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第八話「恐れてなお」①

 幽京の東――蒼杜そうとの地からの急使が陰陽寮へ駆け込んだのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 届けられた報せは簡潔だった。山あいの村を囲う簡易結界が、昨夜から次々と破壊されている。結界の外では木々が倒れ、家畜が怯え、森の奥で大きな影を見た者もいるという。

 紅緒がその報せを聞いた時には、すでに先遣の陰陽師が決まった後だった。

「上霞城さまが?」

「ええ。結界の被害なら、瑠璃さんが一番早いでしょう。上霞城家は結界術の専門家ですから」

 小夜は机上へ広げた報告書から目を上げた。

「村の結界を立て直しつつ、原因を調べてもらうことになりました」

 紅緒は少しだけ眉を寄せた。

 上霞城瑠璃。名門の家に生まれた陰陽師。どの陰陽術もそつなくこなすが、家柄もあって結界術には特に秀でている。紅緒とは顔を合わせるたびに、どうにも一言二言余計なものが挟まる相手だった。

「不満そうですね」

「いえ。適任だと思います」

「なら、その顔は何ですか?」

「……顔に出ていましたか」

 小夜が小さく笑う。

「あなたもここで待機していてください。先遣から追加の連絡が来たら、すぐ動けるように」

「私もですか?」

「結界を壊している相手が何者か、まだ分からないのですよ。瑠璃さん一人に任せて済むなら、それでいいです。しかし、そうならなかった時に弓が使える人がいた方がいいでしょう」

