第八話「恐れてなお」③
「まだ、戦えますか?」
紅緒の問いに、瑠璃はすぐには答えられなかった。
身体のあちこちが痛む。腕には糸の跡が残り、ほどけた髪は土にまみれている。息を整えようとしても、胸の奥では恐怖がまだ暴れていた。
何より、自分がどれほど取り乱したかを、紅緒に見られた。
その事実だけで、顔を上げることすらためらわれた。
けれど紅緒は何も言わなかった。
瑠璃の乱れた姿にも、涙の跡にも触れず、ただ鬼蜘蛛へ弓を向けている。
「上霞城さま?」
促され、瑠璃は唇を噛んだ。
「……誰にものを言っていますの」
震えを隠すように、ゆっくりと立ち上がる。
膝が一度だけ揺れた。紅緒が手を伸ばしかける。
「結構ですわ」
瑠璃はそれを制した。
「まだ、戦えます」
紅緒は短く頷いた。
「分かりました」
それだけだった。
慰めも、同情もない。
だからこそ、瑠璃は少しだけ呼吸を取り戻せた。
鬼蜘蛛が低く身を沈める。
紅緒は二射続けて放った。一本は前脚、もう一本は顔の横を掠める。致命傷にはならない。だが、巨体は確実に紅緒へ向きを変えた。
「ずいぶん頑丈ですね」
「大妖怪ですもの。簡単に仕留められる相手ではありませんわ」
「結界を喰う、と聞こえました」
瑠璃の肩がわずかに強張る。
「ええ。結界喰いの鬼蜘蛛。術式を餌として喰らいますの」
「餌」
紅緒がその一語を繰り返した。
瑠璃は眉を寄せる。
「何ですの?」
紅緒は鬼蜘蛛から目を離さないまま答えた。
「餌なら、使えると思いまして」
瑠璃は意味を測りかねたまま、足元へ落ちていた札入れを拾った。
中を確かめる。
残っているのは、五枚。
先ほど糸に絡め取られる直前、使えずに残った五枚だった。
紅緒が横目でそれを見る。
「残りは?」
「……五枚ですわ」
「では、無駄にはできませんね」
「言われなくても分かっていますわ」
*
「結界を見ると喰いつくのでしょう?」
「ええ」
「なら、行かせたい場所に結界を出せばいい」
瑠璃は絶句した。
結界とは、守るためのものだ。
張り、支え、遮り、封じる。少なくとも瑠璃は、そう教えられてきた。
それを最初から壊されるものとして使う。まして餌にするなど、考えたこともなかった。
認めるのは癪だった。
「……ですが――」
だが、今は意地を張っている場合ではない。
「――理にはかなっていますわね」
鬼蜘蛛が前脚を振り上げた。
紅緒が横へ跳ぶ。地面が抉れ、土が弾けた。
「上霞城さま!」
「分かっていますわ!」
瑠璃は一枚目の札を抜いた。
札を鬼蜘蛛の右側へ投げる。
「――結」
小さな光の壁が立ち上がった。
鬼蜘蛛の動きが止まる。
そして、本能に引かれるように首をそちらへ向けた。
「本当に……」
呆れる間もなく、巨大な脚が結界へ向く。
「大月さん、右へ行きますわ!」
「はい!」
鬼蜘蛛が結界へ食いついた。
その瞬間、身体の左側が大きく開く。
紅緒の霊矢が飛んだ。
青白い光が脚の付け根へ突き刺さる。
鬼蜘蛛が巨体を揺らした。
「効いていますわ!」
「もう一度お願いします」
二枚目。
今度は村から離れる左奥へ、瑠璃が小さな結界を張る。
鬼蜘蛛がそちらへ向く。
紅緒が反対側から射る。
さらにもう一射。鬼蜘蛛は結界を追い、その巨体を数歩、村とは逆へ動かした。
瑠璃はそこでようやく、この方法の本当の意味に気づいた。
ただ攻撃の隙を作っているのではない。
鬼蜘蛛そのものを、結界で誘導している。
「……村から引き離すおつもりですのね」
「はい。できるだけ森の奥へ下げます」
瑠璃は札入れを見る。
残りは三枚。
たった二度の誘導で、もう三枚しかない。
けれど、先ほどまで無意味に喰われていた札が、今は確かに戦況を動かしていた。
*
二度の動きで、二人には互いの狙いが見え始めていた。
瑠璃が鬼蜘蛛の視線をずらし、紅緒が開いた場所へ霊矢を通す。
紅緒が右へ走れば、瑠璃はその先に欲しい空間を読む。
「次は左へ寄せたいです」
「分かりましたわ」
札を使わず、瑠璃は地形を指し示した。
