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第七話「灯りの下、三つの影」④

 影の琴乃は、家のある方角を見つめたまま動かなかった。

 丘を渡る風が、三枚の願い札をかすかに揺らす。父親の手の中にある一枚も、母親の前に置かれた一枚も、影自身の前にある一枚も、灯籠の明かりを受けて白く浮かんでいた。

 やがて影が、胸元へ手を当てた。

 何かを確かめるような仕草だった。

 次の瞬間、その身体が大きく揺れた。

「どうしたの?」

 紅緒が一歩近づく。

 影は答えない。答えられない。

 ただ、今度は落ち着きなく辺りを見回した。石の腰掛けの後ろ、木の根元、父親と母親の間。そこにいるはずの誰かを探すように、何度も顔を巡らせる。

「……探してる」

 深影が呟いた。

「何を?」

 景真が聞く。

 深影はすぐには答えなかった。自分の足元から伸びる影の流れと、遠く琴乃の家へ残してきた影蛇の尾を確かめる。

 影の琴乃が、母親の袖を引こうとした。黒い指先が布へ触れる。触れているはずなのに、母親は気づかない。影は焦ったように父親の前へ回り込み、今度は家の方角を指差した。

「琴乃?」

 母親が呼ぶ。

 影は首を横に振った。

 そして、自分の胸を指したあと、空いた片手で辺りを探す仕草をした。

 紅緒の目が細くなる。

「……琴乃を探しているの?」

 影が止まった。

 ゆっくり、一度だけ頷く。

「でも、お前は琴乃の影なんだろ」

 景真の言葉に、影は自分の両手を見下ろした。

 それはまるで、今になって初めて、自分の帰る先を見失ったことに気づいたようだった。

 深影は影の前へしゃがみ込んだ。

「この子、琴乃から離れたかったんじゃない」

 紅緒が深影を見る。

「琴乃の代わりに外を歩いて、琴乃が言えなかったことをやって、それから帰るつもりだったんだよ」

「帰る……」

「うん。でも、離れすぎた。琴乃の気配が薄くなりすぎて、この子にも見つけられなくなった」

 影の肩が小さく震えた。

 それを見た父親が、願い札を胸へ抱く。

「家へ戻りましょう」

 声には迷いがなかった。

「琴乃が待っている」

 影は弾かれたように顔を上げた。

 次の瞬間、坂道へ駆け出す。

「行こう」

 景真が続き、紅緒と深影、両親も走り出した。

 祭りの夜を、一つの影が家へ帰っていく。

 来たときとは違う。

 もう、外へ出るためではなかった。

 帰るために走っていた。


   *


 琴乃の家へ戻ると、部屋は出たときのままだった。

 障子越しに祭りの明かりが揺れ、窓辺には薄い座布団が置かれている。誰も座っていないように見える。

 けれど深影の影蛇だけが、その座布団の脇でじっと頭を上げていた。

「……いる」

 深影が言う。

「琴乃は、まだここにいるよ」

「琴乃!」

 母親が駆け寄る。

 何もないように見える空間へ手を伸ばす。今度も姿は見えない。声も聞こえない。それでも母親は手を引かなかった。

 父親も隣へ膝をついた。

「琴乃」

 返事はない。

 影の琴乃が部屋へ入る。

 そして、止まった。

 帰ってきたはずなのに、どこへ戻ればいいのか分からない。

 影は床へ両手をつき、必死に何かを探し始めた。座布団の周りを回り、窓辺へ手を伸ばし、母親のすぐ隣まで来ては、また離れる。

「そこ」

 深影が指差す。

「もう少し右。琴乃は、お母さんのすぐ隣にいる」

 影は深影の指先を追った。

 ゆっくりと手を伸ばす。

 黒い指先が、何もないように見える場所へ触れた。

 その瞬間、影の輪郭が震えた。

「見つけた……?」

 紅緒が呟く。