 紅緒は一瞬だけ黙り、それから頷いた。

「分かりました」


   *


 その頃、瑠璃はすでに蒼杜の山道を歩いていた。

 木々の隙間から差す陽は薄く、湿った土の匂いが濃い。瑠璃の後ろには、いつも彼女に付き従う若い陰陽師たちが二人いた。

「上霞城さま、もうすぐ村です」

「分かっていますわ」

 瑠璃は扇子を閉じ、前方へ目を向けた。

「結界が破壊されているのでしょう? なら、まずは被害箇所を確認しますわ。原因を探るのはその後です」

 声には迷いがなかった。

 村は山腹の斜面に沿って広がっていた。二十ほどの家と、小さな社、畑。規模は大きくない。けれど、村人たちの顔には疲れがにじんでいた。

 瑠璃が村へ入ると、年老いた村長が何度も頭を下げた。

「陰陽寮のお方、本当にありがとうございます。昨夜から、東の結界が三つも……」

「頭を上げてくださいませ」

 瑠璃はきっぱりと言った。

「事情を伺いますわ。壊れた順番と、見張りの方が見たものを一つずつ」

 村長は慌てて頷く。

 話を聞きながら、瑠璃は村の配置を確認していった。東側の森へ抜ける道。北側の谷。避難に使えそうな西の坂道。子どもや老人が多い家。

「あなた」

「はい!」

 取り巻きの一人が背筋を伸ばす。

「村の西側へ人を集めてくださいませ。足の悪い方と子どもを先に。荷物は最小限で結構ですわ」

「ですが、まだ妖怪の姿も――」

「見えてからでは遅いですわ」

 瑠璃はもう一人へ視線を移した。

「あなたは西の坂道を確認なさい。荷車が通れるか、途中に崩れた場所がないかも見ておくのです」

「承知しました」

 瑠璃は村長へ向き直った。

「怖がらせるつもりはありません。ただ、結界が三か所も破られている以上、何も起きないことを願って座っているわけにはいきませんの」

「は、はい」

「ご安心なさい」

 瑠璃の声が少し柔らかくなる。

「皆さまを守るために、わたくしたちは来ました」

 その言葉に、村人たちの張り詰めた表情がわずかに緩んだ。

 瑠璃はそれ以上大仰なことを言わず、破壊された結界へ向かった。

 最初の跡は、村の東端にあった。二本の樹木の間に張られていた簡易結界。その札が地面へ落ちている。

 取り巻きが札を拾い上げた。

「見事に破られていますね」

「……そう見えますわね」

 瑠璃はしゃがみ込み、地面へ指を触れた。

 術式の残り香を探る。

 そして眉を寄せた。

「上霞城さま?」

「おかしいですわ」

「何がでしょう」

 瑠璃は落ちた札を指先で返した。紙そのものは裂けていない。焦げてもいない。

「強い妖気で破壊されたなら、術式がもっと乱れているはずですの」

 札に書かれていた文字の一部だけが、妙に薄い。

「これは……消えすぎていますわ」

 生温い風が森から吹き抜けた。

 瑠璃は立ち上がり、木々の奥を見つめた。


   *


 二つ目の結界跡も同じだった。

 結界は失われている。だが、破られた痕跡がない。

 通常なら、外側から強い力をぶつけられれば、術式の流れに乱れが残る。札が裂けるか、焼けるか、あるいは結界の支点そのものが損なわれる。

 しかし、ここにはそれがなかった。

 術式だけが抜け落ちている。

「まるで……」

 取り巻きが言いかける。

 瑠璃は返事をしなかった。

 三つ目の結界は社の裏手にあった。そこでも同じように札の文字だけが薄れている。

 瑠璃は新しい札を取り出した。

「ここを張り直しますわ」

「原因が分からないままですか?」

「だからこそです。村を裸にしておくわけにはいきませんでしょう」

 瑠璃は札を四方へ配置し、指を組む。

 薄い光が走り、木々の間に半透明の壁が立ち上がった。

 整った、無駄のない結界だった。

「さすがです、上霞城さま」

「当然ですわ」

 いつもの調子で返しながらも、瑠璃の視線は結界面から離れない。

 何かが引っかかっていた。

 壊されているのではない。

 なら、何が起きている。

 その時だった。

 森の奥で、枝が折れた。

 一本ではない。

 右。左。さらに奥。

 重い何かが木々を押し分けながら近づいてくる。

 村の方から悲鳴が上がった。

 瑠璃が振り返る。

「避難を!」

 取り巻きが駆け出そうとした、その瞬間。

 張り直したばかりの結界が揺れた。

 大きく撓む。

 何かが外側から触れた。

 瑠璃は息を止めた。

 結界の表面へ、一本の黒い脚が現れた。

 木の幹ほどもある、節くれだった脚。

 続いて、二本。三本。

 木々の間から、巨大な蜘蛛の輪郭が姿を現した。

 その身体には、古びた札や、破れた縄、結界の残滓のような光がいくつも絡みついている。

 瑠璃の顔から血の気が引いた。

「……まさか」

 取り巻きが彼女を見る。

「上霞城さま?」

 瑠璃は答えられなかった。

 巨大蜘蛛が結界へ顔を寄せる。

 次の瞬間、結界の光が一点へ吸い込まれるように歪んだ。

 砕けない。

 裂けない。

 ただ、文字から順に消えていく。

 瑠璃の瞳が大きく見開かれた。

「……違う」

 喉がわずかに震える。

「破壊されているのでは、ありませんわ」

 巨大蜘蛛の口元で、最後の術式が消えた。

「――喰われています」


   *


 その名を思い出した瞬間、瑠璃の指が震えた。

 結界喰いの鬼蜘蛛。

 強い結界の気配へ引き寄せられるように現れ、術式そのものを喰らう大妖怪。過去には何度も幽京の大結界へ食らいつき、深い損傷を与えている。そのたびに陰陽師やものの歩が総出で撃退してきたが、討ち取られたという記録はない。

 理性らしいものはほとんどない。

 ただ、結界を求めて進む。

 記憶の奥で、何かが軋んだ。

 幼い自分。

 白い光。

 破れる結界。

 誰かの声。

 巨大な脚。

「……っ」

 瑠璃は息を吸い込んだ。

「上霞城さま、大丈夫ですか?」

 取り巻きの声で我に返る。

 鬼蜘蛛が一歩前へ出た。

 その脚が地面へ下りるだけで、土が沈む。

 後ろには村がある。

 瑠璃は二人の顔を見た。

 ここへ残ればどうなるか。自分が誰より分かっている。

 扇子を握り直し、震える指をその陰へ隠した。

「あなた方」

 声だけは、いつもの瑠璃だった。

「村人を連れて下がりなさい」

「ですが!」

「聞こえませんでしたの?」

 二人が黙る。

 瑠璃は鬼蜘蛛から目を離さない。

「西の坂道を使いなさい。足の遅い方を中央へ。村長にも伝えて、誰も戻らせないこと」

「上霞城さまはどうなさるんです!」

「残りますわ」

「一人で!?」

 瑠璃の喉が一瞬だけ詰まる。

 怖い。

 身体のどこかが、今すぐ逃げろと叫んでいる。

 それでも背後から、村人たちのざわめきが聞こえてくる。

 瑠璃は顎を上げた。

「あなた方の仕事は、わたくしと一緒に死ぬことではありません」

「しかし――」

「命令ですわ」

 言葉を重ねる余地を与えない。

「一人でも多く、安全な場所へ連れていきなさい。それができない者は、ここにいても邪魔です」

 きつい言い方だった。

 けれど二人には分かったのだろう。

「……必ず、戻ってください」

 一人がそう言った。

 瑠璃は少しだけ目を細めた。

「当然ですわ」

 二人が村へ走っていく。

 一人になった瑠璃は、ゆっくりと札を取り出した。

 鬼蜘蛛の脚が、また一歩近づく。

 心臓が早鐘を打っていた。

 それでも札を持つ手を上げる。

「ここより先へは」

 声が震えそうになる。

 瑠璃は噛み殺した。

「一歩たりとも、通しませんわ」

 札が宙へ舞う。

 幾重もの光が瑠璃の周囲へ立ち上がった。


 一方、陰陽寮では紅緒が小夜とともに追加の報せを待っていた。

 静かな室内へ、急ぐ足音が近づいてくる。

 戸が開き、真砂陽香が姿を見せた。

 いつもの柔らかな笑みは薄い。

「小夜。少し、嫌な占いが出ているの」

 小夜が顔を上げる。

「何が見えたの?」

 陽香は一瞬だけ紅緒を見てから、静かに告げた。

「瑠璃ちゃんに、凶兆が出ているわ」

 紅緒の背筋に冷たいものが走った。

「上霞城さまに、ですか?」

「ええ。何が起きるかまでは分からない。でも……あまり軽いものではなさそうね」

 その直後、廊下を走る足音が響いた。

「蒼杜より急報!」

 届けられた書状には、一行だけが書き足されていた。

 ――森から巨大な蜘蛛を確認。

 小夜の表情が変わった。

「紅緒」

「はい」

「すぐに向かってください」

 紅緒は立ち上がり、弓を取った。

「承知しました」

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