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第八話「恐れてなお」②

 蒼杜の山道を、紅緒は馬で駆けていた。

 木々が深くなるにつれて、空気に混じる妖気が濃くなる。陽香の言葉が、何度も頭の中で蘇った。

 ――瑠璃ちゃんに、凶兆が出ているわ。

 軽いものではない。

 そう言った陽香の顔には、いつもの柔らかな笑みがなかった。

「上霞城さま……」

 紅緒は手綱を握り直した。

 その時、前方から複数の足音と声が近づいてきた。

「急いでください! 足元に気をつけて!」

 木々の間から現れたのは、村人たちだった。老人の手を引く者、子どもを背負う者、荷車を押す者。その先頭と最後尾を、見覚えのある二人の陰陽師が守っている。

 上霞城瑠璃の取り巻きだった。

 紅緒は馬を止めた。

「皆さん、ご無事ですか?」

 先頭にいた一人が、紅緒を見て足を止めた。気の強そうな目が、ほんの一瞬だけ揺れる。

「……大月さん」

 その声には、一瞬だけためらいが混じった。だが、すぐに唇を結び直す。

 もう一人も紅緒を見る。こちらは不安そうに肩を縮め、何度も森の方を振り返っていた。普段なら瑠璃のすぐ傍に控えている二人だったが、今はどちらの顔にも余裕がない。

 紅緒は周囲を見回した。

「上霞城さまは?」

 二人が黙る。

 答えたのは、先頭を守っていた方だった。感情を抑えきれないように、言葉が少し強くなる。

「……残っています。私たちも戻るべきなんです」

 紅緒の眉が動く。

「お一人で?」

「はい」

 後ろにいた方は胸元で手を握りしめ、青ざめた顔で森を見た。

「瑠璃さまが、村人を逃がせと……。命令だから、離れるしかなくて……」

「相手は?」

「巨大な蜘蛛です。結界が、まるで効かなくて……」

 声が細くなる。瑠璃の傍を離れたこと自体が不安でたまらないのだと、その表情だけで分かった。

 先頭の陰陽師が、堪えきれず一歩森へ戻りかける。

「やっぱり、私は戻ります。瑠璃さま一人なんて――」

「だめ……!」

 もう一人が、震える声でその袖をつかんだ。

「瑠璃さまが、私たちに任せてくださったんだから。村の人たちを……ちゃんと逃がさないと」

「でも!」

「分かってる。私だって、傍にいたいよ……」

 弱々しい声だった。それでも袖を離さなかった。

 紅緒はすぐに馬首を森へ向けた。

「分かりました。皆さんはこのまま避難を続けてください」

「大月さん!」

 呼び止められ、紅緒が振り返る。

 先ほど森へ戻ろうとしていた陰陽師が、深く頭を下げていた。

「……瑠璃さまを、助けてください!」

 その隣で、不安そうだったもう一人も、震えながら同じように頭を下げる。

 紅緒は二人を見た。

 ほんの少し前までなら、こんな光景は想像もしなかった。

 けれど今は、それについて考えている場合ではない。

「そのために来ました」

 それだけ告げると、紅緒は馬を走らせた。

 だが、道はほどなく獣道ほどの細さになった。低い枝が重なり、馬のままでは先へ進めない。

 紅緒は手近な木の陰で馬を止め、素早く降りた。手綱を丈夫な幹へ結び、弓を取る。

「ここで待っていて」

 馬の首をひと撫ですると、紅緒は森の奥へ駆け込んだ。


   *


 鬼蜘蛛の脚が地面へ突き立つたび、土が跳ねた。

 瑠璃は札を三枚、扇のように広げる。

「――縛!」

 光の帯が地面から立ち上がり、鬼蜘蛛の前脚へ巻きついた。

 続けざまに二枚。

 左の脚。右の脚。さらに胴の下。

 複数の結界が互いに噛み合い、巨大な身体をその場へ縫い止める。

 鬼蜘蛛の動きが止まった。

 瑠璃は息を吐く。

 普通の妖怪なら、これで十分だった。

 いや、大型の妖怪であっても、この規模の拘束を一人で組める陰陽師は多くない。

「そのまま、おとなしくしていなさい」

 声だけは平静だった。

 鬼蜘蛛が身をよじる。

 光の帯が軋む。

 瑠璃はさらに札を投げた。

「二重――封!」

 外側へもう一枚、厚い壁が立つ。

 その瞬間、鬼蜘蛛の頭部が不自然に動いた。

 光の帯へ、口元が触れる。

 じわり、と術式の文字が薄れた。

 瑠璃の呼吸が止まる。

「だめ……!」

 一本目が消えた。

 続いて二本目。

 術式は砕けるのではない。削られるのでもない。そこにあったものだけが、最初から存在しなかったように消えていく。

「離れなさい!」

 瑠璃は新たな札を放つ。

 鬼蜘蛛の進路を横から遮る壁。

 それも喰われた。

 ならば、と地面から壁を立ち上げる。

 喰われる。

 脚を挟む。

 喰われる。

 身体を囲う。

 喰われる。