 影は何度も頷いた。けれど、戻ろうとしても戻れない。境目が分からないのだ。

 深影は唇を結んだ。

「琴乃が、ちゃんと戻ってこられる場所を作らないと」

「どうすればいい?」

 父親が問う。

「呼んで」

 深影は言った。

「琴乃を。ちゃんと、琴乃に話して」

 父親は一度、目を閉じた。

 そして、何も見えない場所へ向き直る。

「琴乃」

 今度の呼び声は、先ほどより静かだった。

「祭りへ行こう」

 影が顔を上げる。

 母親も息を呑んだ。

「今度じゃなくていいの」

 母親が続ける。

「元気になってからじゃなくてもいい。最後まで歩けなくてもいい。歩けるところまででいいから、一緒に行こう」

 父親の手が、畳の上で強く握られた。

「父さんは、たぶんこれからも心配する」

 一言ずつ、自分へ言い聞かせるように続ける。

「外へ出るなって言いたくなるかもしれない。また苦しくなるんじゃないかって、怖くなると思う」

 そこで一度、息をついた。

「だから、そのときは言ってくれ」

 影の琴乃が、じっと父親を見る。

「琴乃が何をしたいのか、ちゃんと言ってくれ」

 母親の頬を涙が伝った。

「怖がるのは父さんがやる」

 父親は小さく笑おうとして、うまく笑えなかった。

「琴乃まで、父さんの代わりに怖がらなくていい」

 部屋が静まり返った。

 遠く、祭りの太鼓が一つ鳴る。

 そのときだった。

「……お父さま」

 かすかな声がした。

 父親が息を止める。

 母親が顔を上げた。

 座布団の脇。

 灯籠の明かりが差す場所に、少女の輪郭がほんのわずかに浮かんでいる。

「琴乃……!」

「お母さま」

 今度は聞こえた。

 母親が手を伸ばす。

 指先が娘の手に触れた。

 今度は、その感触が消えなかった。


   *


 影の琴乃が、ゆっくりと本物の琴乃へ近づいた。

 琴乃の姿はまだ薄い。けれど、もう誰も見失わなかった。

 影はその前で立ち止まる。

 琴乃は、自分と同じ形をした黒い少女を見つめた。

「ごめんね」

 影が小さく首を傾げる。

「私の代わりに、ずっと歩いてくれてたんだね」

 胡桃味噌の団子。銀杏の簪。手毬。三枚の願い札。

 自分が口にできなかったものを、影は一つずつ拾っていた。

「お父さまとお母さまに、言ってくれたんだね」

 影は答えない。

 けれど、少しだけ嬉しそうに見えた。

 琴乃は両手を胸の前で握った。

「もう大丈夫」

 声はまだ弱い。

 それでも、はっきりと言った。

「今度は、私が自分で歩くから」

 影の輪郭がほどけた。

 足元から、夜の水が戻るように琴乃の影へ流れ込んでいく。

 肩が消え、髪が溶け、最後に顔の輪郭が灯りの中へ沈んだ。

 深影の影蛇が一歩下がる。

 琴乃の足元に、ひとつの影が落ちた。

 灯籠の火が揺れる。

 影も同じように揺れた。

「戻った……」

 景真が息を吐く。

 紅緒は弓を下ろしたまま、しばらく琴乃の足元を見つめていた。

「ええ」

 それから深影を見る。

「あなたの言った通りだったわね」

「紅緒も間違ってなかったよ」

「え?」

「早くしないと琴乃が消えるって。あれも本当だった」

 深影はいつもの調子で言った。

「だから、どっちも当たり」

 紅緒は少しだけ目を丸くした。

 やがて、肩の力を抜く。

「……そういうことにしておくわ」

「うん」

 それ以上、二人は何も言わなかった。

 しばらくして、琴乃は両親に挟まれるようにして家を出た。

 祭りはまだ続いている。

 父親が門を出たところで、反射的に腰を屈めた。

「疲れたら背負うぞ」

 琴乃が少し困ったように笑う。

「……少しだけ、自分で歩きたいです」