「あの岩を回り込ませなさい。そこなら射線が通ります」
紅緒は矢を一本、鬼蜘蛛の右前脚へ撃ち込む。
鬼蜘蛛が嫌がるように左へ身体を振った。
「今ですわ!」
二射目が傷口へ重なる。
巨体がよろめく。
札だけに頼らず、弓と地形まで使えば、残りを温存できる。
瑠璃の口元に、ほんの少しだけいつもの調子が戻った。
「大月さん。案外、使えますのね」
「お褒めいただき光栄です」
「褒めてはいませんわ」
短いやり取りの間にも、鬼蜘蛛は止まらない。
腹部を大きく持ち上げた。
「大月さん、糸が来ますわ!」
白い糸が網のように広がった。
紅緒が後方へ跳ぶ。
一本が袖を掠め、木へ張りついた。
続けて二本、三本。
紅緒の動きを封じるように、周囲へ糸が張り巡らされる。
退路が狭まる。
鬼蜘蛛が紅緒へ向き直った。
瑠璃は札入れへ手を入れた。
たった三枚。
しかし、ここで一枚を惜しむという考えは、なぜか浮かばなかった。紅緒を失えば、この戦いそのものが崩れる――そう自分に言い聞かせるより早く、瑠璃の手は動いていた。
瑠璃はためらわず札を抜いた。
「――結!」
三枚目の札が、紅緒のすぐ横で小さな結界を作る。
鬼蜘蛛の顔がそちらへ吸い寄せられた。
ほんの一瞬。
それで十分だった。
紅緒は糸の隙間から身を滑らせる。
「助かりました、上霞城さま」
「借りを返しただけですわ」
紅緒が鬼蜘蛛へ矢を向け直す。
瑠璃も残った二枚を握る。
言葉にしなくても、次に何をするのかが分かり始めていた。
瑠璃が道を作る。
紅緒が、その道の先を射抜く。
役割がはっきりした瞬間、二人の戦い方は別物になった。
*
鬼蜘蛛はとうとう村からかなり離れた斜面まで押し戻されていた。
木々の向こうには、浅い谷がある。
ここまで来れば、暴れても村へ直接被害が及ぶ可能性は低い。
しかし、二人の消耗も大きかった。
紅緒の呼吸は荒い。霊矢を編むたび、腕へ疲労が重なる。
瑠璃も立っているのがやっとだった。
手元に残った札は、あと二枚。
鬼蜘蛛は何本もの脚に傷を負っている。
それでも倒れない。
二度の誘導で同じように傷を負ったせいか、鬼蜘蛛も紅緒の矢を警戒し始め、簡単には隙を晒さなくなっていた。
紅緒が息を整えながら言った。
「小さい餌だけでは、もう十分な隙を作れそうにありませんね」
「ええ。残りも二枚だけですわ」
瑠璃は札を見下ろした。
一枚ずつ使えば、あと二度。
だが、それでこの大妖怪を退けられる保証はない。
鬼蜘蛛の脚が地面を掻く。
次に突進されれば、止められるか分からない。
その時、紅緒が瑠璃を見る。
「上霞城さま」
「何ですの?」
「その二枚を一緒に使えば、今までより大きな結界を作れますか?」
瑠璃は目を細めた。
「二枚では、あれを封じるほどの強度は出せませんわ。ですが、薄く広く張るだけなら――あれの注意を引くには十分な大きさにできます」
「封じなくていいんです。喰いつけば十分です。それを最後の餌にしましょう」
瑠璃は息を呑んだ。
残ったすべてを使う。
失敗すれば、もう札はない。
しかも相手は、自分が最も恐れる鬼蜘蛛。
手の震えが戻った。
紅緒は急かさなかった。
ただ、瑠璃の返事を待っている。
命令ではない。
自分の術を信じて、任せようとしている。
瑠璃はゆっくり息を吐いた。
怖い。
それは消えていない。
けれど、もう一人ではない。
「……よろしいですわ」
二枚の札を指に挟む。
「ただし、大月さん」
「はい」
「外したら、承知いたしませんわよ」
紅緒がほんの少し笑った。
「外しません」
瑠璃は前を向く。
鬼蜘蛛がこちらを睨んでいる。
二枚の札を宙へ放った。
「――上霞城の名において」
二つの術式が互いを支えるように光を結ぶ。強固な壁ではない。鬼蜘蛛を止めるための厚みを捨て、ただ大きく、目につくように広げた薄い結界が谷の手前へ立ち上がった。
鬼蜘蛛の動きが止まる。
そして、その巨体がゆっくりと大結界へ向きを変えた。
紅緒が弓を構える。
瑠璃も震える手を下ろさず、結界を維持する。
鬼蜘蛛が一歩、餌へ近づいた。