 鬼蜘蛛は喰らった術を力に変えるわけではない。ただ、目の前の餌を貪るように、次の結界へと口を向ける。

 瑠璃の額に汗が滲んだ。

「……最悪ですわね」

 瑠璃は札入れへ指を滑らせた。

 残りは、もう十枚にも満たない。

 ここへ来た時には十分すぎるほどあったはずの札が、鬼蜘蛛の前では恐ろしい速さで消えていく。

 背後へ目をやる。

 村から人の姿はほとんど消えている。

 あと少し。

 あと少しだけ、ここで止めればいい。

 そう思った時、鬼蜘蛛の脚が横薙ぎに振るわれた。

 瑠璃は即座に小さな結界を展開する。

 衝撃。

 光の壁が大きく撓み、瑠璃の身体ごと後ろへ押し飛ばした。

 背中から地面へ落ちる。

 息が詰まった。

「……っ、まだ……」

 瑠璃は歯を食いしばり、立ち上がった。


   *


 鬼蜘蛛が近づく。

 その姿が視界いっぱいに広がるたび、瑠璃の中で古い記憶が軋んだ。

 白い光。

 崩れる壁。

 誰かの叫び声。

 自分を覆う、大きな影。

「……違いますわ」

 瑠璃は自分へ言い聞かせるように呟いた。

「今は、あの時とは違います」

 扇子を握る指は震えていた。

 それでも、逃げる方向へは足を向けない。

 後ろには村がある。

 避難を終えていない者が、まだいるかもしれない。

 自分には術がある。

 ならば、ここに立つのは自分だ。

「上霞城の名において――」

 札入れから四枚を抜き、一気に放つ。

 木々。岩。地面。社の柱。

 四方八方へ札が張りつき、巨大な陣が完成する。

 淡い光が一斉に立ち上がった。

 鬼蜘蛛の周囲へ何重もの壁が重なる。

 今までより厚い。

 今までより強い。

 瑠璃がその場で組める、最大級の封鎖だった。

「ここより先へは――」

 声が震える。

 瑠璃はそれを押し殺した。

「通しませんわ!」

 鬼蜘蛛が結界へ突進する。

 一枚目が耐えた。

 二枚目も耐える。

 三枚目。

 瑠璃の表情に、ほんの一瞬だけ希望が浮かんだ。

 しかし。

 鬼蜘蛛が結界へ口を寄せた。

「――っ」

 光が消える。

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 せっかく重ねた壁が、端から喰われていく。

「やめて……」

 幼い頃の声が、自分の声に重なった気がした。

 最後の一枚が消えた。

 直後、鬼蜘蛛の脚が振るわれる。

 瑠璃は咄嗟に腕で顔を庇った。

 身体が宙へ浮き、地面を転がる。

 髪がほどけ、衣は土に汚れた。

 立ち上がろうとして、膝が崩れる。

「……まだ、ですわ」

 札入れへ手を伸ばす。

 指先には、まだ五枚の札が残っていた。

 足りない。それでも、まだ術は使える。瑠璃は一枚を抜こうと指をかけた。


   *


 鬼蜘蛛がゆっくりと距離を詰める。

 瑠璃は後ずさった。

 一歩。

 もう一歩。

 背中が木の幹へぶつかる。

 逃げ道はなかった。

「……来ないで」

 声が、もう隠せないほど震えていた。

 鬼蜘蛛の腹部が持ち上がる。

 次の瞬間、白い糸が飛んだ。

 瑠璃は横へ避けようとした。

 間に合わない。

 腕に絡む。

 続けて脚。

 身体が引かれ、地面へ倒される。

「いや……っ!」

 瑠璃は必死に身を捩った。

 けれど糸は動くほど強く食い込み、自由を奪っていく。

 術を組もうにも、両腕が動かない。

 鬼蜘蛛が糸を引く。

 瑠璃の身体が宙へ持ち上がった。

 視界の先に、巨大な口元が迫る。

 記憶と現実の境目が曖昧になる。

 怖い。

 死にたくない。

 それまで必死に押さえ込んでいた恐怖が、一気に溢れた。

「誰か……」

 声が掠れる。

 身体の制御さえ利かなくなった。短い袴に、生温かいものが広がる。

 瑠璃はそのことに気づき、残っていた誇りまで崩れ落ちていくような感覚に襲われた。

 こんな姿を、誰にも見られたくない。

 それでも鬼蜘蛛は止まらない。

 さらに糸が引かれる。

 瑠璃は目を閉じた。

 その瞬間だった。

 風を裂く鋭い音。

 青白い光が森を貫いた。

 霊矢が鬼蜘蛛の前脚へ突き刺さる。

 巨体が大きく揺れた。

 続けて二射目。

 瑠璃を吊り上げていた糸が断ち切られる。

 身体が落ちる。

 だが、地面へ叩きつけられる前に、誰かの腕が瑠璃を受け止めた。

 聞き慣れた声がする。

「上霞城さま」

 瑠璃が恐る恐る目を開ける。

 銀色の髪。赤い瞳。

 弓を手にした紅緒が、鬼蜘蛛を睨んでいた。

「まだ、戦えますか?」

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