずつ身体も戻った。

 けれど、両親は約束を果たせなかった。

「外へ出して、また熱が出たらと思いました」

「少し歩かせて、また倒れたら。風に当たって、また苦しくなったら」

「怖かったんです」

 母親の声が涙に滲む。

「だから、あの子が外を見ていても……祭りの音を聞いていても……気づかないふりをしました」

 父親の手が、膝の上で震えていた。

「守っているつもりだった」

 影が静かに父親を見る。

「違った」

 父親は唇を噛んだ。

 顔を上げる。

「また琴乃を失うのが、怖かった」

 影は動かない。

「琴乃のためだと言いながら、あの子を家の中へ閉じ込めていた」

 母親も影の前へしゃがみ込んだ。

「ごめんなさい」

 影へ向かって、頭を下げる。

「ずっと覚えていたのね」

 涙が畳ではなく、夜露に湿った草へ落ちる。

「三人でお祭りへ行くっていう約束」

 影の輪郭が小さく揺れた。

 それから、ゆっくりと一度だけ頷いた。

 父親は願い札を握りしめることもできず、ただ両手で包むように持った。

「琴乃」

 今度は、はっきりと娘の名を呼ぶ。

「聞こえているなら……もう一度、話をさせてくれ」

 祭りの灯籠が、丘の下で揺れている。

 深影はふと、自分の影へ目を落とした。

 琴乃の家へ残してきた影蛇の尾が、かすかに震えている。

 娘はまだ、そこにいる。

 けれど、その気配は今にも消えそうなほど細い。

「急ごう」

 深影が顔を上げた。

 影の琴乃も、同じ瞬間に何かへ気づいたように顔を上げる。

 家のある方角を見つめ、その輪郭が大きく揺れた。

 丘の下では、祭りの明かりが変わらず輝いていた。

 けれど誰も、もうその灯りを見てはいなかった。

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