 父親の口が開きかけた。

 危ない、と言いそうになったのだろう。

 けれど、言葉を飲み込む。

「……そうか」

 代わりに、それだけ答えた。

 母親が琴乃の右手を取る。

 父親も、少し迷ってから左手を取った。

 三人はゆっくりと祭りの方へ歩き出す。

 一歩。

 また一歩。

 早くはない。

 けれど琴乃は、自分の足で進んでいた。

 道端の灯籠が三人を照らす。

 地面には、三つの影が並んで伸びた。


   *


 深影たちは、少し離れた場所から家族の背中を見送っていた。

 琴乃たちは大通りへは急がず、灯籠の並ぶ静かな道を選んで歩いていく。時折、父親が足を止めそうになる。そのたびに母親が袖を軽く引き、琴乃が笑った。

「行かなくていいの?」

 紅緒が隣で言った。

「どこに?」

「あの三人と。あなた、琴乃さんとは随分話していたでしょう」

「家族の時間だから」

 深影はそう答えた。

 いつもと同じ声音だった。

 けれど、琴乃と両親が並んで歩く姿を見つめる黒い瞳に、ほんの少しだけ遠い色が混じっていた。

「……深影」

「なに?」

 紅緒は何かを言いかけた。

「……何でもないわ」

「変なの」

 深影は首を傾げる。

 景真は口を挟まず、二人の少し後ろを歩いた。

 祭りの通りへ戻る途中、願い札を並べた店の前を通った。先ほどの老人が、散らかった札を直している。

 深影が足を止めた。

「書くのか?」

 景真が聞く。

「願い事なんてないよ」

「そうか」

「うん」

 深影はあっさり答え、そのまま歩き出した。

 景真と紅緒が先に歩き出したあと、深影だけが一瞬遅れて店先を振り返った。

 紅緒も何も言わなかった。

 少し進んだところで、深影の袖から白い紙が一枚落ちた。

「落としたぞ」

 景真が拾おうとする。

「あ」

 深影が珍しく慌てた。

 けれど一歩早く、紅緒が紙を拾っていた。

 願い札だった。

 いつの間に手にしたのか、端に小さく文字が書かれている。

 紅緒の目が、その一行に止まった。

「父さまが、もう苦しくありませんように」

 紅緒は声に出さなかった。

 ただ静かに札を深影へ差し出した。

 深影は受け取ると、気まずそうに目を逸らす。

「……見た?」

「ええ」

「そう」

 深影は札を袖へ戻そうとした。

「結んでくれば?」

 紅緒が言う。

「え?」

「願い札なのでしょう」

「でも、叶わないよ」

 深影は紙を見下ろした。

「父さまは、もういないから」

 紅緒は父親について聞かなかった。

 慰めるようなことも言わない。

「願うくらい、いいでしょう」

 それだけだった。

 深影はしばらく紅緒を見つめた。

「……そうだね」

 願い札の店へ戻り、軒先に張られた細い縄へ札を結ぶ。

 風が吹いた。

 無数の願い札が一斉に揺れる。

 深影の札も、その中で小さく鳴った。

「今度」

 背後から紅緒の声がした。

 深影が振り返る。

「また祭りがあったら、一緒に行く?」

「紅緒と?」

「嫌ならいいけれど」

「行く」

 間髪を入れない返事だった。

 紅緒が一瞬だけ言葉に詰まる。

「……そう」

「景真も来る?」

「俺もなのか」

「三人の方が楽しいでしょ」

 景真が笑う。

「じゃあ、そうするか」

 紅緒は何も言わなかったが、否定もしなかった。

 遠くで笛が鳴る。

 灯籠の明かりの下、深影の足元から伸びた影が、紅緒と景真の影へ重なるように長く伸びていた。

 風に揺れる願い札の向こうで、祭りの夜はまだ続いていた。

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